第八十三話  毛桃、ひとつ。

 古志加こじかは、


(身体が動かない。)


 と思った。



 大川さまが右手を伸ばしてくるのが見えた。



 その手が、古志加の、薄紫のほう(ブラウス)に包まれた左腕に触れる、直前。




「古志加?」


 道を、女官の一人、小竹売しのめが歩いてきた。

 大川さまは、さっと手をひっこめ、顔も、いつもの顔に戻った

 ようやく、古志加に自由が戻る。


(今の、何……?)


 古志加の心臓しんのぞうが、バクバクと脈打った。


(真比登や布多未ふたみ(※注一)と対峙して、膨大な剣気を当てられた時も、身体は動いたのに。

 大川さまは、剣気を発してなかった。

 剣気……ではない?

 なんで身体が動かなくなってしまったんだろう?)

 

 小竹売しのめ呑気のんきな声を出す。


「今日が、あたしたちの湯屋の日って忘れてるんじゃない? ……あっ?」


 湯屋の湯船は、二人はいれる、狭いのを我慢すれば三人はいれる。

 たふとき身分の人が使った、その残り湯に、十人の女官が変わりばんこに浸かるのだ。

 毎日ではない。他の女官部屋と交代だ。


 わざわざ呼びに来てくれた小竹売しのめは、思いがけない美貌のおのこを見て驚き、でも、それが誰かは、顔だけでは分からなかったらしい。


小竹売しのめ、副将軍殿だよ。あたしの本来の主。」

「副将軍殿、失礼いたしました。」


 小竹売しのめは礼の姿勢をとる。


「良い。もう行け。」


 大川さまは、いつもの態度だ。女官や下人にも、いつも優しい声音で話す。


味澤相夜あじさはふよをや。(失礼します)」


 古志加は礼をして、小竹売しのめとともに去った。



    *   *   *



 大川は、古志加と女官が去ったあとを熱のこもらない目で見ていた。


「ふ……。」


 皮肉な微笑みを口もとに浮かべる。


「愚かだな。」


(一瞬、自分を見失うなんて。

 ここは上毛野君かみつけののきみの屋敷ではない。手をつけたら、隠しきれるものではないだろう?

 ……三虎にどのような言い訳をするつもりだったのかな? 私は。)


 身近な桃の木の、枝の先端をつかみ、───バキ、と枝を折る。

 そのまま、大川も桃の木の下を去った。




   *   *   *



(大川さまが、おのこが趣味じゃないって知れて、スッキリしたぁ!)


 そう思う古志加は、一緒に歩く小竹売しのめから、


「ねえ、さっきの副将軍殿、もしかして、古志加にその気があるんじゃない?」


 と訊かれた。


「まさかあ! ないよ。」


 本当に、あり得ない。

 古志加は、くすっと笑って、とりあわない。


(それにしても、剣気じゃない剣気、なんだったんだろうな?

 大川さま、あたしの腕をつかんで、何を申し付けるおつもりだったんだろう……?)


 古志加は首をかしげる。そして、


「さっ、風呂だー!」


 多分、考えてもわからない事だ、と、あっさり思考を放棄した。






   *   *   *




 その頃。

 花咲く卯の花のもとで、鎮兵ちんぺい汗志うしは、意中の女官に言寄ことよせ(ナンパ)をしていた。

 医務室でとりわけ親切にしてくれたその女官に、汗志うしは何ヶ月も声をかけ続け、今宵はじめて、その女官が部屋を抜け出してきてくれたのである。


(あともう一押し───。)


 汗志うしの心は踊る。

 女官は笑って、身近な木の枝を引きぢ(ひきよせ)、卯の花咲く木のふさを、ぱきっ、と手折たおって、汗志うしに見せた。


「あたしを、このようにしても、良いわ。」


 汗志は女官の肩を抱いた。

 二人は夜の闇に消えた。


 木の枝を手折る。

 それは、おみなを手折ること。さ寝の暗喩あんゆである。





   *   *   *




 ちょっと遅めでやってきた真比登の腕のなかで、はだかの佐久良売さくらめは、真比登の睦言むつごとを聞いた。


「佐久良売さま、聞いてください。


 靈姿理雲鬢。 

 仙駕度潢流。

 窈窕鳴衣玉。 

 玲瓏映彩舟。(※注二)


霊妙れいみょううるわしい姿の織女星しゅくじょせいは雲のごとくなびく美しい頭髪をくしけずり。

 織女星しゅくじょせいの仙車は天の川を渡って、彦星ひこぼしもとへ行く。

 織女星しゅくじょせいはしとやかに、衣につけた玉を鳴らし。

 麗しいその姿は、織女星の乗った舟に色彩豊かにえいじる。)


 あなたはそのように、美しいです。」

「まっ……! 良く言えたわね。驚いたわ。覚えるのは大変だったでしょう?」


 実は、漢語かんごで言われてしまうと、佐久良売にも理解はお手上げだ。

 だが、窈窕エウテウ……、玲瓏レイロウ……、言葉の切れ端から、愛するつまが言葉を尽くして、美しいと褒めてくれた事がわかる。

 佐久良売は上機嫌に、くすくす笑う。

 嬉しくて、真比登に、ちゅ、と口づけをする。

 真比登は感極まったように、てれてれっと笑った。


「はい。大変でした。

 出会って初めての日、源にこう言われて、佐久良売さまが、ぽーっと源を見てたのが、今思い返すと、なんだか悔しくて……。

 佐久良売さまへの麗しい言葉は、オレのものです。オレが一番です。」

「うふふ。嬉しい。ええ、あなたが一番よ。あたくしの愛子夫いとこせ。」


(朱雀の刺繍が上手にできたら、贈ってあげるから、待っててね、あたくしの建怒たけび朱雀すざく……。)




    *   *   *






 翌日。






 桃の木の根本、一つだけあった毛桃は、もぎとられ、もう、誰かに食べられてしまった。






 夕餉の時刻。

 花麻呂が手に持った浄酒きよさけつきを、濃藍こきあい衣の古志加がひったくった。


「うえーん。毛桃、誰かに食べられた。悔しいよぅ。こんな日は浄酒を呑むー!」

「あっ、ばか、古志加!」


 花麻呂は目を釣り上げる。

 しかし、一杯なら、古志加は悪酔いしないので、


(まあ、良いか。)


 と、花麻呂は心のうちで、古志加が浄酒を呑むのを許す。

 これが癖になっても困るので、───こく、こく、と浄酒を呑む古志加が、浄酒をこぼさないよう配慮しつつ───とす、と古志加の頭に軽い手刀を落とした。


「一杯だけだぞ。」


 呑み終わった古志加は、つきを花麻呂に素直に返しつつ、頬をぷっと膨らませた。


「ケチー。前に沢山呑ませてくれた時、あったじゃん、ケチ、ケチー!」

「もう、駄目。」


不憫ふびんなヤツ。)


「ほら、鹿の干し肉、やるよ。」

「食べるー! 花麻呂、ありがとう!」


 古志加は満面の笑みになり、干し肉を受け取る。

 もう機嫌がなおった。

 手のひら半分ほどの、ひとかけらの干し肉を、古志加は律儀に半分に割く。


「はい、半分。」

「はいはい。」


(古志加のこういうところ、可愛いよな。良いおみななのにな。)


 古志加から干し肉を半分返され、口に放り込む。


ふひんやはふ不憫なヤツ。」

「えっ、なに? 花麻呂?」

「なんでもない。」







 夕餉が終わり、古志加を女官部屋に送っていく道の途中、三虎に会った。


「あっ、三虎ー!」


 古志加は駆け出し、三虎にがばっと抱きついた。


「ふ。」


 三虎はかすかに口元がほころび、古志加を抱きしめる。


「変わりはないか?」

「ないよ!」

「頑張ってるようだな。」

「うん!」


 桃生柵もむのふのきに来て、何回も見た、もう見慣れた光景。

 ちゅんちゅん雀の古志加は嬉しそうに三虎の首に腕をまわしている。

 花麻呂は、ゆっくり道を歩く。

 三虎が花麻呂を見る。


「変わりはないな?」

「ありません。」

「良し。気を引き締めろよ。

 賊奴ぞくとに対して日本兵は優勢だが、手負いの獣ほど、用心が必要なものはない。わかるな?」

!」


 古志加も三虎に甘えるのをやめ、身体をはがし、花麻呂、古志加、二人で返事をする。


「励め。味澤相夜あじさはふよをや。(じゃあな)」

味澤相夜あじさはふよをや。」


 花麻呂と古志加は礼の姿勢をとる。

 三虎とすれ違った。

 花麻呂と古志加はその場で立ち、古志加は三虎に会えた喜びから笑顔で、花麻呂は複雑な影のある顔で、三虎の背中を見送った。


(かわらないな。三虎。)


 花麻呂は、心で嘆息たんそくをする。




 







 ───去年の冬……。



 古志加が、浄酒きよさけを呑みたいだけ呑むことを、花麻呂が許した日があった。

 案の定、調子にのってたくさん呑んだ古志加は、すぐに、こて、と眠りに落ちた。

 花麻呂の肩を枕にして寝息をたてはじめた古志加を、花麻呂は抱きあげ、目的の場所へ運んだのだった……。




     *   *   *








 ───物語は、語り残した、花麻呂の暗躍を語るべく、乙卯きのとう(775年)から、甲寅きのえとら(774年)、去年の冬に時間を戻す───










     *   *   *


 




 まだ雪は降らない、でも、陸奥の冬の夜は冷える。

 身を切るような冷たさのなか、戌の刻(夜7〜9時)。


真葛さねかずらの油(整髪料として使う油)の残りがこころもとないな……。しかしケチって使っては、大川さまの髪の毛が傷んでしまう。悩ましい……。」


 と冬ごもりの備品を確認中の、三虎の一人部屋を、いきなり訪れた者がいた。


「三虎、開けてください!」


 花麻呂だ。


「どうした?」


 と、三虎が部屋の戸を開けると、眠る古志加を二の腕に抱きあげた花麻呂がいた。

 花麻呂も古志加も顔が赤く、ほのかに酒くさい。

 古志加は良く眠り、目を開ける気配がない。


浄酒きよさけを呑んで、こうなりました。どうにかしてください。」


 不機嫌そうに、花麻呂が言う。


「ああ……、そのまま女官部屋に運べ。」


 三虎が淡々と言うと、花麻呂が、くわっ、と歯をむき出しにした。


「この時刻に、オレに女官部屋のなかまで足を踏み入れろって言うんですか!

 嫌ですよ!

 まったくこの兄弟はぁぁ!」


 と、ずいずい、三虎の部屋のなかに踏み込んできた。そのまま、


「おい……。」


 と三虎が止める間もなく、薄い布団の敷かれた寝床に古志加を寝かせてしまった。

 花麻呂は、三虎を、キッ、と見て、


「古志加を桃生柵もむのふのきに呼んだのは、あなただ。

 あなたがどうにかするべきだ。」


 と言い、そのまま去ろうとした。


「あ、おいおい……。」


(手ぶらで行かせるのも悪い。花麻呂は浄酒きよさけが好きだったな。)


 三虎は浄酒の壺を唐櫃からひつ(物入れ)からすぐに取り出し、


「花麻呂。」


 と手渡した。花麻呂は、


「ありがとうございます。」


 と浄酒を受け取り、ふふっ、と小さく笑った。嫌味のない、笑みを含んだ目で三虎を見て、


「古志加への想い、答えはでましたか?」


 さらりと訊いた。








      *   *   *





(※注一)……布多未ふたみは、上毛野衛士副団長大尉かみつけのえじふくだんちょうのたいい。上毛野衛士団最強の男。


(※注二)……参考、古代歌謡集  日本古典文学大系  岩波書店

    

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