第七十ニ話  さねてやらさね、其の一

 嶋成しまなりが、いまだ毛桃けももの実らぬ桃の木を見上げ、ため息をついていると、大鍔売おおつばめが、


「……嶋成は、遊浮島うかれうきしまに行ったことはあるの?」


 とふいに訊いた。

 遊浮島うかれうきしまとは、財貨と引き換えにおのこ率寝ゐねする遊行女うかれめがいるところである。


(上客でした! とは言えないな。

 うーん、でも、行ってない、と言うのも嘘くさい……。そう、嘘はいかん、嘘は!)


「あります!」


 堂々と答えた。


「最低ーっ!!」


 怒声と平手打ちが飛んできた。

 ばしっと嶋成の頬から良い音がした。


「ぅぶっ!」


 ヒリヒリと、手の形が頬に痣となるような平手であった。


「最低! 最低よっ!」


 大鍔売は嶋成を睨み、きびすを返した。


「あっ……、待ってぇ!」


 大鍔売は、最低、を繰り返しながら、まるで嶋成に酷いことをされ傷ついたかのように、泣きべそをかき、伯団戍所から走り去った。

 古志加こじかが、


「花麻呂、あたしちょっと行ってくる! ……大鍔売!」


 とそのあとを走って追いかけた。


「はいはい。」


 と古志加のおりの花麻呂もあとに続く。


 みなもと久自良くじらが、


「あーあ……。」

「ありませんって言っておけば良かったのに……。」

「嘘はばれるぜ。」

「うべなうべな。」


 と顔を見合わせ、まわりでこの珍事を目撃した鎮兵が、


「うべなうべな……。」

「うべなうべな……。」

「嶋成、うべなうべな……。」


 と、同情の大合唱をした。

 嶋成は呆然と左頬を押さえ、


「えぇぇ………。」


 とつぶやくしかできなかった。








    *   *   *






「うっ、うっ、うっ………。」


 泣きべその大鍔売は、古志加に付き添われて、佐久良売の部屋に来た。

 古志加が、佐久良売と若大根売わかおおねめに、何があったのか説明する。

 佐久良売は眉をひそめた。


「大鍔売。身分あるおのこが、吾妹子あぎもこ(※注一)を持ったり、何人も妻を持つのは当たり前だと、あなただって教えられて育ったでしょう?

 ただの兵士である嶋成が、遊浮島うかれうきしまに行った事があるというだけで、頬を叩いたのは、やりすぎではなくて?

 ねえ、古志加?」


 古志加が頷く。


「あのさ、大鍔売。気持ちはわかるけどさ。

 おのこなんてそんなもんだよ。

 あたし、ここの兵士たちのことはわからないけど、上毛野衛士団かみつけののえじだんのことは、けっこう知ってる。

 衛士えじたちはね……、あのね……。」


 古志加は少し言いにくそうにしたあと、拳を握り、眉根をつめて叫んだ。


「皆、一人残らず遊浮島うかれうきしま行ってるんだよぉー!」

「づえぇっ!」


 若大根売わかおおねめが奇声を発し、古志加は、


「やだやだ、どうしておのこってこうなの? やだっ、不潔だよー!」


 嫌悪感をあらわに首をふりふりした。


「ううっ、ぐすん。」


 手布てぬの(ハンカチ)を口もとにあて、べそべそ泣く大鍔売の泣き声が、さらに大きくなる。


「古志加。おやめ!」


 佐久良売がピシャリと言った。

 

「あ……、はい。失礼しました。」


 古志加は、しまった、という顔をし、礼の姿勢をとる。

 

「もうお戻り。」


 古志加は、夕餉ゆうげ伯団はくのだんでとる。

 戻らねば食べ損ねる。

 花麻呂はこの部屋の外で古志加を待っている。花麻呂も戻らねば一緒に食べ損ねる。

 しかし、泣き続ける大鍔売が気になる古志加は、心配そうにこのふくよかな女官を見た。


 佐久良売は、


「古志加、ここはもう良いから。」


 心配は不要、と、古志加に一つ頷いた。


「はい。」


 古志加は挨拶をし、部屋を出た。



      *   *   *



「ぐすん……。ぐすん……。」


 大鍔売は泣きべそのまま、口を開いた。


「あたしだって、わかってますぅ……。

 身分あるおのこが何人も妻を持つのは常識だって。

 身分あるおのこでなくても、財貨に余裕のあるおのこは、遊びやつきあいで、遊浮島うかれうきしまに行くって。

 知ってますし、佐久良売さまのおっしゃる通りです。

 ぐすんぐすん……。

 だけど、あの人が……。

 嶋成が、そういうところに行って、あたしの知らないおみなに、あの手で触れたのか、と思ったら……。」


 嶋成は、あたしと会うと、いつも優しく、機嫌良く笑っていてくれる。

 手はいつも、行儀良く膝にのせられている。


 あたしは、その兵士らしい荒れた手を見て、あの手は硬いのだろうか? 嶋成は優しいから、あの手もやっぱり優しいのだろうか?

 と、時々、想像してしまう。


 過去、ほんの数回、あたしが嶋成に何か渡す時、偶然指が触れて、


 ───あっ。

 ───すみません!


 と、ふたりとも慌てて手をひっこめた事はあるが、少し触れただけ、体温のぬくみを感じただけで、感触は良くわからなかった。


 嶋成には、身投げを助けてもらった時に、立ち上がる気力のないあたしを、手を握って立たせてもらったことがある。


 どうしても、その感触が思い出せない。


 残念だ。なぜあたしは、あの短い間、嶋成があたしの手を握ってくれた感触を、あっさり忘れてしまったのだろう。





 そう思って、いつも、嶋成の手を見ていた。





 ───嶋成は、遊浮島うかれうきしまに行ったことはあるの?


 特に何かきっかけがあったわけではない。ふと、心に疑問が浮かんで、


(なんであたしはこんな事を訊こうとしているの?)


 そう思う間もなく、するっと、あの言葉が口から出てしまった。

 そして返ってきた答えに衝撃を受けた。


 嶋成は、あの手で、遊行女うかれめを抱いたことがあるのだ。

 あたしの知らないところで、はだかのおみなの背中に腕を回したことがあるのだ……。


 そう思ったら、


 ───最低っ!!


 その言葉しか口から出てこなかった。


「ぐすっ……、ぐすっ……。」


 あたしは、思い乱れて、涙が止まらない。


 頭と心が乖離かいりする。

 頭では、嶋成は大人のおのこなのだから、佐久良売さまや古志加の言う通り。

 過去、遊浮島うかれうきしまに行ったことがあるのは、当たり前だ、と思う。


 でも心では、


 ……嫌、嫌。あたしの知らないおみなの、はだかの背中に、その手で触れないで。

 嫌なの……。


 と思ってしまう。


(あたし、どうしてしまったの?)


 嶋成の頬を叩いたのは、やりすぎだ。

 彼は戸惑い、怒っているだろう。

 しかし今、彼を目の前にしても、何を言ったら良いのかわからない。

 自分で自分の行動が、理由わけがわからず、まだ、心乱れ、涙が湧き出るままだからだ。


(どうしたら良いの……?)


「さ寝てやらさね。(同衾どうきんしておやりなさい。)」


 佐久良売さまが澄まして言った。


「なっ……!」


 あたしは絶句し、


「づひょっ……!」


 若大根売わかおおねめが奇声を発した。

 部屋が突然、むわっ、と熱気に包まれた気がした。

 佐久良売さくらめさまは、完璧な美貌で、大鍔売おおつばめににっこりと微笑んだ。


「頃合いよ。そんなに恋うてるのなら、想いをげれば良いのよ。」

「ななな、ででで、できません。何をおっしゃるのですか! あたしは車持君くるまもちのきみの娘ですよ!?」

「ほほほ、存じておりますわ。」


(ここまで言わないとダメなの?)


「身を汚すわけにはまいりません!」


 大鍔売は、嶋成のもとに毎日顔を出してはいるが、明るいうちに、人目のあるところで、短時間話すだけだ。


 嶋成を、女官の一人部屋から朝帰りさせるのとは、決定的に違う。


 最近は、医務室の仕事にやり甲斐を感じ、大川さまにこの頑張りを訴えれば、上毛野君かみつけののきみの屋敷に戻っても、女官を放逐ほうちくされる事は免れるかもしれない、と希望を持ちはじめている。


 そしたら、二十歳まで女官としてつとめて、その後は堂々と生家に戻り、親が見つけた良い条件のおのこと婚姻することになるだろう。


 おのこによっては、婚姻する前に、夜、忍んでくることもある。


 もし、大鍔売が、桃生柵もむのふのきで、母刀自ははとじの目が届かないからと、身勝手な不貞ふていに走ったら。


 その時に、大鍔売の身が清くないことがばれるだろう。

 郎女いらつめにあるまじきこと。

 母刀自は烈火の如くお怒りになるだろう……。


(あたしは、こんな顎でも、桃生柵もむのふのきに送られても、車持君の娘よ。家に尽くすの。

 母刀自に、そのような酷い裏切りはできない。)









   *   *   *





(※注一)吾妹子あぎもこは、しゅうとめの許しは不要の、愛人。

 妻は、姑の許しがないとなれない。

 吾妹子の産んだ子は跡継ぎの資格がない。

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