第六十二話 名前を取り上げられた女、其の二
「手伝いは助かります。今、一番人手が足りていないのは、医務室よ。ああ、女官の衣が違うわね。こちらの女官の衣を用意し……。」
「結構よ! あたしは、
(この衣を脱いで、
あたしは、あたしは何の為にここに来させられたの。
どうして……?)
あたしは、優しく申し出てくれた佐久良売さまを、はねつけた。
佐久良売さまは、
「そう。かまいませんわ。」
と、困ったように笑い、お付きの女官、
途中、遠くを歩く、戰帰りの兵士たちの集団を見た。
男たちが発する、異様な雰囲気。
疲れきりながらも、全員、目が底光りし、荒んだ、抜き身の刀身のような危険な気配を、その集団は放っていた。
(怖い……。近寄りたくない。)
「あの先頭を歩く立派な
と、自慢げに言った。
でもその
だから、聞き間違いかと思った。
「……本当ですの?」
「ええ、そうよ。
聞き間違いじゃなかった。
ここは、何かが狂っている。
医務室に戻ってから、佐久良売さまは、あたしに優しくしてくれた。
しかし、その美貌が憎かった。
かたや、
かたや、
国は違えど、地位は対等、いいえ、車持君のほうがおさめる土地が広い、あたしの方が上なはず……。
しかし、この違いはなんだろう?
あたしは、この顔のせいで、こんなにも惨めな思いをして。
佐久良売さまは、素晴らしい美貌に恵まれて、
きっと、佐久良売さまがあたしの立場だったら、主の部屋から、夜、叩きだされるという屈辱は迎えなかったであろう。まさに微笑めば飛ぶ鳥を落とす美貌だ。
そして、医務室の仕事が、あたしにはとにかく、衝撃だった。
血。
死の匂い。
怖かった。
気持ち悪かった。もう、ほんの少しでも、こんな所にいたくない。そう思った。
何もかも嫌になって、佐久良売さまをあげつらってやった。
頬を叩かれた。
正直、あんなに怒るなんて思わなかった。佐久良売さまの怒りは恐ろしかった。
顔の皮をはがして、塩漬けにするとか言ってた。本当に怖い……。
あたしは叫びながら、医務室を逃げ出した。
(あたしが、こんな顎じゃなければ。今も
あたしがもっと美しく生まれていれば……。)
そうしくしく泣いていると、鷲鼻の男に声をかけられた。
声は優しかったけど、あたしに説教するのかとムカムカした。
面と向かって、醜いと言われた。
カッとなった。
心が傷ついた。
頬を叩いてやった。
でも、鷲鼻の男は、あたしに頬を叩かれても、少しも怒らず、静かな目で、
「オレは顔の事を言ったんじゃない。心ばえの事を言ったんだ。
そんなに豪族が偉いのか?」
と言った。
正直、何を言ってるの?
バカじゃないの?
と思った。
ただ、
「オレだって、耳がある。」
と、その男が己の耳をつまみ、
「心がある。」
と、己の胸をドンと叩いた時。
びくり。
とあたしの肩が震えた。
「酷い事を言われれば傷つく。」
という言葉が、なぜか、あたしの胸に突き刺さった。
「あなたは佐久良売さまに謝るべきだ。」
と言われて、あたしに優しくしようとしてくれた佐久良売さまの、激昂した顔を思い出した。
(あたし……、酷い事を言ったのかな……。
謝ったほうが……。)
という思いと、
(あの男が
という思いで、揺れた。
その揺れを、目の前の
「何よっ! 鷲鼻の
うまい罵り言葉が見つからず、そう言って、また、泣きながら、その場を逃げ出した。
泣いたって。
逃げたって。
行くところなんてない。
もうこうするしかない。
大川さまのお情けを頂戴するしか……。
あたしはよろよろ歩いて、夜、兵舎の大川さまの部屋を訪れた。
従者の三虎が部屋の外にでてきた。
「何の用だ?」
「大川さまに会わせてください。」
「だから、何の用だと言っている。」
「どうか……、あたしに一晩だけでも、お情けをください。」
「バカ! 帰れ!」
「お願い! あたしを部屋のなかに入れて! 大川さま! 大川さまあっ!!」
びしっ!
容赦ない三虎の張り手が、あたしの左頬に炸裂した。
(ああ、あたし、今日は、頬を叩かれたり、叩いたり、そればっかりだわ……。)
「出ていけ! 明日、
まだ、お前を護衛してきた衛士が残ってて、良かったな!
一緒に帰れ!」
「そんな……!
やめて、それだけは、お願い……!」
「もう一発叩かれたいか! 去れ!」
「うっ……、うわあああああ!」
あたしは兵舎を飛び出した。
壁越しに聞こえているだろうに、大川さまは結局、部屋のなかから一度も、顔も見せず、声もきかせてくれなかった……。
今度こそ、すぐに車持君の屋敷に、帰されるだろう。
そしたら、両親はあたしに失望し、あちこちで陰口を叩かれ、あたしに、居場所なんてない。
佐久良売さまに謝罪し、ここで医師の手伝いをし、もう長尾連の女官になったつもりで生きていく?
そんなのも嫌だ。
あんな血まみれの仕事、嫌。
希望はない。
あたしの明日に希望はない。
よろよろと庭を歩いていると、井戸が見えた。
「井戸だわ。」
泣きつかれ、干からびた唇から、ぽつりと声が漏れた。
ああ、あそこを覗き込んで、飛び込めば良いのか。
もう生きていても、希望はない。
来世はせめて、もっと美しく、自分の顎に悩まない女として生まれたい。
あたしは、ふらふらと井戸に手をつき、井戸をのぞきこんだ。そのまま、飛び込もうとした。
「バカッ、やめろっ!」
誰かが腰に抱きついて、あたしを引きずりあげた。
「離して! もう死ぬんだから! 生きてても希望なんてないんだから!」
「そんな事言うなっ!」
あたしは暴れたが、男の力は強く、あたしは身投げしそこなってしまった。
力なく、地面にしゃがみこむ。
「命を粗末にするな!」
そこにいたのは、月光を背にした、鷲鼻の男だった。
「わっ、わああああああん!
あんたなんて、何も知らないくせに───っ!」
あたしは
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