第二話  麦子

 己亥つちのといの年。

(759年、天平宝字てんぴょうほうじ三年、今より16年前)


 奈良。


 貴族の贅沢な屋敷。

 庭には人造の池があり、朱塗りの橋が渡してある。


 広い部屋には、熊の毛皮、白い鹿の毛皮がしかれ、朱、緑、藍色、白、色鮮やかな几帳きちょう(布の衝立ついたて)が、夏の風に揺れ、おおぜいの女官たちが簀子すのこ(廊下)に控えている。


 夏の明るい日差しが差し込む、その部屋で。


 二十四歳の若い父親を相手に、六歳の女童めのわらはが、いやいや、をしている。


「いやん、いやなのー。いやいやいや。」


 六歳の女童めのわらはは、愛らしい頬をぷっとふくらませ、顔をふるふる、左右にふる。

 見るからに高価な躑躅つつじ色の衣を着、唐渡りの精緻な細工の簪には、歩揺ほよう(ぶらさがり型のアクセサリー)がついて、しゃらしゃら、顔をふった動きにあわせて清涼な音をたてる。


 女童めのわらはは、幼いながらも、秀でた顔立ちの、清らかな容貌である。


 朝獦あさかりは、この、自分が十八歳のときにもうけた娘、麦子むぎこを可愛がり、惜しみなく物を与えていた。


麦子むぎこ。」

「いや。土羅羅刀自つららとじはがんばって仔猫を産んだのよ。どの仔猫も可愛いわ。一匹だって、誰にもあげないわ。」


 土羅羅刀自つららとじとは、朝獦あさかりが麦子に与えた、二匹の猫のうち、メスのほう、真っ白い猫の名前である。

 猫は、この秋津島にいない生き物。

 はるか、唐から船で運んできたものだ。

 麦子が可愛がるこの真っ白い猫は、仔猫を一気に三匹、産んだ。


 まだ、仔猫たちの名前はつけていない。


「そう言わずに、考えておくれ。

 父が陸奥国みちのくのくにを任されているのは知っているだろう?」


 藤原ふじわらの朝臣あそん朝獦あさかりは、齢二十四歳という若さにして、従五位下、貴族である。


 陸奥国の国司兼、按察使あぜち兼、鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐん三つ(※注一)を、一人で兼任している。

 兄弟は大勢いるが、陸奥国みちのくのくにのことはおまえに任せた、という、父、藤原ふじわらの朝臣あそん仲麻呂なかまろの期待のあらわれだと、朝獦あさかりは思っている。


 朝獦は、東北、この手つかずの宝の土地を掌握する足がかりとして、雄勝柵おかちのきと、桃生柵もむのふのき、二つの城柵じょうさくの造営に着手をした。

 今まで、蝦夷えみしだけが闊歩かっぽしていた土地に城柵を建て、大和朝廷のものにするのだ。


「新しい城柵を作っていることは、前に言ったろう? 桃生柵もむのふのきを任せる豪族に、ちょうど、麦子と同じ年頃……、麦子より二歳年上の女童めのわらはがいるんだよ。」


 六歳児を、朝獦は、ひょい、と抱き上げる。


 娘にむける顔は優しいが、大和朝廷の中枢に食い込み、父親、兄弟とともに、権力をほしいままにしようとする、昇龍の勢いを持ったおのこは、まわりを屈伏させる強い気を、常に全身から発散している。


「前に言ったとおり、新しい城柵は、危ない場所でもある。もしかしたら、慮外者りょがいものの蝦夷に攻められるかもしれない。

 奈良よりうんと、陸奥国は蝦夷が大勢いるんだ。

 もちろん、立派な山の上に城をたて、堅牢な築地塀ついじべいでぐるりと囲む。

 備えはしてあるが、桃生柵もむのふのきに住む、という事は、麦子よりうんと早く黄泉渡りするかもしれないんだよ。」


(まあ、襲撃されて大勢死んでも、代わりの者はいくらでもいる。

 また他の土地から移住させれば良いだけの話だ。)


 と胸のうちだけでつぶやき、朝獦は抱き上げた愛娘に微笑みかけた。


「そんな可哀想な、麦子と同じ年頃の女童めのわらはに、仔猫の一匹くらい、あげても良いんじゃないか? 

 猫は珍しい。

 ひな(田舎)に住む者は、豪族を含め、誰も猫を見たことはないだろう。

 喜ぶぞ。

 土羅羅刀自つららとじは三匹も産んだんだろう?」


 優しい心を持つ麦子は、黙ってうつむいた。ややあって、


「その女童めのわらはは、なんてお名前なの?」

佐久良売さくらめだ。」

「……わかりました。では、サクラメに、この斑斑むらむらの仔猫をあげるわ。」


 他の猫は、全身真っ白い毛並みだが、麦子の選んだ仔猫は、白い毛に、黄色と土器かわらけ色の斑斑むらむら(この場合、ぶち)模様であった。


「名前は麦刀自むぎとじ。」


 麦子は、たった今、この斑斑むらむらの仔猫の名前を決めた。


「麦子……!」


 朝獦は、さっと顔色を変えた。

 他の生き物に、自分の名前を与えること。

 それは、多少なりとも、己の玉の(命)をつなぐ行為。

 朝獦は、いかめしい顔で、娘の浅慮をたしなめた。


「自分より早く死ぬ、えやみを得るなどの可能性がある小さな動物に、己の名前一文字を、おいそれと与えるものではない。」

「お父さま。だからです。この仔猫は、一人だけ、母である土羅羅刀自つららとじと別れ、遠く陸奥国まで行くのでしょう?

 道中、無事であるように、あたくしの名前をお守りとしてあげたいのです。」


 麦子は、小さな手で、父の胸のあたりの衣を、きゅっ、と握った。


「サクラメの手元に無事に届いたら、その子が名前を決めて良いわ。道中だけの、仮の名前です。

 ね? お父さま。お願い……。」


(なんと優しい心映こころばえ。)


 六歳児は、ほどほどに重い。

 ずり落ちかけてきた愛娘の身体を、上の位置に抱き上げなおしてから、朝獦は優しく麦子に微笑み、頷いた。


「父は、麦子の願いを聞き入れよう。」




    *    *   *




 陸奥国みちのくのくに小田郡おだのこほり黄金山。

 十三歳の男童おのわらはは、


「なんだ、あれ……?」


 と、砂金とりの作業ですっかり荒れた手を、薄汚れた衣の胸襟につっこみ、ぼりぼり、と胸もとをかきながら、上を見上げた。

 まわりには、人垣ができている。

 皆、珍しいものを見物しているのだ。

 まゆみの木の上。


「にゃー、にゃー、にゃー、にゃー。」


 としきりに鳴く小さな白い動物がいる。

 大きさは、をさぎ(兎)ほど。

 だがをさぎ(兎)ではない。耳は長くないし、をさぎは、あんな声で鳴かないし、木の上に登ったりしない。


 毛の色は白だが、黄色と土器かわらけ色がまじった毛並みだ。

 首に赤い紐をつけて、その紐が下に長く垂れ下がっている。

 変わった顔だ。見たことのない動物。


(遠い国にいるらしい虎の子どもって、こんな顔してるのかな。

 ちっちゃいから、大人じゃない。きっと子どもだ。

 ずっと鳴いてる……。怯えてるんだ。)


 その動物は、木の上、枝にしがみつき、降りてこようとしない。


「にゃー、にゃー、にゃー。にゃー。」

「このっ、降りてこい!」


 木の下では、立派な短甲みじかよろいを着込んだ武人が、腕を上にあげて、飛び上がり、その動物の首から垂れる赤い紐を、必死につかもうとしている。

 しかし空振りばかり。

 距離がたりない。

 木を登ろうにも、その武人は身体が大きすぎて、木登りできないのだろう。


「おまえが降りてこないと、オレが困るんだよ、くそ、くそっ。早く降りろ!」


 武人は焦り、木をゆさっ、と揺らしはじめる。


「にゃあ! にゃあ! にゃあ!」


 その動物はますます怯え、逃げ場所を探すように、木の枝の先へ目線を走らせる……。


(鈍くさいおのこめ。それじゃますます、怯えさせるだけだろ。)


 もしかしたら、あの動物は、登ったは良いものの、降りるのが不得手なのかもしれない。困って、怖がってるのだ。


 十三歳の己なら、身体が小さい。

 男童おのわらはは、人垣からぱっと駆け出し、


「武人さん、借りるよ!」


(足場として。)


 思いきり跳ね、背中をむけた武人の肩に手をやり、勢いのまま、肩に足をかけ、


「ぐわっ。」


 と驚いた男の頭も踏みつけ、ひらり、と檀の木にとりついた。

 するする……、と猿のように木を登りはじめる。


「にゃあ! にゃあぁっ!」


 あっという間に、不思議な動物のところに到達した。動物は毛を逆立て、鋭い歯をむき出しにする。


「大丈夫。」


 男童は優しく言って、手をのばす。


「ふしゃ───っ!」


 動物は威嚇の声をあげ、驚きと怯えが限界に達したのだろう。


 下に、飛んだ。


(こうなると思ったよ!)


 男童はどん、と木の幹を蹴り、身体を空中でまっすぐのばし、手をのばし、白い動物を抱えることに成功した。落下するなかで、


「にぎゃっ!」


 動物の首に巻かれた赤い紐が、木の枝にからみつき、動物の首を締め上げようとした。男童は目ざとくそれを見つけ、左手で赤い紐を力いっぱいひいた。

 男童は、生まれつき力に恵まれて生まれてきた。

 難なく、ぶちぶちっ! と赤い紐は引きちぎられた。


 動物は恐怖で、腕のなかでもがく。

 爪でひっかかれながら、男童はしっかり動物を抱え込み、落下の風を全身に感じながら、背中を丸め、地面を見定め、


「ふっ……!」


 着地した。一回転、二回転、三回転。

 勢いを前転で逃がし、落下の衝撃を殺す。


「ふわぁ〜。」


 怪我なし。上出来だ。地面に仰向けで一息つく。

 まわりの見物人から、


「おお〜!」


 歓声とまばらな拍手がおこる。


 と、人影が落ち、腕のなかから、動物をひょいと取り上げられた。


「この疱瘡もがさ持ちが!」


 さっき足場を借りた武人が、小さな白い動物を抱えて、仕返しとばかりに、男童の顔を、踏んだ。


(良い身なりの武人だ。きっと、身分あるおのこなのだろう。そりゃあ、オレみたいな、下人げにんにしか見えない、うす汚れた砂金とりのわらはに足蹴にされたら、怒るよな、はは……。)


 がす、がす、と武人が顔を、肩を蹴ってくる音の合間に、


「にゃー、にゃー、にゃー……。」


 と、助けた動物の声が聴こえてくる。


(良かったな。怪我しなくてよ。)


「やめよ!」


 あたりを鎮めさせる、雷のような一喝が響いた。


「朝獦さま!」


 武人が慌てた声をだして、男童を踏むのをやめ、頭をさげた。

 男童は、よろめき起き上がる。


 ずいぶん偉そうな、武人よりも立派な刺繍の衣をまとった、二十歳なかばくらいの男が、後ろに従者らしい男と、この金山の管理者を従え、威風堂々とした出で立ちで、こちらに歩いてくる。

 いつも、砂金とりの下人たちに威張っている、太った管理者は、見たこともない顔で、へこへこ、へつらっている。

 先頭を歩く、堂々としたおのこは、男童を笑顔で見た。


「見ておったぞ。見事であった。を助けてくれて、感謝する。わらは、名前は?」

真比登まひと春日部かすかべの真比登まひと。」


 十三歳の男童おのわらはは、顔についた泥を拭って、ふー、と息をつきながら答えた。





   *   *   *



(※注一)……国司。大和朝廷からつかわされる、一国を管理するエライ人。

 按察使あぜちは、国司を監察する人。

 鎮守府将軍ちんじゅふしょうぐんは、軍事を司る。

 国司をやりつつ、その国司を監察するはずの按察使あぜちも兼ねる、さらに軍事力も。どんだけ権力集中させれば気がすむんや……。




↓イメージイラスト

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093081750881723





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