第八話  六歳児は言葉は言えても漢字がわからない。

「あたくしが、藤原ふじわらの朝獦あさかりに出会ったのは、六歳の時……、丁酉ひのととりの年(757年)だったわ。

 相模国の少領であったお父さまが、桃生柵もむのふのきの領主となるよう任じられて、一家四人で桃生柵もむのふのきに移住してきたの。

 あたくしの同母妹いろもは、まだ一歳で、母刀自も、あの頃はまだ存命でした。

 長尾連ながおのむらじに仕えてくれていた家も、一緒に引き連れて移住したわ。

 あたくしは、建設途中の桃生柵もむのふのきに、好奇心が抑えられず、乳姉妹ちのえも乳母ちおもも振り切って、よく、建設現場に顔をだしていたの。」


 真比登がくすりと笑う。


「へえ、乳母ちおもを困らせて……、なんだか、今の佐久良売さまからは想像がつきません。」

「ふふ、そうかもね? 

 あたくしも、まだ六歳だったのよ。」




   *   *   *





 丁酉ひのととりの年(757年)。



 夏。


 六歳の佐久良売は、桃生柵もむのふのきの建設途中の場所に、こっそり忍びこんだ。


 上半身ハダカになったむさ苦しい男たちが、大きい木槌きづちで杭を打ち込んでいたり、瓦を運んでいたり、木をノコギリで切っていたりする。

 役夫えきふ(雇われて働く男。よう、つまり税として労働力を提供する男も含む)だ。


「おい、こっちだ!」

「きりきり運べ!」


 監督官の怒声が時々飛ぶ。

 佐久良売はきょろきょろしながら歩いて、


「わあーい! 瓦って重たいの? 持たせて!」


 と黒い瓦を肩に担いだ役夫えきふたちに話しかけた。


「なんだァ、この身なりの良い女童めのわらはは。」

「どけどけ、邪魔だ。」


 しっ、しっ、と追い払われた。


「むぅっ。」


 むくれていると、大好きなお父さまが立っているのを発見した。

 今、乳母ちおもたちを振り切って、こっそり遊びにきてる事を忘れ、六歳児は、


「わ───い、おとーたまっ!」


 てててて、と駆け出した。


「おとー……。」


 こけた。


「わあああああああん! びゃあああああああん!」


 顔を打ち付け、佐久良売はびっくりし、痛みに泣いた。


「さ、佐久良売ぇ! こんなところでどうした。大人のお仕事の場所に来ちゃいかん!」


 と言いながら、佐久良売に甘いお父さまは、すぐに佐久良売のそばに飛んできてくれた。

 抱き起こされ、膝の砂をはらってくれ、お父さまの手布で、顔の汚れを拭いてもらう。


「大丈夫、どこも怪我しとらんぞぉ。」

「ずびっ。」


 抱っこもしてもらう。

 抱っこは、好きだ。楽ちん。

 佐久良売は泣き止んだ。


「ほう、可愛いですな。」


 若くて張りのある男の声がした。

 その時になって、お父さまが、やけに豪奢ごうしゃな衣をまとった、若いおのこと一緒にいたことがわかった。


(だあれ?)


 佐久良売は、きゅっ、とお父さまに抱きつく。


朝獦あさかりさま、みっともないところをお見せしました。申し訳ありません。さ、ご挨拶なさい。この桃生柵もむのふのきを作ってらっしゃる、えらい方だぞ。」


 佐久良売は下におろされた。


「ナガオのムラジのサクラメです。おみしりおきを。」


 佐久良売は、きちんと礼の姿勢をとった。


「これは小さな郎女いらつめ(レディ)ですな。私は藤原ふじわらの朝臣あそん朝獦あさかりです。」

「モムノフノキを任せられるお父さまより、エライの?」


 佐久良売は、良くわからなくて、首をちょこん、とかしげて質問した。


「これっ、佐久良売!」


 お父さまは怒るが、朝獦あさかりさまは、


「そうだね、佐久良売のお父さまはエライ。桃生柵もむのふのき領主として、この桃生柵もむのふのきを任せることになる。

 私は、桃生柵もむのふのきと、雄勝柵おかちのきを作らせている、陸奥国全体の、国司であり、按察使あぜちであり、鎮守府将軍である。

 少しばかり、お父さまより、エライようだよ?」


 とくすくす笑った。お父さまが、


「まことに……、幼いとはいえ、お恥ずかしい限りです。」


 と小さくなってる。それを見て、


(悪いこと言っちゃったのかな?)


 と佐久良売も不安になるが、朝獦あさかりさまは、


「良いさ、佐土麻呂殿。私にも歳の近い娘がいる。女童めのわらはというのは、天真爛漫で可愛いものだ。」


 と怒らず言った。


(優しーい! この人、かっこよくて、優しい!)


 佐久良売は、目をキラキラさせて、朝獦あさかりさまを見た。





    *   *   *




 数日後。




「門番さあーん。なかに入れて。」

「駄目でさぁ。お父上の桃生柵もむのふのき領主さまから、佐久良売さまが来ても、もう建設途中の場所に入れるなってお達しが来てまさぁ。」

「む───っ!」


 六歳児はむくれた。


「いいもん!」


 木のまばらな柵が立っているが、女童めのわらはである佐久良売から見れば、でっかい隙間だらけだ。

 ててて、門番から見えない距離まで走り、柵の隙間に、


「えいっ!」


 身体をねじこむ。

 すぽん。

 すぐに中に入れた。


「むふーっ。」


 佐久良売は得意げに笑い、てててっ、と走りだす。



「わあ、おっきい!」


 佐久良売は、大人の女ほどある、大きなノコギリを、二人がかりで扱っている役夫えきふを発見した。

 ててててっ、と走り、そばによる。


「面白ーい!」

「わっ、郎女いらつめ。」

「綺麗な豪族の娘さんが、こんなところに来ちゃあかんですよ。」


 働く埃まみれの男たちは驚くが、佐久良売はとりあわず、


「教えてよーっ。それ、はじめて見た。なあに、それ?」

「ふふっ、また来たのかい、佐久良売。それは唐から持ち込まれたばかりの、最新の工具だ。」


 背後から、若い男の張りのある声がした。


「アサカリさまーっ。」


 六歳児は、たふとき男に抱きついた。

 まわりの人が慌てる。


「その御方は藤原ふじわらの朝臣あそん朝獦あさかりさまですぞ。」

「知ってるもん! ミチノクのコクシでアゼチでチンジュフショーグン!」

「ははは、良く言えたなあ、佐久良売!」


 朝獦あさかりさまは、佐久良売を笑顔で抱き上げてくれた。


「きゃはっ。」


 佐久良売は喜ぶ。

 朝獦あさかりさまは、むさ苦しいところはなく、奈良の貴族として秀でた立ち振舞い、まだ大人のなかでは若いのに、彼が何か一言いうと、まわりは、さーっと波が寄せるようにすぐ動き、何でも彼の言う通りになった。

 まわりは、皆、彼に気をつかっていた。

 佐久良売のお父さまでさえも!


 そんな朝獦あさかりさまは、子ども心に、特別なかっこいい人として写った。


 ばたばた、と佐久良売の乳姉妹ちのえも乳母ちおも、お父さまが駆けてきた。もう見つかったらしい。


「さささ佐久良売ー! なんという事をっ! 恐れ多い。降りなさい!」


 佐久良売が朝獦あさかりさまに抱きかかえられているのを見て、お父さまは慌てふためいた。


「やだ。アサカリさま、かっこいいもん!」


(あたくしには優しいもん。降りたくない。)


 佐久良売はちょっとした優越感にひたり、朝獦あさかりさまに抱きつく。


「ははは! 良いさ、佐土麻呂さとまろ殿。懐かれると可愛いものだ。」


 朝獦さまは、佐久良売の顔を良く見た。


「ふっ、佐土麻呂殿。真に美しいおみなというものは、この年齢でも、美しさの片鱗へんりんを見せるものだ。

 佐久良売は将来、佳人かほよきおみなとなるであろう。

 ちょうじたら、平城京の采女うねめとせよ。

 私の娘が入内じゅだいできたら、ぜひその采女うねめにつけたいものだ。」


 おおっ、とまわりの人がどよめき、


「素晴らしい。」

「めでたい。」


 と口々に寿ことほいだ。

 ただそのなかで、お父さまだけが、


「うぅっ……!」


 と絶句し、何か言いたげな顔で立ち尽くした事だけは、良く覚えている。




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