第七十四話  心のうたを聴け

「しくしくしく……。」


 嶋成しまなりは、伯団はくのだん戍所じゅしょの大岩に横倒しになり、めそめそと泣いていた。


 もう、夕餉の時間はすぎた。

 車持君くるまもちのきみの大鍔売おおつばめは、今日は伯団はくのだん戍所じゅしょに来なかった。


 あのは来ない。


 来ないんだよ〜。


 オレのうらぐわしろ(My sweet baby)。


 来ないんだ〜。


 どんなに。おう


 あの児に。おう


 癒やされていたのか……。


 毎日来てくれた、オレのうらぐわし児ろ(My sweet baby)。


 東を見てごらん?


 長尾ながおのむらじの真比登まひとの顔。


 見えたかい? おう


 にやけているね? 妻が佐久良売さまだからだよ!


 北を見てごらん?


 丈部はつせべの五百足いおたりの顔。


 見えたかい? おう


 可愛い妻を得て、男ぶりがあがったね。


 西を見てごらん?


 韓国からくにのみなもとの顔。


 見えたかい? おう


 恋人ができて、後光のような眩しさが増してるね。


 どういう理屈なのかな?

 聞いてみたってわからない。


 うーべなー、うーべなー。


 南を見てごらん?


 荒海あるみの久自良くじらの顔。


 見えたかい? おう


 離れていても、妻から心のこもった品物が届くんだ。


 いいね! 夫婦めおとって!


 うーべなー、うーべなー。


 いいね! いも愛子夫いとこせって!


 うーべなー、うーべなー。


 オレの春はどこなんだい?


 オレにも来たって思ったのさ。


 優しい春風とともに、オレだけの可愛い児が。


 おう! オレのうらぐわし児ろ(My sweet baby)。


 来ない〜。


 来〜ないんだ〜。



「しくしくしく………。」



    *   *   *




 源が心配そうに、


「嶋成、虚ろな目をして動かないな……。」


 久自良がいたましい、という顔で、


しかばねのようだ……。」


 と、嶋成を見守っている。ずっと、しくしく、しくしく、小声でつぶやいていた嶋成が、やっとまともに口を開いた。


「やっぱ、遊浮島うかれうきしまに行ったことなんて、ありませんって言っておけば良かったよぉぉぉ。」


 と情けないことを言う。

 源が、


「嘘は駄目だって。」


 と言うが、嶋成は大岩に横倒しになったまま、恨めしそうに源を見て、


「もう来てくれないかもしれない。オレの春は終わったんだ……。毛桃けももは実らず散ったんだ……。ぶつぶつぶつ……。」


 とぬばたまの闇より深き真っ黒な気配を巻き散らかしながらつぶやく。

 そこで久自良くじらが、


「あ、若大根売わかおおねめが来たぜ、源。」


 と声をかける。

 見れば、若大根売わかおおねめが、くいで簡易に区切られた伯団はくのだん戍所じゅしょの敷地に入ってきたところだった。


若大根売わかおおねめ!」


 源の笑顔がぱっと輝き、嶋成の闇をあたりからはらい、その後光の眩しさで、久自良くじらが、


「目が……!」


 と思わず目を細めた。

 源は、若大根売わかおおねめのもとへ一直線に走った。


 若大根売わかおおねめは、軍監ぐんげんである真比登のそばにいき、一礼したあと、くるり、と源のほうを向いた。


「源!」


 若大根売わかおおねめも、恥じらいつつ満開の笑顔を浮かべ、源の放つまばゆい光と、若大根売わかおおねめが発散する明るい光が、あたりに満ち満ちた。

 久自良が、


「ますます眩しいっつぅの。まったくお似合いの二人だね。」


 と肩をすくめ、嶋成に人好きのする笑顔をむけた。

 嶋成は、涙で大岩を濡らしながら、


「うん……。」


 と解脱げだつをとげたかのように煩悩を捨てた顔でつぶやいた。


 嶋成の涙で滲んだ視界に、こちらに歩いてくる若大根売わかおおねめが見えた。


「嶋成。あたしは、佐久良売さくらめさまから命じられて来ました。今すぐ、あたしと一緒に来てください。」

「え……? オレ……?」


 驚いた嶋成は、さすがに大岩から起き上がった。



   *   *   *



 嶋成は、長尾ながおのむらじの屋敷に案内された。

 若大根売わかおおねめが先導し、湯屋ゆやに通された。

 湯屋には誰もいなく、湯船にお湯が満たされ、湯気をあげていた。


「え? これはどういう?」


 嶋成が面食らうと、若大根売わかおおねめうやうやしく礼の姿勢をとる。


「嶋成さまにおかれましては、普段、兵舎暮らしで、湯船に浸かる機会もないかと。

 せめて今宵一晩くらいは、湯屋で汗を流し、身を清めてくださいませ、と、佐久良売さまから言付かっております。」

「あ、はい……、そうですか……。」

「湯船からあがりましたら、この布で身体をお拭きください。

 衣はこちらをお召しください。」


 若大根売わかおおねめが差し出した、身体を拭く用の布は、柔らかそうな木綿。

 衣は、明るい黄色と紅の複雑な色合い。

 梔子くちなしで下染めをしたあと、紅花で染めを繰り返し出した色合いだ。


(これは、道嶋みちしまの宿禰すくねの嶋成しまなりへの対応だな。)


 さっきまで、若大根売わかおおねめは、一人の鎮兵ちんぺいとして、嶋成に接していた。

 だが今、貴族の息子として接している。


(なんだ? いきなり……?)


 と面食らう気持ちと、


(昔は、これが当たり前だったんだよな。

 若大根売わかおおねめからこのような態度をとられると、むず痒い。なんでだろうな?)


 と、久しぶりに貴族らしく扱われ、己の感じ方に不思議な違和感を感じる。


 とにかく、嶋成は、貴族らしく背を伸ばし、


「ご配慮に感謝します。」


 と礼の姿勢をとる。










 夏は川で行水。

 冬はお湯を鍋で沸かして、お湯で身体を拭く。

 兵士たちの生活は、そんなものだ。


 九ヶ月ぶりに湯船につかり、その気持ちよさに、


「ふぃ〜。」


 ととろけそうになる。

 久しぶりの贅沢に、身体を芯まで温めてから、さっぱりした気分で、質の良い衣に袖を通す。


(佐久良売さま、ここまでしてくれて、嬉しいけれど、どういうつもりだろう?)


 今は、夜だ。


(まさかまさか、このあと、佐久良売さまの部屋に連れていかれて、


 ───嶋成さまン。あたくし、嶋成さまの魅力に気がついてしまいましたの……。


 なんて人妻から誘惑されてしまったらどうしよう……!

 タハ──────ッ!)


 嶋成は、一瞬、人妻のなまめかしい姿を想像しかけ、すぐに、


「いや、それはないな!」


 と口にだし、己の煩悩を断ち切った。

 では、どうしてだろう……。


(!)


 もしかして、オレの父親がここに来てるのではないか。

 父親がオレに会いたいと言って、佐久良売さまはご好意で、オレに貴族にふさわしい格好をさせてくれたのではないだろうか?


 そう思うと、腹の底が一気に冷えた。


 オレの父親は、オレに何を言うつもりだろう。

 また、バカ者か、と殴るつもりか。

 無理やり連れ戻そうとするのだろうか。


(オレは、もう、昔のオレじゃないぞ、父上……! 

 オレは、桃生柵もむのふのきの仲間を放っておいて、一人、牡鹿おしかに帰るつもりはない!)





 若大根売わかおおねめに先導され、夜の簀子すのこ(廊下)を歩く。




 たどり着いた先は、佐久良売さまの部屋でもなく、客を通す豪華な部屋でもなく、小さな、個室。


 おそらく、ここの女官が一人で寝泊まりする部屋、であった。





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