第二話 麦子
(759年、
奈良。
貴族の贅沢な屋敷。
庭には人造の池があり、朱塗りの橋が渡してある。
広い部屋には、熊の毛皮、白い鹿の毛皮がしかれ、朱、緑、藍色、白、色鮮やかな
夏の明るい日差しが差し込む、その部屋で。
二十四歳の若い父親を相手に、六歳の
「いやん、いやなのー。いやいやいや。」
六歳の
見るからに高価な
「
「いや。
猫は、この秋津島にいない生き物。
はるか、唐から船で運んできたものだ。
麦子が可愛がるこの真っ白い猫は、仔猫を一気に三匹、産んだ。
まだ、仔猫たちの名前はつけていない。
「そう言わずに、考えておくれ。
父が
陸奥国の国司兼、
兄弟は大勢いるが、
朝獦は、東北、この手つかずの宝の土地を掌握する足がかりとして、
今まで、
「新しい城柵を作っていることは、前に言ったろう?
六歳児を、朝獦は、ひょい、と抱き上げる。
娘にむける顔は優しいが、大和朝廷の中枢に食い込み、父親、兄弟とともに、権力をほしいままにしようとする、昇龍の勢いを持った
「前に言ったとおり、新しい城柵は、危ない場所でもある。もしかしたら、
奈良よりうんと、陸奥国は蝦夷が大勢いるんだ。
もちろん、立派な山の上に城をたて、堅牢な
備えはしてあるが、
(まあ、襲撃されて大勢死んでも、代わりの者はいくらでもいる。
また他の土地から移住させれば良いだけの話だ。)
と胸のうちだけでつぶやき、朝獦は抱き上げた愛娘に微笑みかけた。
「そんな可哀想な、麦子と同じ年頃の
猫は珍しい。
喜ぶぞ。
優しい心を持つ麦子は、黙ってうつむいた。ややあって、
「その
「
「……わかりました。では、サクラメに、この
他の猫は、全身真っ白い毛並みだが、麦子の選んだ仔猫は、白い毛に、黄色と
「名前は
麦子は、たった今、この
「麦子……!」
朝獦は、さっと顔色を変えた。
他の生き物に、自分の名前を与えること。
それは、多少なりとも、己の玉の
朝獦は、
「自分より早く死ぬ、
「お父さま。だからです。この仔猫は、一人だけ、母である
道中、無事であるように、あたくしの名前をお守りとしてあげたいのです。」
麦子は、小さな手で、父の胸のあたりの衣を、きゅっ、と握った。
「サクラメの手元に無事に届いたら、その子が名前を決めて良いわ。道中だけの、仮の名前です。
ね? お父さま。お願い……。」
(なんと優しい
六歳児は、ほどほどに重い。
ずり落ちかけてきた愛娘の身体を、上の位置に抱き上げなおしてから、朝獦は優しく麦子に微笑み、頷いた。
「父は、麦子の願いを聞き入れよう。」
* * *
十三歳の
「なんだ、あれ……?」
と、砂金とりの作業ですっかり荒れた手を、薄汚れた衣の胸襟につっこみ、ぼりぼり、と胸もとをかきながら、上を見上げた。
まわりには、人垣ができている。
皆、珍しいものを見物しているのだ。
「にゃー、にゃー、にゃー、にゃー。」
としきりに鳴く小さな白い動物がいる。
大きさは、をさぎ(兎)ほど。
だがをさぎ(兎)ではない。耳は長くないし、をさぎは、あんな声で鳴かないし、木の上に登ったりしない。
毛の色は白だが、黄色と
首に赤い紐をつけて、その紐が下に長く垂れ下がっている。
変わった顔だ。見たことのない動物。
(遠い国にいるらしい虎の子どもって、こんな顔してるのかな。
ちっちゃいから、大人じゃない。きっと子どもだ。
ずっと鳴いてる……。怯えてるんだ。)
その動物は、木の上、枝にしがみつき、降りてこようとしない。
「にゃー、にゃー、にゃー。にゃー。」
「このっ、降りてこい!」
木の下では、立派な
しかし空振りばかり。
距離がたりない。
木を登ろうにも、その武人は身体が大きすぎて、木登りできないのだろう。
「おまえが降りてこないと、オレが困るんだよ、くそ、くそっ。早く降りろ!」
武人は焦り、木をゆさっ、と揺らしはじめる。
「にゃあ! にゃあ! にゃあ!」
その動物はますます怯え、逃げ場所を探すように、木の枝の先へ目線を走らせる……。
(鈍くさい
もしかしたら、あの動物は、登ったは良いものの、降りるのが不得手なのかもしれない。困って、怖がってるのだ。
十三歳の己なら、身体が小さい。
「武人さん、借りるよ!」
(足場として。)
思いきり跳ね、背中をむけた武人の肩に手をやり、勢いのまま、肩に足をかけ、
「ぐわっ。」
と驚いた男の頭も踏みつけ、ひらり、と檀の木にとりついた。
するする……、と猿のように木を登りはじめる。
「にゃあ! にゃあぁっ!」
あっという間に、不思議な動物のところに到達した。動物は毛を逆立て、鋭い歯をむき出しにする。
「大丈夫。」
男童は優しく言って、手をのばす。
「ふしゃ───っ!」
動物は威嚇の声をあげ、驚きと怯えが限界に達したのだろう。
下に、飛んだ。
(こうなると思ったよ!)
男童はどん、と木の幹を蹴り、身体を空中でまっすぐのばし、手をのばし、白い動物を抱えることに成功した。落下するなかで、
「にぎゃっ!」
動物の首に巻かれた赤い紐が、木の枝にからみつき、動物の首を締め上げようとした。男童は目ざとくそれを見つけ、左手で赤い紐を力いっぱいひいた。
男童は、生まれつき力に恵まれて生まれてきた。
難なく、ぶちぶちっ! と赤い紐は引きちぎられた。
動物は恐怖で、腕のなかでもがく。
爪でひっかかれながら、男童はしっかり動物を抱え込み、落下の風を全身に感じながら、背中を丸め、地面を見定め、
「ふっ……!」
着地した。一回転、二回転、三回転。
勢いを前転で逃がし、落下の衝撃を殺す。
「ふわぁ〜。」
怪我なし。上出来だ。地面に仰向けで一息つく。
まわりの見物人から、
「おお〜!」
歓声とまばらな拍手がおこる。
と、人影が落ち、腕のなかから、動物をひょいと取り上げられた。
「この
さっき足場を借りた武人が、小さな白い動物を抱えて、仕返しとばかりに、男童の顔を、踏んだ。
(良い身なりの武人だ。きっと、身分ある
がす、がす、と武人が顔を、肩を蹴ってくる音の合間に、
「にゃー、にゃー、にゃー……。」
と、助けた動物の声が聴こえてくる。
(良かったな。怪我しなくてよ。)
「やめよ!」
あたりを鎮めさせる、雷のような一喝が響いた。
「朝獦さま!」
武人が慌てた声をだして、男童を踏むのをやめ、頭をさげた。
男童は、よろめき起き上がる。
ずいぶん偉そうな、武人よりも立派な刺繍の衣をまとった、二十歳なかばくらいの男が、後ろに従者らしい男と、この金山の管理者を従え、威風堂々とした出で立ちで、こちらに歩いてくる。
いつも、砂金とりの下人たちに威張っている、太った管理者は、見たこともない顔で、へこへこ、へつらっている。
先頭を歩く、堂々とした
「見ておったぞ。見事であった。ねこを助けてくれて、感謝する。
「
十三歳の
* * *
(※注一)……国司。大和朝廷からつかわされる、一国を管理するエライ人。
国司をやりつつ、その国司を監察するはずの
↓イメージイラスト
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093081750881723
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