第七十五話  朱華の衣

(どういう事だ?!)


 嶋成しまなりは戸惑う。若大根売わかおおねめがにっこりと笑顔で、


「あたしは、佐久良売さくらめさまに仰せつかって、あなたをここまでお連れしました。あたしにくだされた命令は、ここまでです。

 あとは、いつここから帰るかは、ご随意ずいいに。」


 と嶋成に告げた。


(あ───ッ! こっちか! 佐久良売さまか!!)


 佐久良売さまは世話好きだ。

 佐久良売さまのおかげで、五百足いおたりは妻と婚姻できたと言っていた。


(これは佐久良売さまのおせっかい、企み、恋愛のお世話なのだ。

 その矛先が、まさか自分に向くとは……!)


 若大根売わかおおねめは、戸の外から、


「お連れしましたよ。大鍔売おおつばめ。」


 と部屋のなかに声をかけた。

 戸はすぐに開き、なかから、顎に手をあて、朱華はねず色の衣を着た大鍔売がでてきた。


(ほああ──────ッ!)


 室内に、蝋燭が灯されている。

 朱華はねず色の衣が、蝋燭の明かりのなかで、赤く、華やかに揺らめく。

 髪型も、いつもと違う形に結い上げ、額に花鈿かでん、唇と頬に、化粧紅。

 若いおみならしいあどけなさを、肌の白さと、化粧紅の赤が、魅力的に引き立てている。

 


 大鍔売おおつばめ、いつにも増して、綺麗だ。



(いや、そんな事を考えてる場合じゃない!)


 今は夜。

 ここは、大鍔売おおつばめが眠るのに使っている部屋だろう。間違いない。

 こんな時刻に、男が、そんな場所を訪れてはいけない。

 嶋成は、じり、と後退りをし、


「ンまっ、人に見られたら困りますわぁ────! 早く入れ。」


 若大根売わかおおねめにドンと背中を押され、部屋に押し込まれた。


「何す……っ!」


 嶋成が両手両足を床につくと、バタン、と戸が外から閉められた。


(ぬぉぉぉぉ……、部屋に入ってしまったぁ……。

 若大根売わかおおねめ、最後、早く入れって、だったろ……。)


「嶋成、立てますか?」


 さらりさらり、と衣擦れの音がして、大鍔売が嶋成を助け起こそうと近づいてくる。


「平気です!」


 嶋成は、びょん、と立ち上がった。

 大鍔売はくすり、と笑った。

 

(可愛い。)


 嶋成は、かーっと己の顔が熱くなるのを感じ、目を下に向けた。


(まずいまずい! オレはここにいたら、おかしくなってしまう。早くこの部屋を出ないと……。)


「嶋成、昨日は頬を叩いてしまったこと、謝罪をします。あたしを許してください。……まだ怒っていますか?」

「怒ってません! 全然怒ってませんよ! また、伯団はくのだん戍所じゅしょに遊びに来てくれたら、オレは嬉しいです。」


 嶋成は、大鍔売の顔が見れない。


「ではこれで、味澤相あじさはふ……。」

「まあっ! 帰らないで!」


 大鍔売があせった声をだした。





   *   *   *




 大鍔売は、佐久良売さまのご好意で、早めに女官の仕事を切り上げ、湯屋を使った。

 そして、上野国かみつけのくにから持参したとっておきの衣、朱華はねずの衣に袖を通した。

 かんざしや首飾りは佐久良売さまのものを借りた。

 髪は若大根売わかおおねめに結ってもらい、化粧は、佐久良売さま自らしてくださった。

 あたしは照れながらお礼を言い、佐久良売さまは、


「ふふ。綺麗よ。心配はいらないわ。良き夜を過ごしてね。」


 とあたしを送り出してくれた。






 あたしは、心臓しんのぞうが、トクトク、と高鳴るのを感じながら、自分の部屋で一人、嶋成を待った。






 鷲鼻の可愛い人。

 安也尓あやに希将見跡めづらしと 吾念君あがおもふきみ。(奇跡のように出会えた、あたしが想いを寄せる君。)

 あたしの大事な人。







 もう怒ってないかしら?

 あたしは、うまく言えるかしら……。





 若大根売わかおおねめに連れられてきた嶋成を一目見て、大鍔売は、


(素敵……。)


 と、照れた。佐久良売さまのご好意で、上質な衣をまとった嶋成は、まるで奈良にいる貴公子のように見えてしまう。


(嶋成は、あたしの姿を褒めてくれるかしら……。

 あなたの為に、着飾ったのよ。)


 嶋成は、あたしを見て何か言うどころか、困ったように一歩、後ずさった。

 若大根売わかおおねめが背中を押した。


(まずは謝罪よね。)


 あたしは、昨日、嶋成の頬を叩いてしまった事を謝罪した。

 嶋成は、怒ってない、と言いつつも、下を見てばかりで、あたしを見てくれない。


(褒めるどころか、見ようとしてくれない……。)


 と悲しくなった。

 嶋成は、帰りの挨拶をしかけたので、あたしは慌てて止めた。


(帰す気なんてないんだから!)


「だめ、帰っては。あなたは、嶋成は……。」


(あああ、恥ずかしー! でも、言うわ!)


「今宵、あたしの一夜夫ひとよづまとなりなさい!」




    *   *   *



(ほぎゃああああああ!)


 いや、そうかなとは思ったよ。

 だって、夜、おみなおのこを部屋に呼ぶってことはさ、そういう事だから。


(春だあああああああ!)


 いや、待て待て。落ち着けオレ。

 一夜夫ひとよづまってどういう事だ。


一夜夫ひとよづま、なるぅぅぅぅぅ! オレ、頑張っちゃう! さゑさゑをお約束しますっ。)




   *   *   *




 大鍔売は戸惑って嶋成を見た。

 一夜夫ひとよづまになりなさい、とあたしが告げたあと、嶋成が口をすぼめて、なんとも言えない顔で、無言となったからだ。

 ずいぶん時間がたってから、


「なぜ一夜夫ひとよづまなのです?」


 と嶋成は目を泳がせながら訊いた。


「あなたを恋い慕っているからです。でも、母刀自ははとじは、あたしが戯奴わけの妻となることを、許してはくださらないでしょう。

 だから、一夜だけの、つまです。」

「……恋い、慕って……?」

「そうです。あたしは、あなたを恋い慕っています。心から。」


 嶋成の頬が赤く色づいた。嶋成はようやく、あたしの顔を真正面から見た。


「オレも、大鍔売を恋うています。」


 と言ってくれた。


(……!)


 嬉しい。

 嶋成も、あたしを恋うていてくれた。

 あたしだけじゃなかったのね。






 恋い慕った人も、あたしを恋うてくれる。

 なんという安也尓あやに希将見めづらしき(奇跡)か。

 



   *   *   *



 

 嶋成は、顎に手をあてたまま華やかに微笑んだ大鍔売の、潤んだ瞳を見つめた。

  

(オレを、ただの鎮兵のオレを、恋い慕っていると言ってくれるのか。


 清いその身を、オレに一晩くれるというのか。

 母刀自にそむいて。

 そんなに、オレのことを恋い慕ってくれるのか。

 嬉しい。

 愛おしい。

 うらぐはし児ろ、大鍔売。

 もう、頃合いだろ?

 言え、オレ!)



   *   *   *




「大鍔売、一夜と言わず、オレの正式な妻となってほしい。オレは本当は貴族なんだ!」

「まあ、ほほほ。」


 大鍔売はびっくりして、目を丸くした。


(あり得ないわ。)


 嶋成はいきなり何を言い出だすのだろう?

 これが、地方豪族の吾妹子あぎもこを母に持つ、と言われたのなら、まだ信じられた。

 でも、言うに事欠ことかいて、貴族とは。


(これが、おのこおみなに自分を良くみせたい見栄、ってやつなのね。)


「言ったでしょう? あなたとの婚姻は母刀自が許しません。

 貴族だなんて!

 佐久良売さまから立派な衣を貸していただいたからって、そこまで気を大きくしてはいけませんよ。」

「しっ、信じてもらえない……。」


 嶋成はなんとも情けない顔をした。


(まだ言うか。困った人ね。)


妻問つまどいしてくれて嬉しかったわ。一生、その言葉を忘れません。」


 そう、それは本当に、嬉しい。

 うつつでは叶わなくても、あたしを一生の妻にしたい、嶋成はそう想ってくれているのだと、わかったから。


「あたしは、今宵一晩限り、あなたの妻です。

 それで許してね。

 ……貴族になったつもりで、嶋成さま、と、今宵だけは呼びましょうか? あなたがそれで満足するというなら……。」

「……いいえ。それはオレが望むことじゃない。

 嶋成と呼んでください。

 ……ただ、本当に、一夜だけの妻にするつもりはないんです。」

「一夜だけよ。」


 幾夜いくよもさ寝をしに、嶋成がこの部屋に通ってきたら、噂になるではないか。

 それは避けたい。


「あまりあたしを困らせないで。

 ねえ、他に言うことはないの?」

「え?」

「あなたの為に、今宵は、着飾ったのよ。」


 あたしは渋々、顎から手を離し、自分の全体を見せた。

 嶋成はしげしげとあたしを見て、


朱華はねずいろの衣が、あなたの美貌に映えて、とても綺麗です。」


 と言ってくれた。


(嬉しい!)


 心のなかで、佐久良売さまと若大根売わかおおねめが拳を握って、良し、と笑っている幻が見えた。

 あたしはすぐに、目立つ顎を手で隠し、


「あなたも、その紅絹もみいろの衣、良く似合って、立派です。あ、あなたは素敵です……。

 吾念君あがおもふきみ。」


 照れながら、正直に伝えた。












 ↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093079524036926


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