第七十八話  さばよひに  其の一

 あしひきの  山椿やまつばきく  


 八峰越やつをこえ  左結婚丹さばよひに 


 が来たれば  桃生もむのふの  毛桃けもも本繁もとしげ


 みなわた  香黒かぐろき髪に


 うなげる  領巾ひれも照るがに

  

 手に巻ける  玉もゆららに

 

 うらぐはし児ろ  それぞが妻










 あしひきの山椿やまつばきが咲く八つのを越え、妻問つまどいにオレは来た。


 桃生もむのふに生える桃の木のもとから、毛桃けももが鈴なりに実っている。


 みなわた、つやつやと真っ黒く、香るような髪、


 首にかけた領巾ひれが照り映えるよう、


 手にまいた玉もゆらゆらと揺れる、


 美しく愛おしい娘。


 それこそ、オレの妻なのです。







 ※あしひきの……山を導く掛詞かけことば

 ※さばよひ……妻問い、プロポーズのこと。

 ※みなわた……川蜷かわにな(巻き貝の一種)のはらわたが真っ黒なことから、か黒き、にかかる掛詞。

 ※うらぐはし児ろ……My sweet baby




 ※麗嫻れいかん……美しくしとやか。



   *   *   *






 医務室の仕事が落ち着いた昼過ぎ。

 佐久良売さくらめさまの部屋に、大鍔売おおつばめは呼ばれた。


かんざしと首飾りを、ありがとうございました。」


 あたしは、佐久良売さまから借りた、かんざしと首飾りを、木綿の布に包んで、机の上に置いた。

 佐久良売さまは麗嫻れいかんたる美貌であたりを照らしながら、


「昨日の首尾しゅびを訊いてもよろしくて?」


 と微笑む。

 昨日、燃え上がったさ寝を思い出すと、まだ、身体が火照る。

 頬が赤く染まるのを感じながら、


「ええ、もちろんです。

 嶋成を、一夜夫ひとよづまにしました。」


 とあたしは正直に伝えた。


「づひょう……。」


 と若大根売わかおおねめが奇声を発した。佐久良売さまが、


「嶋成、ね。」


 と頷き、


「その顔を見るに、良き夜を過ごせたようね。一夜と言わず、本当のつまとすれば良いのに。」


 と、涼しい顔で言う。


(この人は簡単に言うわね。)


 あたしはため息をついた。


 ……いえ、簡単ではない。佐久良売さまは、親が押し付けてくる縁談を次々と断り、自分で見つけたおのこ愛子夫いとこせにしたと、若大根売わかおおねめに聞いた。


(あたしに同じことはできない。)


「あたしの生まれがそれを許しません。でも……、これで良いです。

 もう、思いはげましたから。」


 あたしは、左腕の雑色ぞうしき瑠璃るりの腕輪を、袖の上から、そっと触った。

 あたしを全て捧げた。

 嶋成に、死にません、と約束してもらった。

 あたしの顎を、気にならない、可愛いと言ってくれた。

 あたしはたくさん泣いて、信じられないような快楽くわいらくに乱れ、想いを全て吐き出しきった。




 生まれ変わる夜、というものが、この世にあるなら、昨日の一夜が、それだ。

 あたしは、間違いなく、生まれ変わったのだと思う。

 これからは、何があろうと、どんな辛いことがこの先待ち受けていようとも、前を向いて生きていくのだ。




 この左腕の雑色ぞうしき瑠璃るりの腕輪が、あの密やかな夜を、知っている。

 それで、充分だ。

 若大根売わかおおねめが、


「すごい……。大鍔売おおつばめ、顔つきが変わった。」


 と、口元に手をあて、大きな目でびっくりした表情をした。佐久良売さまが、


「うふふ、そうね。自信に満ちた、大人の顔になったわね。良いことだわ、大鍔売。

 では、本日、さるの刻(午後3〜5時)、再びあたくしの部屋にいらっしゃい。

 若大根売わかおおねめを使いにやるわ。それまで、医務室で医師の手伝いに励むように。」


 と微笑みのまま言い、そこでの話は終わった。


  

    *   *   *



 大鍔売の退室を見届けた佐久良売は、


「嶋成、ね。」


 とつぶやいた。

 大鍔売は、嶋成さま、と敬称をつけて呼んでいない。

 という事は、己の身分を、まだあのおのこは明かしていないのだ。


(きっと、さ寝するからには、身分を明かすのだろうと思って、せっかく、本来の身分にふさわしい衣を貸してさしあげたのに。

 流石に、黙っていすぎではなくて?)


 佐久良売は顔を不機嫌にしかめ、


「な〜にやってるのよ、早く貴族だって正直に言いなさいよ。」


 とひとちた。




     *   *   *



 その頃。戰場で、愛馬不尽駒ふじこまを駆り、


(うおおおー! オレは絶対死なないぞ! そして、益荒男になるんだ!)


 と張り切って弓矢で敵を仕留めた嶋成は、


「ばああッくし!」


 と派手にくしゃみをした。



   *   *   *




 大鍔売おおつばめが、申の刻(午後3〜5時)、医務室に迎えにきた若大根売わかおおねめにつきそわれて、佐久良売さくらめさまの部屋にうかがうと、部屋には、佐久良売さまと、嶋成しまなりがいた。


 それだけでなく、大川さまと、その従者もいた。


(えっ? なんで?)


 と戸惑いつつも、大鍔売は、本来の主に優雅に礼の姿勢をとる。ついで、佐久良売さまに礼の姿勢をとる。

 そこまでしてから、にこり、と嶋成に微笑みかけた。

 可愛い鷲鼻の男は、でれでれっと笑った。


(ふふ。嶋成ったら、なんて笑顔が可愛いのかしら……。)


 若大根売わかおおねめが呆れた笑顔で、


「ぅわぁ……。」


 と小さく声をもらした。


 佐久良売さまが、優しくも凛とした声を放った。


「良く来てくれたわね、大鍔売。副将軍殿の時間を長々とらせるわけにも参りません。

 さ、嶋成さま。」

「はい。大鍔売、良く聞いてくれ。

 オレの父親は、正四位上しょうしいのじょうの陸奥国みちのくのくにの大国造おおくにのみやつこの道嶋みちしまの宿禰すくねの嶋足しまたり

 オレは、本当は、道嶋みちしまの宿禰すくねの嶋成しまなり。貴族なんだ!」

「は……?」


 あたしは固まった。


(そんな馬鹿な……。)


 まわりを見ると、冗談に笑っている顔は一人もいない。佐久良売さまや、大川さまでさえ!


「え……?」

「オレは、父親と喧嘩をして、家を飛び出した。自分を鍛えなおしたくて、桃生柵もむのふのき進士しんし(志願兵)となった。

 戰が終結したら、家に帰る。

 そしたら、オレの妻として、牡鹿おしかに一緒に来てくれ!」

「はああああああ───っ?」


 あたしの口から、自分でも驚く大声がでた。

 若大根売わかおおねめが目を細め、


「わかるぅ……。」


 とぼそりとつぶやいた。

 佐久良売さまが、


「あなたが心配していた家の釣り合いは、むしろ、貴族である道嶋みちしまの宿禰すくねの嶋成しまなりさまの方が上よ。

 大領たいりょうである上毛野君かみつけののきみの大川おおかわさまより、身分は上なのだから。」

「…………!」


 もはや、声がでない。

 頬と眉がひくひくと動き、自分が今、どんな変な表情をしているのか、わからない……。


(貴族って、本当だったのぉぉぉぉぉ───!!)

 

 

 大川さまが麗しく笑い、


「ふむ。道嶋みちしまの宿禰すくねの嶋成しまなりさまは、大鍔売おおつばめに、ここで正式に妻問いをしたな。

 車持君くるまもちのきみの家にとっても、上毛野君かみつけののきみの家にとっても、慶事けいじ

 ……ああ、まだ、大鍔売の返事を聞いていないな。

 大鍔売、おまえの口から、気持ちを聞かせなさい。」

「…………。」


 大鍔売は、頭の理解が追いつかず、目眩めまいがしてふらついた。


「大鍔売!」


 と嶋成……、さまをつけるべきか。

 嶋成さまが背中を支えてくれた。

 昨日、たくさん愛してくれた男の肩に、こてん、とあたしの頭が乗った。


「大鍔売、驚かせてごめん。

 大丈夫か?

 大川さまと佐久良売さまとオレ、三人がいるここで、大鍔売の返事が欲しいんだ。

 恋うている。

 妻問いを受けてくれ!」

「あ、あたし……。あたしも……。」


(母刀自には、許しを得ていない。

 でも、これだけ、身分が高い相手なのだ。

 大川さまも、お味方くださるだろう。)


 あたしは腹に力をいれ、


「あたしも、嶋成さまを恋うています。

 妻問いを受けます。」


 としっかり言った。


「大鍔売……!」


 嶋成さまが、背中から、ぎゅう、とあたしを抱きしめた。


(待って。それは恥ずかしい。皆見てるでしょう!)


 やっぱり、嶋成、で充分だ。

 あたしは嶋成の右手を、むぎゅっとつねった。

 嶋成は、抱きしめるのをやめた。

 大川さまが美しい笑顔で、


「良いだろう。大鍔売、車持君の家には、私から良く伝えよう。何も心配するな。」


 とあたしに頷いたあと、


「嶋成さま、婚姻はいつになさいます?」


 とあたしの後ろの嶋成を見た。


「オレは、桃生柵もむのふのきの戦が終結するまでは、鎮兵としてここで戦います。婚姻はその後に。」

「わかりました。では、まだ大鍔売は、上毛野君かみつけののきみの女官の扱いです。もし、扱いを変えたければ、教えてください。

 大鍔売。

 未来の貴族の妻ならば、医務室で働かなくとも許される。どうしたい?」

「あたし……っ!」


 血の匂いや悲鳴を思い出す。

 そして、あたしの世話を待ってる負傷兵の顔を、ありがとう、と言ってもらった沢山の言葉を思い出す。


「あたし、医務室で働きたいです。

 戦が終結するまで、負傷兵がいなくなるわけじゃないから……!」


 佐久良売さまが、


「良く言いました。」


 と、天女のように優しい笑顔を浮かべ、頷いてくださった。


「佐久良売さま……。」


 あたしは嬉しくなって、佐久良売さまを見つめた。大川さまが、


「良し。」


 と頷き、


「では、大鍔売の扱いはそのように。他に何かありますか? 嶋成さま、佐久良売さま?」


 と二人を見る。

 二人は首をふった。


(今だわ!)


 あたしは、どうしても願いたい事がある。


「大川さま、恐れながら、大川さまに叶えていただきたいお願いが一つ、ございます。」


 あたしは、背中を支える嶋成しまなりから離れ、一人で立ち、礼の姿勢をとった。


「あたしに、大椿売おおつばきめと名乗る事をお許しください。

 広瀬さまに、大椿売おおつばきめと名乗ることを禁じられ、かわりに、大鍔売おおつばめの名前を与えられました。

 でもあたしは、あたしの名前は、大椿売です。

 あたしに、大椿売の名前を、返してください!」

「許す。」


 大川さまは、涼しい笑顔で、即答してくださった。


「あ……。」


 あたしの名前。

 広瀬さまに、わけもわからず、取り上げられた名前。


「ああ……!」


 返ってきた。

 あたしは取り戻した。


「大川さま、ありがとうございます。

 嶋成!」


 後ろを振り返り、


「あたしは、本当は、大鍔売おおつばめではないの。大椿売おおつばきめなの。

 今すぐ、本当の名前で呼んで。」


 懇願する。


「大椿売!」


 吾念君あがおもふきみが、呼んでくれた。


「あああああ……!」


 あたしは、失くしたものを、全て、取り戻した。


「わああ……!」


 あたしは膝から崩れおち、顔をおおって、大泣きをはじめた。










 こんな事って。


 こんな事ってあるの。


 もう、諦めていた。


 取り戻せるなんて、思ってもみなかった……!








 佐久良売さまが、


「大椿売、とこれからは呼んだほうが良いのね?」


 と穏やかに訊いた。


「はい。」

「大椿売、おみなの自由って何か、あたしに訊きましたね。

 郷の女には、郷の女の。

 女官には、女官の。

 郎女いらつめには、郎女のしがらみがあり、お互いには分からなくても、それぞれ、女は自由ではないわ。

 あたくしだって、家に縛られています。

 でもね、愛子夫いとこせと出会い、添い遂げることを人生のなかで選べたのなら、それがおみなの自由だと、あたくしは思いますよ。

 嶋成さまと、幸せになりなさい。」

「はい……!」

「ずぶび───っ!」


(……?)


 今、盛大に鼻をすすった音がした。

 その場が静まりかえった。

 佐久良売さまが、こめかみに手をやり、


若大根売わかおおねめ……。」


 とため息をついた。若大根売わかおおねめがぼろぼろ泣いて、


「ず、ずびばぜん、あたし、感動して……っ! ずぶびーっ!」


 鼻水をすすった。あたしは、


「ぷっ、あははははは!」


 と笑った。それにつられて、皆、あはは、と笑いはじめた。

 始終無言の大川さまの従者のみ、無表情で笑わなかった。





   



 

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