第六話  猫の里夜

 麗艶れいえん……美しくなまめかしい。

 


   *   *  *






 乙卯きのとうの年。

(775年、宝亀ほうき六年)


 五月。


 夜。


 桃生柵もむのふのき、佐久良売の部屋で、


「大変! 里夜りやが乳を吐いたわ!」

「はいっ!」


 佐久良売のお付きの女官、若大根売わかおおねめが、すぐに汚れた床を清めてくれる。

 佐久良売は、元気のない里夜の背中を、そっと撫でる。


里夜りや……。」


 白い毛に、黄色と土器かわらけ色の斑斑むらむら(ぶち)模様の猫、里夜りやだが、見れば、その毛並みも老衰のため、白い毛が多くなってきているのであった。


「にゃん……。」


 里夜は、大丈夫です、というように、佐久良売の手に頬をすりつけた。


「ふふ……。」


 佐久良売は、里夜を愛おしく抱き上げ、胸に抱いた。背中を撫で続ける。


「おまえがここに来たのは、己亥つちのといの年だから、もう、おまえも十六歳なのね……。」

「にゃん。」


 まるで話がわかるように、返事をする里夜りやに、佐久良売の顔がほころぶ。


 里夜りやは、ゆっくり、老衰が進んでいる。動きが緩慢になり、昔は好んだ遊びも、億劫そうになり、日向で寝ているだけの時も多い。


里夜りやは、遠くない先、死んでしまうのだろうか。

 あたくしは、覚悟をしなくてはならないのだろうか。)


 里夜は、心の支え。なるべく、長く、元気で生きていてほしいと、佐久良売は切に願う。


 里夜りやが、ゴロゴロゴロ……、と喉を鳴らした。

 佐久良売の顔を見て、佐久良売の手を、ぺろ、と舐めた。

 きっと、佐久良売が不安そうにしているのを感じ取り、慰めてくれたのだろう。


里夜りや、ありがとう。大好きよ。」


(大丈夫、大丈夫よ……、不安になることはないわ……。

 あともう少ししたら、真比登が今宵も、あたくしのもとに来てくれるわ。

 あたくしの愛子夫いとこせ

 真比登の顔を見たら、あたくしはいつものように、落ち着くことができる。)


「佐久良売さま。」


 真比登の声がした。


「真比登。」


 佐久良売は嬉しくなり、笑顔が自然と浮かぶ。

 若大根売わかおおねめ妻戸つまとをあけると、右頬に一筋、赤い瘡蓋かさぶたを作った真比登が立っていた。


(真比登が怪我をするなんて!

 怪我を……。

 真比登が死んでしまったら、どうしよう!)


 佐久良売は恐怖に包まれ、


「きゃああああ……!」


 と悲鳴をあげた。驚いた里夜はあわてて下に着地し、逃げだした。


「真比登、どうしたの、その怪我。あなたでも怪我するの、嫌っ、嫌……。」


 ぼろぼろ泣きながら、つまの胸に飛び込む。ぎゅう、と抱きしめる。これがうつつと、確かめるように。


「佐久良売さま……、怪我してすいません。矢を避けそこねて……。

 でもかすり傷でして、すぐに治ります。」

「やっ! 嫌っ! いやいやっ! 

 怪我なんてしないで真比登、あたくし怖い。

 あ……、し……、死んだら、あなたが死んだら、あたくし置いていかれたら、生きてはいけないわ。怖い。」

「すみませんでしたっ! 本当にごめんなさい!」


 真比登が叫んで、佐久良売を強く抱きすくめた。

 愛しい男の胸で、佐久良売は大粒の涙を流した。

 若大根売わかおおねめが気を利かせて、半蔀はじとみ(釣り上げ窓)を全部おろし、部屋をでていった。


「お願いよ真比登。あなたが、毎日戰場にでても、無事にあたくしのもとへ帰ってきてくれると信じているから、あたくしは心の平静を保てているの。

 そうでないと、戰場のさなかの桃生柵もむのふのきで、とても生きていかれないわ。

 真比登。

 真比登……。

 愛しているの。」

「佐久良売さま。オレも、愛しています。オレの天女。オレは、無事です。もう泣きやんでください。」


 真比登が、熱い口づけをくれた。

 まだ、泣き止むことができない。

 佐久良売は自ら帯をほどき、


「あたくしを、ちゃんと安心させて。」


 はらり、と胸襟きょうきんを開く。


「はいっ、頑張ります。」


 真比登がこう言うからには、本当に頑張ってくれるのだろう。

 期待で胸が震え、佐久良売は微笑むことができた。




     *    *    *





 おのこが、おみなの足の間に顔を埋めている。

 寝床の横には、空になった小さな土師器はじきの壺が置いてあり、土師器の口からは、一筋、蜂蜜が垂れて、月光に透けて光っている。

 部屋には蜂蜜の甘い匂いと、おみなの切なくなるような息遣いと、ぴちゃぴちゃと猫が乳を飲むような、くぐもった音が続いている。


 おのこは、小さな山のよう。

 身体は大柄で筋骨逞しく、首も、肩も、筋肉で大きく盛り上がり、背中には汗が光っている。

 おみなは、おのこに比べると、あまりに細く、華奢きゃしゃだ。

 体格差がいちじるしい。

 おみなは、白圭はくけい(白く清らかな玉)ような美しい肌を持っている。

 細身でありながら、乳房はたわわに見える。

 そこまでおおぶりではないのだが、ツンと上を向いた丸い形と、薄い肩、細い腰との兼ね合いで、豊かに見えるのだ。

 おみな秘奥ひおうねぶられ、身をよじりもだえ、さかんに身体をくねらせるのがなまめかしい。


 おみな披閲ひえつ(開いて調べる)し続ける男は、顔をあげない。

 女は、が途切れる事を好まないからだ。

 麗艶れいえんなる美女は顔に喜色を浮かべ、男の頭に手をやり、自分の口に物欲しそうに手をやり、


「あぁ、真比登ぉ………、もっと……。」


 と甘えた声をだす。

 おみなは、腹に、乳房に、肩に、汗をかき、首をのけぞらせ、目が潤み、花顔雪膚かがんせっぷの美しさが、白露に濡れたようにしっとりと輝きを増している。

 おみなは思う存分、耽玩たんがんを楽しみ、幾度いくたびも悲鳴のような蛙聲あせいをあげたあと、


「もう、駄目。欲しい。」


 と、とうとう口にした。

 奉仕しきったおのこは満足そうに顔をあげ、いそいそと腰をおみなの壺にあてがうが、す前に、濡れた顔を寝床のそばに用意してあった布で拭うことを忘れない。

 とことん、おみなの好むまま動くよう、仕込まれているのである。

 

 おのこは、開かれたおみなの足の間に腰をあて、上、下、上、かすかに動いたあと、ゆっくり、大きく、身体を沈めた。


「───ンッ。───アッ。愛してるわ、真比登。」

「佐久良売さま。オレもですっ!」


 おのこおみなに覆いかぶさる。女の細い身体は、男のたくましい身体ですっぽり隠されてしまう。

 雨上がりの小山のような、汗の伝う男の背中ごしに、白く柔かそうな足だけが。


 ゆら。

 ゆら。


 と揺れている。

 おのこの顔は、たぎ欲火よくかたけっているが、おみなはそれさえも好ましいようで、男の胸の下でとろけそうな微笑みを浮かべている。


 かぐわしいおみなの吐息と、おのこ丁子ちょうじの吐息が、まじる。


 ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ、と、寝床の床が激しくきしむ。







 あたりにはまだ、蜂蜜の甘い匂いが、濃厚にただよっている。





    




   

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