第八十二話  大川さまのご趣味、再び。

 兵舎にて。


 筋肉隆々の武人、真比登まひとは、自室で倚子に腰掛け、向かいに座る副将軍の従者、いつも無表情な三虎から、


古志加こじかと花麻呂はどうだ。」


 と、つきに浄酒を注がれていた。


「大丈夫だって。本人に訊けば良いじゃん。」

「本人に訊くのは、時々で良い。こういう事は、上司のほうが良く見えてるものだ。戰場での様子を聞かせろ。」


(面倒くせえええ!)


「花麻呂は戰場で敵を斬るより、古志加を守る事を優先してるが、前より剣に豪を感じるようになってきた。

 古志加はもともと迷いのない剣だが、速さに磨きがかかってきた。」

「そうか。」


 三虎の口もとが少しだけ笑う。目元は動かないのでわかりにくいが、これがこの男の笑顔であった。


「これで良いか?」

「ああ。ありがとう。」

「じゃあ三虎、さっそく続きを教えてくれ。」

「ああ、玲瓏映彩舟レイロウエイサイシュウ。」

レイ……、ぐああ、難しい。」



 男二人の話は続く。




    *   *   *



    

 月下、桃の木の下に、麗人たるおのこが立つ。

 副将軍、上毛野君かみつけののきみの大川おおかわだ。


「あ、大川さま。」


 癖っ毛の女兵士、今は女官姿の古志加こじかは、とことこ夜の庭を歩いていたが、大川に気がつき、礼の姿勢をとった。


(大川さまも、毛桃けももが実ってないか、見にきたのかな?)


 まだ毛桃は実ってない。……一つをのぞいて。

 葉に隠された奥のほうに、一つ、小さな毛桃が実りつつある。

 しかし、まだ完熟ではない。

 誰にもとられたくはないが、まだ木からもぎとれない。

 そう、食いしん坊の古志加はじりじりしつつ、毛桃がまだあるか、確認にきたのである。

 ここには、二人のみ。


「古志加か。」


 白い花か雪のような、冷麗れいえんたる微笑を浮かべる大川が、じっと古志加を見た。

 口角があがる。

 わずかに微笑の冷たさが緩み、艶が増した。


(……!)


 正体不明の感情で、胸下がぞわりとした古志加は、慌てて目を下にそらした。

 そのケのないおのこでさえときめかせてしまう、大川の微笑みである。

 古志加は色気に当てられた。



   *   *   *



 大川は、明るい月夜だったから、もったいなくて、散歩に来ただけだった。

 今、目の前にいる古志加は、女らしい女官姿。背子はいし(ベスト)を着ていないぶん、上毛野君かみつけののきみの女官姿よりも、身体の曲線が良く出ている。


「こちらの女官姿も良いものだな。」


 目を伏せた古志加が困った気配がした。


(面白い。)


 大川がおみなをすこしでも褒めると、どんな女もニタリと笑って、粘着質な目で大川を見てくる。

 大川がこれまで会ってきた女というのは、全員そうだった。

 佐久良売さまは違うかもしれないが、真比登が隣にいて、試す気にもならない。

 大川は、もっと古志加を試したくなった。


「佐久良売さまのところで見た、若草のくん(ブラウス)、桃色の裳裾もすその姿、華やかで美しかった。」


 ここまでおみなを褒めた言葉を鎌売かまめ乳母ちおも)に聞かれたら、


「すわ、古志加を今宵、粘絹ねやしぎぬねや(※注一)にお呼びします! ねやな去りそね!(閨から逃げないでくださいまし)」


 と大騒ぎされてしまうだろう……。

 古志加は、浮かれてほうけたような顔をするでもなく、ニタニタ卑しい笑いを浮かべるでもなく、青ざめた。


(私が褒めたというのに、この反応。くくく……。)


 大川は面白くてしょうがない。



   *   *   *



 古志加は、大川さまから、


「こちらの女官姿も良いものだな。」


 と言われ、戸惑った。


(まさか、桃生柵もむのふのきに馴染んでいるようだから、おまえは、佐久良売さまの女官として、佐久良売さまに差し上げる、などと言うんじゃ……?)


 そのあと、佐久良売さまから着せられた衣に言及されて、


(まずいまずい! おまえは佐久良売さまに気に入られているようだから、と話をつなげる気かもしれない。)


 古志加は青ざめた。


「大川さま! 恐れながら、あたしは、上毛野衛士かみつけののえじ卯団うのだんの衛士です。

 骨を埋める場所は、陸奥国みちのくのくにではありません。

 あたしが帰るのは上野国かみつけのくにです。」


 慌てて言って、深く礼の姿勢をとった。


「あははは!」


 大川さまは、おかしそうに笑いだした。

 いつもの、とらえどころのない笑顔ではない、人間味のある顔だ。


「そのような心配、不要だ。」

「そうですか……。」


 ほっ、と肩から力が抜け、気安い態度だったか、と、慌てて礼の姿勢を取り直す。

 古志加は、退去の挨拶をして、ここを去ろうかと考え、ふと、足を止めた。


(あの、噂。本当だろうか。大川さまはおのこがお好きだと言う……。

 いや、聞けない。

 ただの一衛士、一女官にすぎない自分には……!)


 ……そこで、顎のしゅっと尖った、福益売ふくますめの顔が浮かんだ。

 福益売ふくますめは、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官で、古志加の仲良しだ。

 そして、大川さまに恋い焦がれて、きゃーきゃー、いつも言っている。

 彼女の為にも、大川さまがおのこがご趣味なのかどうか、確かめておきたい。

 きっと、上毛野君かみつけののきみの屋敷に帰ったら、人の目が絶えず有り、訊く機会はないだろう。


(今しかない……!)


 古志加は、きり、と顔を引き締めた。


「大川さま、恐れながら、あたしは桃生柵もむのふのきで噂を聞いてしまいました。

 大川さまは、ねやにはおのこをご所望なのでしょうか?」





   *   *   *




 大川は、思ってもみない言葉に、


「ごほごほごほっ!」


 むせた。


(私にそんな趣味はないぞ!)


「な、なんという……、なんだその噂は! 冗談じゃないぞ!」


(まったく、こちらは三虎の為に我慢してやってるというのに!)


 上毛野君かみつけののきみの跡継ぎである大川が、女官を一人、思うようにする事は、至極簡単だ。

 一言、


「今宵、ねやはべれ。」


 そう告げるだけで良い。

 そう大川が一言発したら、もう、女官は大川の閨に訪れる以外の道はない。

 それに逆らえる女官は、上毛野君かみつけののきみの屋敷にはほんの一握り、つまを持つ女嬬にょじゅぐらいであろう。


(これは挑発だ。

 おまえが悪いぞ、古志加。)


 大川は一瞬、苛立ちで目つきを鋭くした後、古志加にむかって、笑顔を浮かべた。

 いつもの抑制された笑顔ではなく、抑制をはずした、遠慮のない、笑顔。

 目は男らしい獰猛さを秘めて光り。

 唇に浮かべた笑みはあでやかさをほしいままにし。

 とめどない色気が溢れだした。

 人を魅了し、惑わす、麗人の笑みである。

 古志加は弓矢で狙いをつけられた若い鹿のように、ビク! と肩を揺らし、棒立ちになった。

 目に怯えが走る。

 そう、大川が本気で微笑みかければ、相手は身体の動きを止めてしまう。

 その事を大川は知っている。


「私はねやおのこを所望しない。私は……。」


 動けない古志加の左腕に、大川は手を伸ばした。





    *   *   *




(※注一)粘絹ねやしぎぬねや……粘絹ねやしぎぬとは、練って柔らかくした絹のこと。柔らかい高級な絹に彩られた、貴人の寝室。


    

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