第七十話  戀餘 〜こひあまり〜 其の二

 佐久良売さくらめは、察した。

 夜伽よとぎの使命を持って、大鍔売おおつばめは、ここに来たのだ。


大川おおかわさまは、あなたを放っておいてるのね。」

「はい。」

「そんなおのこは、あなたも放っておきなさい。」

「え……?」


 大鍔売おおつばめが目を丸くして驚いた。


上毛野君かみつけののきみの女官だから、慎み深くあらねばって思ってるのでしょうけど、肝心の大川さまが、おみなにそっけないじゃない。」


 不思議なのだが、あのおのこは、おみなに冷たい。

 部屋に忍び込んだ洗濯女を裁きの場につきだした時は、おみなに憎しみをあらわにしていた。


 多分この先も、大鍔売おおつばめねやに呼ぶことはないのではないか。


 そして、大鍔売が嶋成と噂になったとしても、もし、夫婦めおととなりたいと申し出ても、あのとらえどころのない微笑を崩す事はないのではないか……。


 佐久良売は、そんな気がしている。


(あぁ、早く、嶋成さまが道嶋宿禰嶋成みちしまのすくねのしまなりさまだとばらしてしまいたいわ。

 そうすれば、身分差を気にしている大鍔売の悩みはすぐに解決するのにっ!

 もどかしい……。)


「そっけないおのこは放っておいて、自分の気持ちを大切になさい。

 ここは上毛野君かみつけののきみの屋敷でも、車持君くるまもちのきみの屋敷でもない、桃生柵もむのふのきですのよ?

 親の目も、噂好きの人たちの目も、ここには届きません。

 ……ここは、戰場。

 当然、危険な場所です。そんなところにあなたは送り込まれたのよ?

 あなたが大切にしてる家の人達は、あなたの苦労を知ってるのかしら?」


 正面に座る大鍔売の瞳が揺れた。


「あなたが医務室で、血と悲鳴に耐えながら、歯を食いしばり、医師の手伝いをしている時、清潔な住まいで、命の危険なく、悠々と過ごしているのではなくて?

 そのような人たちが、あなたが上野国かみつけのくにに帰ったら、お手つきになれなかったとあなたを責めるのね。

 それに甘んじて良いの?」

「佐久良売さま……。」




   *   *   *




 大鍔売は、思う。


 医務室で、何度も吐きながら。


 上毛野君かみつけののきみの屋敷にいる女官たちは、誰も、こんな思いはしてないのに。


 あたしが遠い陸奥国みちのくのくにで、こんなに辛い仕事を頑張ってる間、皆は、あたしの苦労を知らず、のうのうと生活してるのだろうって思って。


 辛かった。


 その辛さを、佐久良売さまは、わかってくださるのだ。


「嶋成は、おみなが嫌がる戯れをしてきたりはしないのでしょう?

 ただ会って話をするだけなのだから、堂々と会いにいけば良いのよ。

 戰場の桃生柵もむのふのきを支えるおみなが、ささやかな気晴らしを持ったって良いはずよ!」


(本当に?

 命を助けてもらったお礼じゃなくても、会いにいって良いのかしら?

 嶋成は、手を握ろうとか、男女の適切な距離を越えて近づいてこようとか、あたしを困らせることは、一切しない。

 ただ、毎日会って話をするだけ。

 それだけの、ことなら。

 いいのだろうか?

 あたしにも許されるのだろうか?

 ここ、桃生柵もむのふのきでなら……。)



 ───毎日、会いに行っても、良いんだ。


 あたしの胸に、ぽっ、と嬉しさが蝋燭の明かりのように灯り、心があったかくなった。


 愛嬌のある、鷲鼻の男の顔が、まぶたに浮かんだ。






 桃生柵もむのふのき

 ここは不思議な場所だ。





 血なまぐさい。怖い。

 そして、佐久良売さまがいて、嶋成がいて、他にも優しい人がいて、毎日、男は戰場に立ち、女は傷病兵の世話をし。


 ───ありがとう。


 そう、負傷兵から、たくさん、声をかけられた。その言葉を聴くたびに、なんともいえない力が身体に湧き上がるのを感じる。


 桃生柵もむのふのきは、あたしにとって、泥のような闇があり、雪解けの朝陽のような清らかな光もある。


「佐久良売さま、おみなの自由って、なんですか?」

「えっ?」

「嶋成が、言ってくれたんです。ここは、あたしが思ってるより、ずっと自由な場所だって。

 あたしはずっと、その言葉の示す自由を、探してるんです。」

「………。」


 佐久良売さまが思案顔になった。




   *   *   *




 佐久良売は戸惑った。


(この、毎日男は戰場に立たねばならず、女は桃生柵もむのふのきから外出できない、この場所が?

 自由?)


 さらに、佐久良売にはわかるが、大鍔売は、名家の郎女いらつめとしての良識と常識に縛られている。


 郎女いらつめは、家の求めに従い、婚姻する。それが郎女だ。

 佐久良売は、今でこそ、それはイヤだと真比登を自分でつまに選んだが、過去、家の為にと良い条件のおのこに目がくらんだこともある。


 郎女いらつめが、家のくびきから完全に自由になることは難しい。

 長尾連ながおのむらじの長女なればこそ、佐久良売は桃生柵もむのふのきを支えるべく、医務室で頑張っているのだ。


 そんなおみなたちである、佐久良売と大鍔売にとって、自由とは何なのか。


「そうね……、自由、自由……。何かしらね。すぐに答えるのは難しいわ。時間をくれるかしら?」

「はい。」


 佐久良売は視線を感じた。古志加こじかが何か言いたげにしている。

 佐久良売が頷くと、


「あたし! ここが自由な場所ってわかります! いくらでも自由に強くなれます! 毎日が充実です!」


 ふん! と鼻息荒く古志加が拳を前に突き出した。


「……………。」


 佐久良売、若大根売わかおおねめ、大鍔売は、しらー、とした目で古志加を見た……。


「……あなたには、聞くだけ無駄ね。」

「えっ? なんで?!」


 古志加は驚く。


「ああ、古志加はそれで良いわ。

 桃生柵もむのふのきを守る為にこれからも頑張ってちょうだいね。」


 佐久良売は大鍔売おおつばめに向き直った。


「さて、始めの話に戻るけれど、毎日嶋成に品物を持っていくのは禁止よ。

 これからは何も持たず、会いに行って良いのよ。」

「はい。」

「でも、恋い慕う相手には、何かしらあげたくなるものね。

 あたくしも、つまが喜ぶものだから、毎日、夜食に握り飯を作ってしまうもの。

 真比登は、それはそれは美味しそうに食べてくれるの。その顔を見てると、幸せだわ。」

「……羨ましいです。」


 大鍔売は、ずいぶん素直にそう言った。


「ふふっ! そうでしょ! だからね、あなたも、時々なら、厨屋で嶋成の握り飯を作っても良いわ。」

「ありがとうございます! 佐久良売さま!」


 大鍔売は、ぱっと笑顔になり、椅子を立ち、机の横に行き、佐久良売に深く礼の姿勢をとった。


「この簪は、米代として、あたくしが預かりましょう。若大根売わかおおねめ、そういう事だから、厨屋くりやの女官たちにうまくはからってね。」

「はい。」


 若大根売わかおおねめも礼の姿勢をとる。


「そうと決まったら、さっそく厨屋くりやに向かうと良いわ。」


 佐久良売が大鍔売に促すと、顎の目立つ女は、頬を染め、もじもじとした。


「……なんでしょう。あたし、嶋成に会うのが恥ずかしいです。」


 恋心を自覚したので、嶋成さまにどんな顔をして会えば良いのかわからなくなってしまったのだろう。


(可愛いわね!)


「普通にしてれば良いのよ。握り飯をもらった時の嶋成の顔を想像してごらんなさい。あなたの握り飯を喜んでくれた顔、見たくないの?」


 大鍔売は、片頬に手をあて、


「……見たいです。よ、喜んでくれるかしら……?」


 と、しゅうしゅう湯気が出そうな頬の赤さで言った。古志加が、


「もっちろんだよぉ! 兵士は疲れるから、お腹空くもん! あたしも握り飯、欲しいくらいだよ!」


 若大根売わかおおねめが、


「きゃららららら。バカね、古志加ったら!」


 と笑った。


「ぷっ。」

「あはは!」

「ほほほ……。」

若大根売わかおおねめの笑い声って、面白いわね!」

「そう? きゃららら!」


 女四人、笑いさざめく。










 大鍔売は、顔に恥じらいと期待を滲ませながら、若大根売わかおおねめと厨屋へむかった。


 部屋に残された佐久良売と古志加は、顔を見合わせた。


 佐久良売は古志加に、


「大鍔売、可愛いわね。」


 と微笑みながら話しかける。古志加は、


「はい。」


 と頷き、


「二人がうまくいくと良いです。」


 と妻戸つまと(出入り口)のほうを見てつぶやいた。


「ええ。」


(───あなたもね、古志加。)


 と佐久良売は胸のうちで思う。


 古志加は難しい恋をしている。

 古志加の恋路の為にできることなら、なんでもしてあげたいが、まわりが変につつかない方が良い恋というのも、世の中にはある。


 佐久良売は、ただ黙って古志加を見た。







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