第六十九話 戀餘 〜こひあまり〜 其の一
いちしろく
恋するあまり、想いが溢れ、白波が立つようにハッキリと、態度に出てしまったようだ。
人に知られてしまうほどに。
※
※いちしろく……はっきりと。
万葉集
* * *
半月たった。
三月。
「
佐久良売さまは、にっこりと優しく笑って、
「ええ、あたくしの部屋で話しましょう。」
と言ってくださった。
佐久良売さまの部屋の倚子に、佐久良売さまと
大鍔売は、てこな(蝶)をかたどった
「あたしに、これから毎日、
と
ただ、物自体は木彫りである。
豪族の娘なら、普通に持っている品。
佐久良売さまからしたら、それほどの価値はないであろう。
でも、急に
もともと、手持ちの品は、限られている。
そこをさらに、毎日、何か持って嶋成に会いにいく為に、身を削るように、品物を手放して来てしまった。
もう、限界だ。
佐久良売さまは、表情を曇らせた。
(───どうしよう。)
大鍔売は、机の下で、左手首をそっと握った。
袖の下、左手首には、価値ある
これを出すべきか。
そうすれば、佐久良売さまは間違いなく、
(でも、これを手放したら、本当にあたしは、交換できる高価な品物を全部手放し、丸裸になってしまう……。
この先、どれくらい
それは怖いわ……。)
「大鍔売……。
毎日、
「そうです。」
佐久良売さまは険しい顔のまま、ふーっと息を吐き出した。
「
大鍔売。嶋成に会うたびに、何か品物を渡すのをやめてはいかが?
嶋成があなたに、自分と会うなら何か必ず持ってこい、と要求したの?」
「まさかそんな!
違います。嶋成は、そんな事一度たりとも言いません。
むしろ、すまなそうにするので、あたしが無理やり嶋成の手に押し付けてるくらいです!」
「なら、何も持たずに会いに行きなさい。」
「いいえ、そんな事できませんわ!」
大鍔売は膝に置いた手で、
佐久良売さまは、古志加にひとつ頷き、発言の許可を与える。
「嶋成は、大鍔売が毎日会いに来てくれるのは嬉しいけど、品物を毎回持ってくる事に困っているようです。
大鍔売に、持ってこなくて良いと何回も伝えているのに、聞き入れてくれない、と言っていました。」
佐久良売さまが、古志加から、大鍔売に視線を戻した。
「という事のようですわよ?」
(嶋成がなんと言おうとも、あたしは、何も持たずに会いにいくなんてこと、できない。)
「嶋成に会いにいってるのは、ただ、命を助けてもらった礼を渡しにいくだけです。」
古志加が口を挟む。
「嶋成、もう充分だって言ってたよ?」
「それでも! 命を助けてもらったのは、大恩なのですから、何回だって、礼を尽くすのは、おかしくないはずです!
そうでないと……。
佐久良売さまは静かに微笑んだ。
「おかしくないわ。それは、嶋成に恋してるからではなくて?」
「何をおっしゃるのです?!」
大鍔売は声を荒げた。
「佐久良売さまだって、
親が定めた家柄の良い
それまでは慎みを持って暮らすものです。
豪族である
古志加は、下級女官だ。
家柄の良い女官、上級女官は、
上級女官は、若い時しか女官として務められない。
二十歳までにお手つきにならなければ、生家に帰って、親の定めた
「あたしがここに来たのは、家の繁栄の為に、大川さまの……!」
お手つきになる目的で。
なぜか、その言葉が、喉にひっかかって、言えなかった。
(あの、大川さまの?
すごく美しい、優美な顔をして、でも、あたしには、何ひとつ与えようとしてくれなかった、大川さまの?
ただ一人の女官として、
あたしは、大川さまの
───もちろん! 家の繁栄の為に。
という声と、
───嫌だ。抱かれたくない。
という、二つの声が、胸のうちからした。
嫌だ、と言った心の声は、そのまま、
───嶋成。
とつぶやいた。
───あの、優しい人が。
───愛らしい鷲鼻が。
───愛嬌たっぷりに笑う顔が。
───あたしに、頑張る勇気を与えてくれた人が。
───あたしは。
───あたしは。
佐久良売さまは優しい笑顔を浮かべ、静かに言った。
「ある人に、毎日、会いたくなって。
声が聞きたくて。
話をきいてほしくて。
笑顔をむけてほしくて。
自分だけを見ててほしくて。
会えれば、幸せな気持ちになって。
その人の為に、何でもしてあげたくなって。
そんな気持ちではない? 大鍔売?」
「…………。」
あたしは、何も言えない。
目に、涙がにじむ。
「それは、恋よ。それが恋なの。」
───あたしは、嶋成に恋してる。
───あの人は特別。
───
───あたしの大事な人……。
あたしの心のうちから、声があふれる。
(でも、そんな、恋したって……。)
あたしはうつむく。ぽろ、と涙が一滴、膝にこぼれた。
「ええ、あたしは、……恋、してます。嶋成に……。
でも、それがなんだって言うんです?」
あたしは、きっ、と前を向いた。
「恋したって、あたしが嶋成を
この戰が終結し、
この屋敷を叩き出せ、という広瀬さまの命令は生きているからだ。
両親からはさぞや、失望の目で見られるだろう。
「あたしは、女官を
悪い条件のなかで親が見つけてきた
覚悟せねば。
どんな
あたしはただ、少しでも車持君の家の為になるのなら、黙って妻となるだけだ。
「それが、あたしがこのあと辿る道です。」
あたしは、広瀬さまの怒りに触れ。
首の皮一枚でつながった
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