第九話  洞穴の目

「オレ、朝獦あさかりさまに、猫のお守りとして拾われました。

 里夜りやの仮の名前を、オレは知ってます。

 麦刀自むぎとじ……。

 違いますか?」

「えっ……? ええと……。違わないわ。」

「オレ、幼い佐久良売さまに、一回だけ会ったことがあります。」

「ええ?!」

「会ったっていうか……、すれ違っただけですけど……。麦刀自むぎとじ桃生柵もむのふのきまで連れてきたのは、オレなんです。桃生柵もむのふのきから去る時、あれは佐久良売さまが……。いくつだったのかな?」

「八歳ね。」

「八歳の女童めのわらはが二人、あと、よっちよっち歩いてる女童めのわらは……。」

「まあ! 都々自売つつじめ塩売しおめね。」

「ええ、今思えば。

 八歳の佐久良売さまは、やっぱり、どの子よりも綺麗で、光り輝くようで、十三歳だったオレは一瞬、見惚れたんです。

 豪族の娘なんて、見たのは初めてで……。」

「…………。」


 佐久良売さまは難しい顔をして宙をにらんだ。


「佐久良売さま?」

「駄目だわ。ぜんぜん、思い出せないっ!!」


 佐久良売さまは、ぶんぶん、と頭をふった。


「そりゃあ、ちょっとすれ違っただけでしたから。」

「十三歳の真比登、見たかったわああ! きっと可愛かったでしょうに。」


 佐久良売さまは、悔やんでも悔やみきれぬ、というように、眉根を複雑怪奇に寄せた。

 真比登はくすくす笑う。


「可愛くなんてありませんよ。もう疱瘡もがさ持ちでしたし、ただの郷のわらはでした。」




   *   *   *



 己亥つちのといの年。

(759年、天平宝字てんぴょうほうじ三年、今より16年前)



 八歳になった佐久良売は、朝獦あさかりさま到着の知らせを受けて、桃生柵もむのふのきの広庭を歩いた。

 たくさんの人とすれ違う。

 あたりは人が多く、なかなか、目当ての朝獦さまが見つからない。


朝獦あさかりさまっ!」


(やっと見つけた。)


 佐久良売は笑顔になり、駆け出した。

 うしろに同母妹いろもを置き去りにする事になるが、三歳児に歩調をあわせると、遅くてかなわない。

 きちんと乳母ちおもがつきそってるから、自分だけ先に走っても良いはずだ。


 佐久良売のお付きの女官であり、乳姉妹ちのえもである古富根売ことねめが、佐久良売の後ろを駆け足でついてくる。


(お会いしたかった!)


朝獦あさかりさま、お久しぶりです!」

「佐久良売、元気だったかい?」


 朝獦あさかりさまはあいかわらずかっこよく、これぞ貴族、という、余人よじんではあり得ぬ強い気配を放ち、立ち姿だけで高貴だった。

 大人たちと話す時は厳しい顔だが、佐久良売には、微笑んでくれる。


 佐久良売の目は、朝獦あさかりさまの笑顔を見あげたあと、ちょうど目の前の高さ、朝獦あさかりさまの抱える、フサフサの毛の、小さな動物に吸い寄せられる……。


「約束通り、小さな郎女いらつめ(レディ)の為に、猫を連れてきたよ。」


 にゃあ。


 その動物は、なんとも愛くるしい声で鳴いた。


(これが、猫! なんて可愛い!)


「ありがとうございます! 名前は?」

麦刀自むぎとじ。でもこれは仮の名前だ。名前は佐久良売が決めなさい。嫌がることをするとひっかくから、気をつけて。尻尾は握らないように。とくに嫌がる。」


 と、朝獦さまが猫を手渡してくれた。毛並みがふわふわだ。かり、猫の爪が佐久良売の肩にあてられた。衣にはばまれ、痛くはない。


(可愛い───!)


 佐久良売は、この猫が、もう大好きになった。


(早く名前を決めてあげたい。)


 佐久良売は、集中して思考しはじめる。


 にゃん。


 猫は腕をするりと抜け、下に降りた。乳母ちおもが赤い紐を持ってくれた。


(和歌を即興で披露しよう。

 よく勉強しているね、と朝獦さまから褒めてもらえるかもしれない。

 大好きな朝獦さまの名前をいれたい。

 朝獦さまは平城京のエライ方だから、それをたたえるような、宮人みやひとという言葉を入れよう。

 枕詞も優雅に入れたい。ええと、ええと……。)


や、そらみつ大和やまと宮人みやひとの、若駒わかこまめて、走り乗り見ゆ。(※注一)」


 八歳である佐久良売が上手に和歌を歌ったことに、皆が、ほーっ、と感心のため息をもらしてくれた。

 佐久良売は得意になり、


「猫の名前は朝獦にしますわ!」


 と笑顔で言った。

 その場の空気が凍りついた。

 朝獦さまからも、笑顔が消えた。


(あっ……! しまった。

 浮かれて、貴族の名前をそのままつけるなんて。)


 朝獦さまからは表情が抜け落ち、ぽっかり穴のあいた、暗い洞穴ほらあなのような目で、佐久良売を見下ろした。







 怖い。






 真っ黒く闇の深い瞳で見つめられ、氷の矢で射られたように、ひゅっ、と息がつまり、背筋が、ぞぞっと震えた。


 誰しも、動かない。


 謝ろうにも、舌が凍りついたかのように、動かせず、一言も喋れない。

 カタカタカタ……、佐久良売は細かく震えだした。


「ふっ。」


 朝獦さまが短く吐息をはき、空気がやっとゆるんだ。


「その名前はいけないな、佐久良売。

 ああ、いけない。

 和歌は良い出来だ。宮人、私が狩りをする様を、伸びやかに歌うことができたな。

 和歌に免じて……。

 そうだな……。

 朝獦や、の、二文字だけ許そう。、その猫の名前は、にしなさい。」


 佐久良売は、はああっ、とやっと息を吐いた。

 緊張で、ずっと、息が止まっていたのだ。

 乳母ちおもが、


「ご温情に感謝いたします。陸奥国みちのくのくにの鎮守府ちんじゅふ将軍しょうぐんさま。さあ、佐久良売さま、早くお礼を! 早く!」


 と佐久良売をうながし、


「ご温情に感謝いたします。」


 と礼の姿勢をとった……。






   *   *   *






「それで、里夜りやという名前なのですね。」

「そうよ。あの方は、わらはだったあたくしに優しかったけれど、同時に怖い方でした。」

「なんとなく、わかります。」

「結局、あたくしは、直接会ったのは八歳が最後よ。真比登は?」

甲辰きのえたつの年(764年、天平宝字八年)、十八歳の時です。」





   *   *   *




 (※注一)……朝の狩りであろう、大和朝廷に仕える宮人が、若い立派な馬を並べて、走ってゆくのを見た。


 そらみつ、は、大和の枕詞。





 真比登の章、「第三十三話  米菓子美味しいです。」で、真比登が猫の里夜りやを、麦刀自むぎとじ、と呼んでいるシーンがあります。





 

 

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