第十三話  記憶にない夜

 佐久良売さくらめの部屋に入ってきた古志加こじかは、女官姿で、ぽろぽろ、泣いている。

 若大根売わかおおねめは、古志加の背中をさすりながら、


「古志加が朝からずっと泣き止まなくて……。

 本当は、兵士として務める日ですが、今日は、女官として務めさせても、よろしいですか?」


 と、佐久良売にすがるような目線をむける。


「事情次第よ。」

「うっうっうっ……。」

「何を泣いているの、古志加?」

「うっ、あたし……、うっ、うっ……。」

「あなたの想い人が奈良に行ったから?」


 古志加の片思いの相手、いつもムスッと可愛げのない表情の、大川様の従者は、奈良に行ってしまった。

 しかし、それは昨日の話で、


「あなた、昨日の早朝、大川さま達を見送ったあと、兵士として普通に戰場に立っていたでしょう?

 なんで今朝になって、そんなになってしまっているの?」


 若大根売わかおおねめが、


「古志加と同じ部屋の女官が、以前、酔いつぶれた古志加を、大川さまの従者が、夜、女官部屋まで送ってきた事があるって、古志加に言っちゃったんです。」



     *    *   *




 昨日の夜。


 古志加が戰場で汗を流し、鎮兵の皆と夕餉を囲み、花麻呂に送られて、女官部屋に帰ってくると。


「ねえ、言っちゃう?」

「もう、いないしね。」


 と、女たちが古志加を見て、こそこそ、言っている。

 ちなみに、若大根売わかおおねめは、佐久良売さまお付きの女官として、一人部屋を与えられていて、ここ、十人の女官部屋にはいない。


「なあに?」


 古志加が首をかしげて訊くと、


「去年の冬だけど、大川さまの従者が、一人で、夜、あなたをここまで送ってきた事があったのよ。」


 と、女官の一人が言った。


「えっ? 三虎が?」

「眠ってるあなたを、こう、両腕に抱きかかえて……。」


 きゃあっ、と女官たちが嬉しそうな声をあげる。


「夜もけっこうふけた頃だったわぁ。」

「ここに送られてくる前に、二人きりでいたって事でしょう?」

「男女二人が! 夜に!」


 きゃあっ、とまた皆、声をあげる。


「でも、あの従者に喋ったら斬るって言われて……。」

「どうやら、あの従者、上野国かみつけのくにではエライ家の出らしいじゃない?」

「きいたら、佐久良売さまと同じくらい、良い身分の家なんですってね。

 だから、斬るっていうのも、あながち冗談じゃないかもしれないから、怖くて、今まで言えなかったの。」

「本当はあの夜、何かあったんじゃ……。」


 きゃあっ、と皆よろこぶが、古志加は頭がガンガンするような衝撃をうけた。


(記憶にない。知らない。)


「いつの話?」

「去年の十一月のはじめよ。」


 記憶がなくても、もし、三虎と男女の仲になったのなら、きっと、身体の変化に翌朝、気がつくはずだ。

 そんな変化は、何もなかった。

 という事は、酔って眠ってしまったあたしに……。三虎は……。



 何もしなかった。



(あたしはそんなに、三虎におみなとして見られていないのか。)


「うえええええん……。」


 古志加は泣き出した。


(いつか将来、おみなとしてねやに呼ばれるなんて、絶望的だ。)


「わっ、泣いちゃった!」

「どうしよう!」

「泣き止んで。ごめんなさい、言うんじゃなかったわ。」


 皆、口ぐちに謝ってくれたが、古志加は泣き止むことができない。

 ただでも、三虎が奈良に行ってしまって、寂しさを堪えるのに精一杯なのに、この事実はこたえた。


「えええん……。」


 古志加は泣き続け、寝床に入っても、


「ぐすっ……、ぐすっ……。」


 とまだ泣き続け、翌朝になっても、


「うっうっうっ……。」


 と泣き続ける。女官部屋の皆は閉口し、


「ごめん、本当にごめん古志加。」

「あなたの気持ちをもっと考えるべきだったわ。」


 と、しおらしく謝った。

 そして、若大根売わかおおねめに相談したのである。




    *    *    *




 佐久良売はこめかみをもんだ。


(まったくあの従者め……。そのような機会があったのなら、さっさと手折たおってしまえば良かったものを。)

 

「古志加、今日は、女官として務めなさい。

 若大根売わかおおねめ、真比登のところに、そう伝えに行ってくれる?

 帰りに、医務室に、あたくしは午後から顔を見せると伝えてきて。」

「はい。」


 若大根売わかおおねめは礼の姿勢をとり、すぐに部屋を出る。


「古志加、いらっしゃい。」

「はい。……ひっく。」


 ぽろぽろ涙をこぼしながら、古志加が来た。

 佐久良売は手布をだし、その涙をぬぐってやる。

 泣き続け、むくんでひどい顔だ。

 でも、丁寧に顔をぬぐうと、輝くように美しい、若い女の顔があらわれる。


「古志加、泣き止みなさい。」

「うっうっ……、自分でも、とめられないんです。お許しください。」

「では、なんで泣いているの? 何が悲しいの、古志加。」


 この問いには、答えに少し間があいた。


「あたし、三虎の妻になれなくても、吾妹子あぎもこ(愛人)の一人になれれば、ってずっと思ってました。

 うっ、うっ……。

 吾妹子あぎもこが無理なら、せめて、一夜だけでも、共に過ごしてみたい。

 今でなくても、いつか、この先。そんな日が来ますように。そう願っていました。

 グスン……。

 でも、今回のことで、わかったんです。

 三虎は他に、たった一人の心に決めたおみながいるし、あたしをねやに呼ぶ日も来ない。

 あたしは三虎にとって、おのこと同じなんです。

 ううっ。

 おみなとして見てもらえない……!」


 わあああああん、と美貌のおみなは大泣きしはじめた。

 これだけ美しいおみなの口から聞くには、ちぐはぐな言葉であるが、古志加を着飾らせたあの日、石上部君いそのかみべのきみの三虎みとらが古志加を見た時の、朴念仁ぼくねんじんな顔を思い出すと、古志加がこう悩むのも理解ができる。


「古志加。あたくしの話をききなさい。

 あなたは今、あの従者を諦めるしかない、と頭で判断して、でも、心で、諦めたくない、と抗っている状態よ。

 だから涙が止まらないの。

 そんなに泣く力があるのなら、まだ、もう一踏ん張りしなさい。

 いい?

 おのこの気をひくの。

 石上部君いそのかみべのきみの三虎みとらの気持ちを、あなたに向かせるの。」

「あたしには無理です。」


 古志加は涙を振りこぼしながら、首をふる。


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