第4話 床助、江戸へ行く

「はい、どうぞ。全部飲んで構いませんよ」

 俊介は、キャラメル・マキアートの入ったカップを紙袋から取り出し、床助の前に置いた。

「有難うございます、森田様。でも、全部だなんて、滅相めっそうもないことでございます。少し分けて下されば、十分でございますよ……。あの、森田様は、先ほどまでとは打って変わって、言葉遣いがずいぶん丁寧になられたような気がいたしますけれど、どうなすったんでございますか?」

「最初に床助さんと出くわした時、物凄くびっくりして、怖かったもので、あのような口の利き方をしてしまいました。大変失礼しました」

「私もびっくりしましたが、森田様も同じでございますよね。驚かせてしまい、こちらこそ済みませんでした」

「話を聞いているうちに、床助さんがまともな人、いえ、幽霊かな? そこはまだよく分かりませんが、とにかく、こちらに害をなすような人ではないと、思えるようになりました」

「え! 嬉しいことをおっしゃって下さいますなぁ。これまでこの部屋に越してきた学生さんは数え切れないくらいいましたが、そのような有難いお言葉を掛けて下さったのは、森田様が初めてでございます。何か、前世におけるえにしのようなものを感じますな」

「縁ですか? それはないと思いますけど」

「ほう、そうですかね。さて、これをいただきながら、……お、なかなか旨いですな……話を続けましょう」



 村で暮らすうちに、いつしか私の頭の中で、江戸の存在がだんだん大きくなってまいりました。そしてついには、江戸という巨大な渦の中に跳び込みたくて、居ても立ってもいられなくなったのでございます。

 と申しましても、新月村での生活に特段の不満があったわけではございません。治兵衛様も、先代ほど熱心ではないものの、ちゃんと親代わりを務めて下さいました。しかし、夜の仕事も含め、刺激の少ない村での生活に、いささか飽き足らなくなってまいりました。

 新月村は上州の片田舎とはいえ、江戸からさほど離れておりませんので、江戸のうわさも時々流れてまいりました。そうした噂は、その良し悪しに関わらず、私にはまばゆく輝いているように感じられました。そうして、江戸への憧れが日に日に募っていったのでございます。

 ところが、江戸へ行く機会は、思ったより早く、しかも突然訪れました。

 それは、福助と私が十五になった年の秋のことでございました。江戸・浅草を本拠とする見世物一座が、巡業で新月村からほど近い太田宿おおたじゅくにやってまいりました。

 太田宿に一泊し、人々から「呑龍どんりゅう様」と呼ばれているお寺の秋の祭礼に合わせて、見世物や芸を披露するというのでございます。名主の治兵衛様や、村の主だった人達が、家族を伴って見物にまいりました。幸い、兄と私も連れていっていただけました。

 一座は門前の広場に簡単な舞台と小屋をしつらえました。旗指物はたさしものには「軽業・軍談 福富座ふくとみざ」と書かかれております。そして、軽業、足芸、曲独楽きょくこま、講談、漫談、子供芝居といった芸を披露いたしました。また、山荒やまあらし鸚鵡おうむといった動物も、見世物として連れてきておりました。

 どれもこれも、新月村では見ることができないものですから、兄と私は夢中になりました。お峰をはじめ、私の「お得意様」となった女房達も来ておりましたが、旦那や子供が一緒でございますから、みな私には目もくれません。

 一座の出し物が終わったころ、座頭ざがしらである市之丞いちのじょう様が小屋から出てきて、広場にいた福助に声を掛けました。市之丞様は、40歳くらいの筋骨逞しい男の人でございます。旅回りで日焼けするのか、肌は赤銅あかがね色で、鋭い目つきをしていました。

 腰巾着のように福助に付いて回っていた私も傍らにおりました。しかし市之丞様は、私にはまるで気が付かないようでございます。

「おまえ、この宿場の子かい? 名は何という」

「私は新田郡新月村名主、治兵衛の子、福助と申します。本日は、大変結構なものを見せて下さり、ありがとうございました」

「ほほう、まだ幼いのに、しっかりしているな。お前、歳はいくつだ?」

「十五でございます」

「おお、そうかい。どおりで、しっかりしているはずだ。急な話でびっくりするかもしれないが、お前、俺たちと一緒に、江戸に行ってみたくはないか? 俺たちは江戸に見世物小屋を持っていて、そこでいろんな芸を見せている。今日お前が見た芸はそのごく一部だが、江戸じゃあ、ずっと大仕掛けだぞ。芸は、俺たちがお前に仕込んでやる」

「え! 誠でございますか。……ですが、急におっしゃられても……」

 福助は目を輝かしつつも、あくまで沈着冷静でございます。当然、自分の一存で決めるわけにはまいりません。

「実は、以前俺たちの仲間に、お前のように背の低い男がいたんだ。しかし、流行はやり病で、あっけなくあの世行きさ。危なくて子供にはさせられない芸もあるから、どうしてもお前のような男が必要なんだよ。めし住処すみかは面倒見てやる。芸が上達したら、給金も出してやるぞ」

「そうでございますか。結構なお話で、私に異存はございません」

「お! そうかい。こりゃ、有難てぇ」

「ただ、二つのことをお願いいたしとう存じます」

「何だい? 言ってみろよ」

「一つは、父・治兵衛の許しを得ていただきたいのです」

「そりゃそうだ。お前をさらっていくわけにもいくめぇ。これから、ちゃんと話を付けるよ。して、もう一つは?」

「ここにおります、私の弟・幸助も一緒にお連れ下さい」

「え? 幸助だと?」

 市之丞様は、初めて私に目を向けました。

「こいつ、お前の弟かい。俺はてっきり、ここいらの乞食こつじきの子が、勝手に付いてきているんだと思ったぜ。まあ、乞食の子にしては、身なりがさほど悪くねぇんで、変だなとは思ったんだが。それにしても、兄弟なのに、お前とはまるで似てねぇな」

「はい。ですが、間違いなく私の弟でございます。ほら、お前からもご挨拶するんだ」

 兄から促されますが、兄とは違い、とっさに気の利いた言葉が出ません。

「こ、幸助…で…ごぜぇます」

と言って、お辞儀を繰り返すばかりでございます。

「お前の得手えては何だ?」

「エテと言うと、エテ公のことで?」

「違うだろ、幸助。市之丞様は、お前が上手に出来ることは何だとお尋ねだ。そうですね、この者は、それこそましらのように身が軽く、木などにはスルスルと登ります。それから、屋根裏や縁の下といった狭い所にも、いともたやすく出入りいたします。ですので、軽業には向いているかと存じます」

 福助は私に代わって、数少ない私の長所を挙げてくれます。

「それから、腕力が強く、力仕事にはもってこいでございましょう」

「そうかい。ん? 幸助とやら。股座またぐらがやけに膨らんでるが、どうなってるんだ?」

 市之丞様は、さっと私の着物の裾を捲ります。

「やけに褌が膨らんでいて、ずっしりと重そうだな。よほどフグリがデカいのか。まあいいさ、お前も一緒に来な。さて、お前たちのに話を付けてくるとしよう」

 市之丞様は、治兵衛様の所に行き、話し込んでおりました。揉めると思いきや、治兵衛様はあっさりと承諾なさいました。市之丞様がいくばくかの金子きんすを積んだことは間違いございません。

 私たちは旅支度をするため、いったん村に戻りました。夕刻、治兵衛様やご家族に、暇乞いとまごいをいたしました。治兵衛様は、少ないが二人の分だとおっしゃって、餞別せんべつを兄に託して下さいました。

 翌早朝、座員の一人で弥太郎やたろうさんという若者が、村まで迎えに来ました。私達は——と言っても、ほとんど福助が話したのですが—―、集まった村人達にこれまでお世話になったことへのお礼を述べ、別れを告げました。

 私達が旅立つと、村人達の半分くらいが、村外れにあるほこらまで送ってくれました。その中には、お峰の姿もありましたが、特に言葉も交わしませんでした。

 前にも申しましたが、お峰はきつい性格で、私に対しましても、常に見下したような振る舞いでございました。とはいえ、肌を合わせ始めてからだいぶ経ちますし、お峰に対して多少の情は湧いておりました。それに、苦し紛れだとしても、「一生あなた様に仕える」などと、お峰に約束いたしました。ですから、心残りがなかったと言えば嘘になります。けれども、私たちの江戸行きは、治兵衛様がお決めになりましたので、今さらどうすることもできませんでした。

 ところが、太田宿に向かう林間りんかんの細道で、突然草むらからお峰が飛び出してまいりました。一番後ろを歩いていた私の袖を引っ張って、草むらに連れ込もうといたします。近道をして、私たちが通るのを待ち構えていたのでございましょう。

「なんで勝手に行っちまうんだい。さ、こっちにおいで。あたしと一緒に逃げるんだよ」

 押し殺した声で、私にささやきます。その表情はいつにも増して険しく、まるで般若面はんにゃめんのようでございます。

 しかし、すぐに弥太郎さんが異変に気付いて、お峰を追い払いました。

「確か、あれは村の女だな。何しに来たんだろう。それとも、お前のコレか?」

 弥太郎さんはニヤニヤしながら、左手の小指を立てて私に示します。私は、何と答えてよいか思い付きません。

「あれはお峰といって、所帯持ちですよ」

 ここでも、福助が助け舟を出してくれました。

「そ、そうなんです。お峰から小銭を借りたのですが、まだ返していないもので……」

 私は、とっさに嘘をつきましたが、弥太郎さんはそれ以上詮索しませんでした。福助は、なにやら苦笑いしております。

「そうだ、いい折りだからお前達に言っとくが、一座の女には絶対に手を出すんじゃねぇぞ。分かったか? 一度しか言わねぇからな」

「はい!」

「へい」

と答えつつも、村でのこれまでの行状を、弥太郎さんに見透かされているのではないかという考えが、私の脳裏をかすめました。

 後から知ったのですが、この一座は、諸国を巡業するだけではなく、新たに一座の一員になりそうな人を探し出し、勧誘するという役割も持っておりました。

 市之丞様の差配のもと、弥太郎さんがその役割を担っていたのでございます。弥太郎さんは、一座に先行して太田宿や周辺の村々を訪れ、人に関する情報を集めていたようでございます。ですから、吞龍様で私たちが市之丞様に声を掛けられた時、市之丞様はすでに、私たちについてある程度知っておられたのでございます。

 ところで、江戸に到着して半年くらい経ったころ、お峰が子を産んだと、風の便りに聞きました。茂助夫婦には長らく子ができなかったので、たいそう喜んだそうです。ただ、赤ん坊は色が浅黒く、顔は皺だらけだったといいます。ふふふふ……。


 福助と私は、太田宿で一座に加わりました。市之丞様が、一座の人々に私たちを紹介して下さいましたが、ほとんどの座員は何の関心も示しませんでした。それには、皆が長い巡業生活で疲労困憊こんぱいしていたことも関わっていたと思われます。と申しますのも、一座は約3か月間に及ぶ巡業の終盤に差し掛かっていたのでございます。

 江戸を立った一向は、宿場町や近隣の村々で興行を行いながら甲州街道を進みました。出し物の芸に必要な道具や見世物の動物は、すべて自分達で運んだそうでございます。2頭いた駄馬には山ほど荷を載せ、他は人力の荷車に載せたり、担いだりして運びました。

 信州の下諏訪しもすわ中山道なかせんどうに入り、江戸を目指しました。甲州街道も中山道も途中険しい山道があり、特に中山道の和田峠わだとうげ碓氷峠うすいは、難所として有名でございました。

 さて、私たちが加わった後、一座は熊谷くまがやで中山道に戻り、一路江戸を目指しました。江戸に到着するまで、新入りの私たちは、一座の人々に命じられるままに、荷物運びや雑用をこなしたのでございます。

 その間に気になりましたのは、道ですれ違ったり、同宿だったりした人達の、兄と私を見る目でございました。人々の視線に、何か尋常ではない、奇異なものを見るような、私にとってはあまり心持ちの良くないものを感じました。と申しますのも、新月村では名主様の家族の一員であったためか、私達の体の特徴について揶揄からかわれたり、ましてさげすまれたりすることはほとんどございませんでした。したがいまして、著しい背の低さに引け目を感じることもなかったのでございます。

 一座には、私達と同じように背の低い男が一人おりました。その男がどのような生い立ちなのか存じませんでしたが、どこか卑屈な感じがして、私はあまり馴染めませんでした。それが男にも伝わったのか、何かと私に辛く当たってまいりました。むろん、そんなことでへこたれる私ではございませんでしたが。

 一方、座員の一人で野菊のぎくという名の童女は、何かと私たち兄弟に親切にしてくれました。特に福助にはよくなついて、ちょっとした時を見つけては、福助のそばに来ておりました。

 野菊は十になるかならないかくらいの年恰好で、とても愛らしい面立ちでございました。野菊の役割の一つは、一座が連れている獣や鳥―—山荒、天竺鼠てんじくねずみ(モルモット)、鸚鵡、九官鳥きゅうかんちょうなど―—の世話でございました。

 それに加えて、興行が始まりますと、野菊は一風変わった芸を披露いたしました。普段は後ろで束ねております髪の毛をおかっぱにし、顔に化粧を施します。四季の草花をあしらった赤い絞りの振袖を着て、金糸銀糸が織り込まれた帯を締めますと、市松人形と寸分たがわぬ姿となりました。しかし、一風変わった芸と申しますのは、ここからでございます。

 市松人形となった野菊は、見世物小屋の中の目立つ場所にじっと立ち尽くし、半時でも一時でも、微動だにしないのでございます。本物の人形さながらに、まばたきさえいたしません。見物に来た人々は皆、まことの人形だと思い込んで疑いません。

「まー、愛らしい人形だねぇ。お前さん」

「ああ。こりゃぁ、まるで生きてるみたいじゃねぇか!」

 いたく感心しながら、野菊扮する市松人形に見惚みとれております。

 ところが時折、思いがけず野菊が動くのでございます。例えば、首を振って見物人を見回したり、手から下げております巾着きんちゃく袋を、もう一方の手に持ち換えたりいたします。おちょぼ口の両端を少し上げて、微かに笑うこともございました。虚を突かれた見物人の驚きは大変なもので、大の男が悲鳴を上げて逃げていくことも稀ではございませんでした。

 他の座員から聞いたのでございますが、野菊は3年ほど前に一座に加わりました。一座が九州巡業の途中、島津様のご城下にまいった時でございました。いつの間にか一人の童女が、楽屋に出入りしております。それが野菊でございました。追い払っても、すぐに戻ってまいります。座頭の市之丞様が、野菊を呼び止めました。

「お嬢ちゃん、ちょっとおいで。お前、ご城下の子かい?」

 野菊はかぶりを振ります。

「おとうやおかあは、どこにいるんだ? お家は?」

 野菊はやはり頭を振るばかりでございます。

「するってぇと、お前、孤児みなしごなのか?」

 今度は、こくりと頷きます。

「そうか。それにしちゃぁ、まともな身なりをしているな……。で、俺の一座に入りてぇのか?」

「あい」

 野菊は、消え入りそうな声で、しかしはっきりと答えます。

「そうか、分かった。いちおう代官所にお伺いを立てて、お許しが出たら入れてやるよ。かどわかしを疑われちゃぁ、困るからな」

 市之丞様の尽力もあって、野菊は一座に加わりました。ただ、他の座員とはあまり打ち解けず、一人黙々と動物の世話をしていることが多かったと聞きます。

しばらくして、市之丞様の発案で、例の市松人形の芸をするようになりました。ところが、それが座員の眼にもいささか異様なものに映ったようでございます。

「おい。オメエ、野菊をどう思う?」

「どう思うって、小便臭い小娘だろ? 口数は少ねぇが、よく見るとなかなかの別嬪べっぴんだぜ。年頃になったら、いい女になるんじゃねぇか。俺の嫁にするかな」

「馬鹿! オメエ、市松人形の芸を見てねぇのか?」

「まだ見てねぇ」

「俺は見た。客は皆びっくりして、中には腰を抜かす奴もいた」

「ヘエ、そりゃぁすげえなぁ。俺のやる曲独楽なんぞ、みんな欠伸あくびしてるな」

「自慢げに言う奴があるかよ。それでな、野菊は本物の市松人形みてぇに、ずっと動かないし、瞬きもしねぇんだ。見てると、薄気味悪くて、寒気がしてくらぁ」

「瞬きしない……。目が乾くだろうな」

「そこよ、薄気味悪りぃのは。普通の人間にはとてもできることじゃないぜ。あの小娘、どこか変だ」

「ほんとかよ。嫁にするのは止めておくか」


 江戸に到着いたしますと、一座の人々の顔には、いちように安堵の表情が浮かびました。

 福富座の見世物小屋は、浅草寺せんそうじの裏手に広がる奥山おくやまと呼ばれる場所にございました。ここは、見世物小屋や芝居小屋などが集まった、江戸でも屈指の賑わいをみせる所でございました。

 一座のうち、所帯持ちは各自が借りた長屋に住み、独り者は福富座が借りた長屋で、男女別の集団生活でございます。いずれも、見世物小屋には歩いて行けるくらいの場所にございました。福助と私は、一座の雑用をしながら、色々な芸を少しずつ教えていただいたのでございます。

 江戸に着いてから数日後、市之丞様の計らいにより、座員を集めて甲州街道・中山道巡業を慰労する催しが行われました。巡業後に行われる恒例の行事だそうでございます。

 福富座の見世物小屋に座員が集まり、大人には酒やさかな、子供には駄菓子が振舞われました。宴がたけなわになりますと、大人達が順番に、これまで見たり聞いたりした面白いこと、珍しいこと、怖かったことなどを語り始めました。どこまで本当なのか、真偽のほどがはっきりしない話ばかりでございました。

 その中に、薩摩出身の老人がおりました。普段は雑用や、客から木戸銭を受け取る役をしております。老人の話は、鹿児島のお城にまつわる怪談で、舞台はお城が築かれた頃に遡りました。お城のお堀に架かる七本の石橋には、特別な仕掛けが施してあって、橋のたもとにございます要石を外すと、一瞬にして橋が崩れるというのでございます。もちろん、敵の襲撃からお城を守るための仕掛けでございます。

「その仕掛けは、そんじょそこらの石工いしくなんぞに造れるもんじゃない」

 老人は、訳知り顔で語ります。

「隣の肥後の国に、そうした絡繰からくりを造る技を持った石工の村があった。島津様は、密かにその者達を呼び寄せ、橋を作らせた。橋は見事に出来上がり、石工達は驚くほどたくさんのご褒美をいただいたのじゃ」

 あまり面白くもなさそうな話なので、一座の中には居眠りをする者もおります。

「石工達は、たくさんのご褒美と、村に帰れる喜びで、足取りも軽く肥後に通ずる道を急いでいた。ところがじゃ、国境の手前まで来た時、道の両側に広がる森の中から、ばらばらと侍の一団が飛び出してきた。みな覆面をしておる。ただちに抜刀したかと思うと、『きぇー!』という奇声を発しながら、石工達に斬り掛った。石工達は逃げる間もなく、一人残らず初太刀で倒され、近くの森の中に打ち捨てられたのじゃ。それからじゃな。鹿児島のご城下に、時折石工の死霊が現れるようになったのは。今でも――」

 老人がそこまで話した時でございました。

「ぎゃー!」

 すぐ近くで、人間のものとは思われぬ異様な叫び声が発せられました。皆の視線はいっせいに、叫び声の方に向けられます。そこには、野菊が立っておりました。その辺りはほの暗くなっておりましたので、野菊の顔ははっきりとは見えません。しかし、それはいつもの童女らしい愛らしい顔はなく、般若かと見紛うような恐ろしい顔のようでございました。

 皆があっけに取られているうちに、野菊は小屋から飛び出していきました。福助と私は、すぐにそのあとを追いました。しかし、福助よりはるかに足の速い私でさえ、野菊を見失ってしまいました。その後、野菊の姿を見た者は一人としてございませんでした。

 市之丞様は中座されており、その場にはおられませんでした。後からその話を聞いて、もしかすると野菊は人ではなく、ものだったのかもしれないとおっしゃっておりました。老人が話した石工殺しと、何らかの繋がりがあったのやもしれませぬ。


《続く》

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