第三十一話  黒柿把鞘刀子

 正殿せいでんの前に走ってきた古志加こじかは、


「いや───っ!

 わあぁぁぁぁ!」


 と半狂乱になって泣き叫ぶ、佐久良売付きの女官、若大根売わかおおねめを見つけた。

 兵士に腕を掴まれているが、その腕を離されれば、今にも正殿のなかに駆け込んでしまいそうだ。

 

(……佐久良売さまは、正殿のなかにいる。)


 古志加は正確に状況を見てとった。

 正殿はメラメラと燃える炎に包まれている。かろうじて、入り口は燃え落ちていない。


(死ぬかも。)


 予感にとらわれつつ、


「ちょうだい!」


 近くにいた郷人さとびとから、井戸からくんだであろう水桶をひったくり。


 ざぶ。


 自分の頭の上から、かける。


「若大根売。あたしが、佐久良売さまを連れ戻す。」


 ぷるぷるっ。


 頭をふり、余分な水を飛ばしたので、馬の尻尾のように結った髪の毛の先から、水滴がまわりに散った。


「こ、古志加、古志加……。なかに、佐土麻呂さとまろさまと、あたしの兄もいるの……。」


 佐土麻呂さとまろさまは、桃生柵もむのふのき領主。佐久良売さまのお父上だ。

 若大根売わかおおねめは、ぐしゃぐしゃに泣いている。


「わかった!」 


 古志加は手布で、鼻、口をおおい、首の後ろでしばり、迷わず、黒い煙を吐き出す、正殿の入り口に駆け込んだ。








(うわ……、すごいな。)


 もう、火の手が、ほとんどまわってしまっている。

 かろうじて、古志加の走る道は残されているが、火の海だ。

 倒れた柱が。横倒しになって燃える倚子が。なんとも無惨だ。


(走れ、走れ!)


「佐久良売さまぁー! 佐土麻呂さとまろさまー! お兄さーん!」


(あれ……? あたしのお兄さんみたい?)


若大根売わかおおねめのお兄さーん!」

「ここだ……! オレは可愛い若大根売わかおおねめの兄だ!」


 若大根売わかおおねめそっくりのお兄さんが、佐土麻呂さとまろさまに、肩を貸しながら、歩いてくる。

 佐土麻呂さとまろさまは、足を痛めているようだ。


「大丈夫ですか?」


 古志加は駆け寄り、さっ、と佐土麻呂さとまろさまに、肩を貸す。


「おお、古志加! その姿は……。

 そうか、おまえは、たった一人の女兵士でもあったな?」


 古志加は、佐久良売さまの女官として仕えた時、佐土麻呂さまに、朝餉あさげ夕餉ゆうげの時間に会っている。

 当然、女官の姿であり、女兵士としての姿を佐土麻呂さまが見たのは初めてだ。


!」

「佐久良売を、救ってくれ。この通路の奥、つきあたりの部屋に……、一人で行ってしまった。」

「どういうことですか?」

「おそらく、自分の命を持って、この炎を鎮めるつもりなのだ……。なぜならこの桃生柵もむのふのきは、藤原……。」

「バカな!」


 古志加は最後まで話を聞かなかった。

 佐土麻呂さとまろさまの肩を支えるのをやめ、


「まだ入り口は、燃え落ちていません。早く逃げてください!」


 言いおいて、奥に走り出す。


「頼む、頼むぞ、女兵士よ……。」

「さぁ、行きましょう、佐土麻呂さとまろさま。頑張るんですよ!

 希望を持って!」


 ごうごう、燃え盛る音のなかで、そんな声が、古志加の背中に、聞こえた。




    





 走る。


 走る。


 古志加は走る。


 降りかかる火の粉にびくともしない。


 奥の部屋。


(いた! 佐久良売さまだ!)


 遠く、女の後ろ姿が、見えた。


 と思ったら。




 上から、燃えるはりが落ちてきて、どどぉん、と轟音とともに、古志加の行く手を塞いだ。





   *   *   *





 佐久良売は、首に、刀子とうすをあてた。

 いつも持ち歩いている、真比登との初夜にもらった、守り刀。

 黒柿把鞘くろがきのつかさやの刀子とうすだ。


(もう、死のう。)


「愛してるわ、真比登。

 あたくしの愛子夫いとこせ

 出会えて、良かった。」

「やめろっ!」


 ごうごうと焔が燃え盛る音のなか、明確な女の声がした。

 首に刀子とうすをあてたまま、佐久良売が驚きに振り向くと、燃えるはりを、ぴょん、とまたいで、古志加が駆け込んできた。

 口と鼻を布で覆っている。


「あ……。」


(古志加? どうしてここに?)


 古志加は佐久良売の右腕を掴む。

 佐久良売は抵抗したが、古志加の力は強く、あっさり、右腕を降ろされ、抜き身の黒柿把鞘くろがきのつかさやの刀子とうすは首から遠ざかった。


(無礼な!)


 佐久良売が叱り飛ばしてやろう、と眉を立てた次の瞬間。


 古志加の左の握りこぶしが顔正面に飛んできた。


 鼻の高いところ、顔の真ん中を殴打され、頭がガクンと後ろに揺れ、


「きゃっ……!

 な、何するのよぅ、ひどいわ、古志加……。」


 佐久良売の心は、折れた。


 もしこれが、頬の平手打ちだったら、佐久良売は怒りとともに、平手打ちをやり返していた。

 佐久良売は、采女うねめの経験がある。

 おみなの頬をたくさん打ってきたし、打たれもした。

 平手打ちは、慣れている。

 しかし、この身分ある美女の顔を握り拳で打ってこようとするものは皆無であった。

 古志加は手加減して殴った、その証拠に鼻血もでていないのだが、生まれて初めて握り拳で殴られ、おみなとして、おびえてしまったのである。


 古志加は、ぴっ、と口元を覆った布を首にずらした。

 怒りを宿す美貌の顔があらわになる。


「ひどいもくそもあるかっ!

 自ら黄泉にくだろうとするほうが、よっぽど悪いっ!」

「あなたは……、見えないのよ、朝獦あさかりさまの怒りが。」


 佐久良売は弱々しく答える。


「あん?」

「炎のなかに、朝獦さまが、鬼(この場合、幽霊)となって、いるのよ……。」

「どこに?」


 佐久良売は、近くの柱を震える手で指差す。




 ───はやく、死ね。




 と、朝獦さまが炎の化身となり、佐久良売をにらんでいる。

 古志加は、佐久良売の指差す方向に目をこらしたあと、きっ、と佐久良売を見た。


「あたしには、見えない。そんなもの、いない。」

「あなたには見えないの。

 朝獦あさかりさまと、えにしを結んだあたくしには、見えるのよ。」


(あんなにしっかりと。恐ろしい……。)

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