第三十五話  都々自売の帰還

 長尾ながおのむらじの屋敷。


佐久良売さくらめ姉さまっ!」 

 

 下野国しもつけのくにに避難していた佐久良売の同母妹いろも都々自売つつじめが、帰ってきた。


都々自売つつじめ!」


 姉妹は、かたく抱擁ほうようをした。


「よくぞご無事で。さあ、抱いてくださいまし。あたくしの息子、寺勝てらかつです。あともう少しで、一歳ですわ。」

「まあ!」


 女官の塩売しおめと、乳母ちおもが、都々自売つつじめのあとに控えている。

 乳母ちおもの腕には、まるまるとした緑兒みどりこ(赤ちゃん)がいた。


「可愛い!」


 佐久良売は微笑み、乳母ちおもから緑兒を受け取り、抱っこする。


「あうう〜、あ?」


 ずしりと重たく、腕はむちむちと柔らかく、肌がスベスベしている。


 都々自売つつじめつま、涼しげな目もと、上品な顔立ち、顎が小さめの寺麻呂てらまろが、都々自売つつじめに悲しげな声をだした。


都々自売つつじめ! つまたる私もまだ、我が子を抱いていないのに、先に、佐久良売さまに抱かせるのかい?

 あんまりじゃないか?」

「い───んです! お姉さまが先なの!」


 祖父となった佐土麻呂さとまろが、


「じゃ、次、私に抱かせて……。私、祖父だぞぉ……。」


 と相好そうごうを崩すが、都々自売つつじめが、冷たい微笑で、


「次は寺麻呂さまの番です。」


 と、佐土麻呂に言い放つ。


「そんなぁ……。」


 がくり、と佐土麻呂は肩を落とす。


 ちなみに、佐土麻呂は、焼けた正殿の脱出のさい、たいした火傷もなく、今は挫いた足も治った。

 日頃の行いが良かったのであろう。


 佐久良売が笑って、品の良い口髭くちひげを生やした寺麻呂を見た。


「ふふ。寺麻呂さま、どうぞ。」

「佐久良売さま、ありがとう。」


 寺麻呂は、戰ゆえ、生まれてからまだ一度も抱いていなかった我が子を、やっと、抱いた。


都々自売つつじめと、私の息子……。」

「そうですわ。」

「く……。」


 それ以上、言葉にならず、寺麻呂は泣きはじめた。


「あぎゃーん!」


 緑兒みどりこは、自分を抱く人の表情に敏感である。緑兒はすぐに、怒ったように泣き始めた。


「わ、どうしよう。」


 寺麻呂は慌てふためき、汗をかいた。

 都々自売つつじめ緑兒みどりこを受け取り、


「困ったお父さまですねえ、寺勝てらかつ? 泣いたらびっくりしちゃうわよね、あっぶっぶー。」


 とあやしはじめる。


「うぅ。私、父親なのに……。」


 寺麻呂は悲しそうにする。


「毎日、たくさん抱いて、遊んでやってくださいまし。寺勝てらかつはすぐになつきますわ。血を分けた息子なのですから。」


 と都々自売つつじめがにっこりする。


「早く抱っこしたい……。」


 佐土麻呂が指をくわえて、孫を見る。


「い・ま・泣・い・て・ま・す・わ!

 あとにしてくださいまし。

 これからは、一緒に住むのです。

 いくらでも、機会はありますわ。」


 都々自売つつじめがイラついた笑顔で佐土麻呂に答える。

 真比登はつい、


「ふふっ。」


 と笑ってしまい、佐土麻呂にじろり、と見られた。


(うっ。)


 真比登は愛想笑いをして、視線を泳がせた。

 都々自売つつじめが真比登を見た。


軍監ぐんげん殿どの。お姉さまを、寺麻呂さまを守ってくださり、ありがとうございます。

 戰の勝利に、多大な貢献をなさったと聞きました。

 心から感謝いたします。」

都々自売つつじめさま。もったいないお言葉です。」


 真比登は礼の姿勢をとり、


「オレはもう、征討軍の軍監ぐんげんではありません。

 今は、長尾連ながおのむらじの衛士団長えじだんちょうです。」

「ああ。そうでしたわね。」


 寺麻呂が、


「真比登殿は、まこと建怒たけび朱雀すざく。戰場では抜きん出て勇猛果敢であった。

 そのような方を、衛士団長に迎えられて、こんなに頼もしいことはない。」


 と、真比登を見て、都々自売つつじめを見た。  


「あたくしも嬉しいですわ。」


 都々自売つつじめは、やっと泣き止んだ寺勝てらかつを、佐土麻呂の腕にうつし、佐土麻呂は、


「ほっほっほ……。」


 と上機嫌に笑う。

 都々自売つつじめは、寺麻呂に寄り添い、手をつなぎ、寺麻呂を見上げた。


「寺麻呂さま、やっと一緒に暮らせるのですね。」

「そうだ。都々自売つつじめ……。」


 二人は幸せそうに微笑み、見つめあった。

 塩売が、


若大根売わかおおねめ、どうしたの?」


 と若大根売に不思議そうにたずねた。

 若大根売わかおおねめが、無言で悲しそうに泣いている。


 佐久良売がそっと、若大根売わかおおねめの隣に寄り添い、背中をさすった。


「塩売。若大根売わかおおねめはね、みなもと……、真比登のかわりに、あたくしと縁談をした鎮兵ちんぺいと恋仲になったの。

 婚姻の約束をして、でも、婚姻をする前に、夢を追って、奈良に行ってしまったわ。

 もう半年も前の事よ。

 それでね……、若大根売わかおおねめのお腹には、彼の緑兒みどりこがいるの。」

「えっ!」


 塩売と、都々自売つつじめも驚く。若大根売わかおおねめは、はらはら、と涙をこぼした。


「すみません……。寺麻呂さまを見ていて、源も帰ってきたら、あたしがいずれ産む緑兒を、こんなふうに抱っこしてくれるのかな、と思ったら……。」

若大根売わかおおねめ……。」


 佐久良売が若大根売わかおおねめの背中をさすり、塩売が腕をさすった。




     *   *   *




 佐久良売、都々自売つつじめ

 女同士で、ゆっくり、白湯さゆを飲み、干柿を食べる午後。


 緑兒みどりこ寺勝てらかつは、乳母ちおもと塩売が、庭を散歩し、日光を浴びさせている。


「お姉さま。里夜りやの姿が見えませんわね。」


 にゃあん、と鳴く、姉妹が幼い頃から一緒にいてくれた猫。

 白い毛、黄色と土器かわらけ色の斑斑むらむら(ぶち)模様。

 姉妹の膝にのり、ごろごろと喉を鳴らし、したっ、したっ、と尻尾を揺らしていた、愛らしい猫は……。


 佐久良売は、須恵器すえきつきを、机にコトン、と置いて、悲しみに目を伏せた。


「……里夜りやは、里夜は……。桃生柵もむのふのきが焼け落ちた日を境に、姿を消しました。」

「そう……、里夜は、桃生柵もむのふのきと逝ったのね。

 お父さまを、お姉さまを、守ってくれたのかもしれません。」

「ええ。」


 佐久良売は、燃える正殿せいでんを脱出する時、揺れる白い光のたまを見た。


(もしかしたら……。あれは、里夜りやの魂で、あたくしを、お父さまを守ってくれたのかもしれない。)


「もう、里夜りやには会えないのですね……。」

「ええ。」


 姉妹は、抱き合って、泣いた。




   *   *   *




 桃生柵もむのふのきは、燃え落ちた。

 山の上の屋敷は、再建されなかった。

 桃生柵もむのふのきは、放棄されたのである。


 もちろん、山裾に広がっていた家々には、桃生柵もむのふのきに避難していた人々が戻り、再建が始まっている。

 平地には、人々の暮らしが戻り。

 山の上は、今後は、ただの山として、長い年月がたてば、緑に覆われていくのだろう。



 トイオマイの地は、遠山郷とおやまのさとと名を変え、大和朝廷の土地に組み込まれた。

 蝦夷は完全にいなくなり、柵戸きのと(大和朝廷が用意した移住者)が、もう、住み始めている。

 開墾を始めたばかりの年は、租庸調そようちょう(税金)が免除される。与賊接居よぞくせっきょ……まつろわぬ蝦夷が近くに住んでいる事も、考慮してもらえる結果だ。

 しかし、その温情は、いつまで続くか、わからない。

 柵戸きのとは、開墾をひたすら、急がねばならない。



 長尾連ながおのむらじは、陸奥国みちのくのくにの桃生もむのふのこほり少領しょうりょうを解任された。


 桃生柵もむのふのきを燃やしてしまったとがであろう。


 しかし、大きな懲罰といったものはなく、陸奥国みちのくのくにの小田おだのこほり少領しょうりょう任地替にんちがえとなったのだから、けして悪い仕置しおきではない。


 そう、ここは、小田おだのこほり小田郷おだのさと───。


 真比登が生まれ育った、小田おだのこほり嶋田郷しまだのさとの近く。


 真比登は、嶋田郷しまだのさとの郷長より上に位置する豪族、少領しょうりょうの婿となったのである。

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