第六十九話  戀餘 〜こひあまり〜 其の一

 こもの  したひあまり


 白波しらなみ


 いちしろくでぬ  人の知るべく








 隠沼乃こもりぬの  下従戀餘したゆこひあまり

 白浪之しらなみの

 灼然出いちしろくいでぬ  人之可知ひとのしるべく







 こもの下に隠すように、誰にも知られぬよう、恋をしていたのに。

 恋するあまり、想いが溢れ、白波が立つようにハッキリと、態度に出てしまったようだ。

 人に知られてしまうほどに。

 










 ※こも……表面は流れのないように見えて、見えない水面下では流れのある沼を言う。

 ※いちしろく……はっきりと。




  万葉集  平群氏女郎へぐりのうじのいらつめ越中守えっちゅうのかみ 大伴宿祢家持おおとものすくねやかもちに贈った歌十二首の一首。



   *   *   *





 半月たった。


 三月。


佐久良売さくらめさま、お願いがあるんです……。」


 大鍔売おおつばめは、恥を忍んで、佐久良売さまを頼る事にした。

 佐久良売さまは、にっこりと優しく笑って、


「ええ、あたくしの部屋で話しましょう。」


 と言ってくださった。





 佐久良売さまの部屋の倚子に、佐久良売さまと大鍔売おおつばめが向かい合って座り、若大根売わかおおねめと女官姿の古志加こじかが、佐久良売さまの後ろに立った。


 大鍔売は、てこな(蝶)をかたどったかんざしを、懐から机に置いた。


「あたしに、これから毎日、厨屋くりやを使わせてほしいんです。あの、一人ぶんの米も、使わせてください。お代は、これでは足りないかもしれませんが……。」


 とかんざしを、すっと佐久良売さまの方に押し出した。


 かんざしは細工が良く、銀の色付けがしてある。

 ただ、物自体は木彫りである。

 豪族の娘なら、普通に持っている品。

 佐久良売さまからしたら、それほどの価値はないであろう。


 でも、急に上毛野君かみつけののきみの屋敷から陸奥国みちのくのくにに旅立つことになった大鍔売は、慌てて自分の持ち物をかき集めてきた。

 もともと、手持ちの品は、限られている。


 そこをさらに、毎日、何か持って嶋成に会いにいく為に、身を削るように、品物を手放して来てしまった。

 もう、限界だ。


 佐久良売さまは、表情を曇らせた。


(───どうしよう。)


 大鍔売は、机の下で、左手首をそっと握った。

 袖の下、左手首には、価値ある雑色瑠璃ぞうしきるり(色ガラス)の腕輪がある。

 これを出すべきか。

 そうすれば、佐久良売さまは間違いなく、厨屋くりやを使う事ぐらいは許可してくれるはずだ。


(でも、これを手放したら、本当にあたしは、交換できる高価な品物を全部手放し、丸裸になってしまう……。

 この先、どれくらい桃生柵もむのふのきにいるかわからないのに。

 それは怖いわ……。)


「大鍔売……。真比登まひとから聞いているのよ。

 毎日、嶋成しまなりのもとに通って、何かしら、品物を渡してるって。

 厨屋くりやを使いたいって言うのも、自分の為ではなく、嶋成の為ね?」

「そうです。」


 佐久良売さまは険しい顔のまま、ふーっと息を吐き出した。


厨屋くりやの使用許可をどうするかの前に、はっきりさせておきたい事があるわ。

 大鍔売。嶋成に会うたびに、何か品物を渡すのをやめてはいかが?

 嶋成があなたに、自分と会うなら何か必ず持ってこい、と要求したの?」

「まさかそんな!

 違います。嶋成は、そんな事一度たりとも言いません。

 むしろ、すまなそうにするので、あたしが無理やり嶋成の手に押し付けてるくらいです!」

「なら、何も持たずに会いに行きなさい。」

「いいえ、そんな事できませんわ!」


 大鍔売は膝に置いた手で、裳裾もすそ(スカート)を、きゅっ、と強く握りしめた。


 古志加こじかが物言いたげな視線を、佐久良売さまに送った。

 佐久良売さまは、古志加にひとつ頷き、発言の許可を与える。


「嶋成は、大鍔売が毎日会いに来てくれるのは嬉しいけど、品物を毎回持ってくる事に困っているようです。

 大鍔売に、持ってこなくて良いと何回も伝えているのに、聞き入れてくれない、と言っていました。」


 佐久良売さまが、古志加から、大鍔売に視線を戻した。


「という事のようですわよ?」


(嶋成がなんと言おうとも、あたしは、何も持たずに会いにいくなんてこと、できない。)


「嶋成に会いにいってるのは、ただ、命を助けてもらった礼を渡しにいくだけです。」


 古志加が口を挟む。


「嶋成、もう充分だって言ってたよ?」

「それでも! 命を助けてもらったのは、大恩なのですから、何回だって、礼を尽くすのは、おかしくないはずです!

 そうでないと……。

 上毛野君かみつけののきみの女官であるあたしが、戯奴わけ(目下の男)に毎日会いに行くなんて、おかしいわ。」


 佐久良売さまは静かに微笑んだ。


「おかしくないわ。それは、嶋成に恋してるからではなくて?」

「何をおっしゃるのです?!」


 大鍔売は声を荒げた。


「佐久良売さまだって、長尾連ながおのむらじの娘なのだから、おわかりになるでしょう?

 郎女いらつめとは、家の繁栄にかしずくもの。

 親が定めた家柄の良いおのこと婚姻するもの。

 それまでは慎みを持って暮らすものです。

 上毛野君かみつけののきみの女官であるあたしは、それ以上の使命があります。」


 豪族である長尾連ながおのむらじの女官は区別はないが、大豪族である上毛野君かみつけののきみの屋敷では、女官は、上級女官と下級女官にきっちり別れている。

 古志加は、下級女官だ。


 家柄の良い女官、上級女官は、上毛野君かみつけののきみおのこ吾妹子あぎもこに、妻にしてもらう事が、家の誉れである。


 上級女官は、若い時しか女官として務められない。

 二十歳までにお手つきにならなければ、生家に帰って、親の定めたおのこと婚姻するのだ。


「あたしがここに来たのは、家の繁栄の為に、大川さまの……!」


 お手つきになる目的で。






 なぜか、その言葉が、喉にひっかかって、言えなかった。






(あの、大川さまの?


 すごく美しい、優美な顔をして、でも、あたしには、何ひとつ与えようとしてくれなかった、大川さまの?


 ただ一人の女官として、上野国かみつけのくにからわざわざ陸奥国みちのくのくににきたあたしを、いまだに放っておいて、傍で女官らしい仕事さえさせてくれない、大川さまの?


 あたしは、大川さまのねやに呼ばれたい?)






 ───もちろん! 家の繁栄の為に。


 という声と、


 ───嫌だ。抱かれたくない。


 という、二つの声が、胸のうちからした。






 嫌だ、と言った心の声は、そのまま、


 ───嶋成。


 とつぶやいた。


 ───あの、優しい人が。

 ───愛らしい鷲鼻が。

 ───愛嬌たっぷりに笑う顔が。

 ───あたしに、頑張る勇気を与えてくれた人が。

 

 ───あたしは。


 ───あたしは。






 佐久良売さまは優しい笑顔を浮かべ、静かに言った。


「ある人に、毎日、会いたくなって。

 声が聞きたくて。

 話をきいてほしくて。

 笑顔をむけてほしくて。

 自分だけを見ててほしくて。

 会えれば、幸せな気持ちになって。

 その人の為に、何でもしてあげたくなって。

 そんな気持ちではない? 大鍔売?」

「…………。」

 

 あたしは、何も言えない。

 目に、涙がにじむ。


「それは、恋よ。それが恋なの。」




 ───あたしは、嶋成に恋してる。

 ───あの人は特別。

 ───安也尓あやに希将見人めづらしきひと(出会えたことが滅多にない奇跡のようだと思える人)

 ───あたしの大事な人……。




 あたしの心のうちから、声があふれる。


(でも、そんな、恋したって……。)


 あたしはうつむく。ぽろ、と涙が一滴、膝にこぼれた。


「ええ、あたしは、……恋、してます。嶋成に……。

 でも、それがなんだって言うんです?」


 あたしは、きっ、と前を向いた。


「恋したって、あたしが嶋成をつまにする事はありえません。

 母刀自ははとじが許しません。

 この戰が終結し、上毛野君かみつけののきみの屋敷に戻ったら、あたしは即刻、生家、車持君くるまもちのきみの屋敷に帰されるでしょう。」


 この屋敷を叩き出せ、という広瀬さまの命令は生きているからだ。


 両親からはさぞや、失望の目で見られるだろう。


「あたしは、女官を放逐ほうちくされた不名誉なおみなとして、まわりの嘲笑に耐えながら、生涯独り身で暮らすか。

 悪い条件のなかで親が見つけてきたおのこと婚姻させられるか。」


 覚悟せねば。

 どんな醜男しこおでも、おきなのような男でも、酷い家であっても。

 あたしはただ、少しでも車持君の家の為になるのなら、黙って妻となるだけだ。

 

「それが、あたしがこのあと辿る道です。」





 あたしは、広瀬さまの怒りに触れ。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷を追い出されかけ。

 首の皮一枚でつながった挽回ばんかいの機会、大川さまの寵愛を得ることにも失敗した、車持君の娘なのだから。



 

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