第六十二話  名前を取り上げられた女、其の二

 長尾ながおのむらじの佐久良売さくらめさまは、大川さまに負けずとも劣らない、素晴らしい美女だった。


「手伝いは助かります。今、一番人手が足りていないのは、医務室よ。ああ、女官の衣が違うわね。こちらの女官の衣を用意し……。」

「結構よ! あたしは、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官ですわ!」


(この衣を脱いで、長尾連ながおのむらじの女官の姿になるなど───、本当に、上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官でなくなってしまうみたいで、嫌!

 あたしは、あたしは何の為にここに来させられたの。

 どうして……?)


 あたしは、優しく申し出てくれた佐久良売さまを、はねつけた。

 佐久良売さまは、


「そう。かまいませんわ。」


 と、困ったように笑い、お付きの女官、若大根売わかおおねめに、あたしがこれから住む女官の一人部屋を案内させた。


 若大根売わかおおねめはおしゃべり好きで、佐久良売さまは前采女さきのうねめだったと自慢し、佐久良売さまの部屋の場所も教えてくれた。


 途中、遠くを歩く、戰帰りの兵士たちの集団を見た。

 男たちが発する、異様な雰囲気。

 疲れきりながらも、全員、目が底光りし、荒んだ、抜き身の刀身のような危険な気配を、その集団は放っていた。

 よろいにたくさんこびりついたのは、己の血か、返り血か。


(怖い……。近寄りたくない。)


 若大根売わかおおねめは、そんな異様な集団を、眉をひそめる事なく平然と見て、


「あの先頭を歩く立派な挂甲かけのよろいの方が、佐久良売さまのつま、真比登さまよ。」


 と、自慢げに言った。


 でもそのおのこは、頬に醜い疱瘡もがさがあった。

 だから、聞き間違いかと思った。


「……本当ですの?」

「ええ、そうよ。

 建怒たけび朱雀すざくと異名を持っていて、強い武人なのよ!」


 聞き間違いじゃなかった。






 ここは、何かが狂っている。






 医務室に戻ってから、佐久良売さまは、あたしに優しくしてくれた。

 しかし、その美貌が憎かった。


 かたや、陸奥国みちのくのくに桃生もむのふのこほり少領しょうりょう長尾ながおのむらじの娘。

 かたや、上野国かみつけのくに吾妻郡あがつまのこほり少領しょうりょう車持君くるまもちのきみのの娘。


 国は違えど、地位は対等、いいえ、車持君のほうがおさめる土地が広い、あたしの方が上なはず……。


 しかし、この違いはなんだろう?


 あたしは、この顔のせいで、こんなにも惨めな思いをして。

 佐久良売さまは、素晴らしい美貌に恵まれて、前采女さきのうねめとして洗練されていて。


 きっと、佐久良売さまがあたしの立場だったら、主の部屋から、夜、叩きだされるという屈辱は迎えなかったであろう。まさに微笑めば飛ぶ鳥を落とす美貌だ。


 そして、医務室の仕事が、あたしにはとにかく、衝撃だった。


 血。

 死の匂い。

 怖かった。

 気持ち悪かった。もう、ほんの少しでも、こんな所にいたくない。そう思った。

 何もかも嫌になって、佐久良売さまをあげつらってやった。

 頬を叩かれた。


 正直、あんなに怒るなんて思わなかった。佐久良売さまの怒りは恐ろしかった。

 顔の皮をはがして、塩漬けにするとか言ってた。本当に怖い……。

 あたしは叫びながら、医務室を逃げ出した。


(あたしが、こんな顎じゃなければ。今も上毛野君かみつけののきみの屋敷にいられたはず。こんな遠い場所で、おぞましい仕事を言いつけられるなんて事はなかったはず。

 あたしがもっと美しく生まれていれば……。)


 そうしくしく泣いていると、鷲鼻の男に声をかけられた。

 声は優しかったけど、あたしに説教するのかとムカムカした。


 面と向かって、醜いと言われた。


 カッとなった。


 心が傷ついた。


 頬を叩いてやった。


 でも、鷲鼻の男は、あたしに頬を叩かれても、少しも怒らず、静かな目で、


「オレは顔の事を言ったんじゃない。心ばえの事を言ったんだ。

 そんなに豪族が偉いのか?」


 と言った。

 正直、何を言ってるの?

 バカじゃないの?

 と思った。

 ただ、


「オレだって、耳がある。」


 と、その男が己の耳をつまみ、


「心がある。」


 と、己の胸をドンと叩いた時。


 びくり。


 とあたしの肩が震えた。


「酷い事を言われれば傷つく。」


 という言葉が、なぜか、あたしの胸に突き刺さった。


「あなたは佐久良売さまに謝るべきだ。」


 と言われて、あたしに優しくしようとしてくれた佐久良売さまの、激昂した顔を思い出した。


(あたし……、酷い事を言ったのかな……。

 謝ったほうが……。)


 という思いと、


(あの男が疱瘡もがさ持ちなのは、本当のことじゃない。)


 という思いで、揺れた。

 その揺れを、目の前の戯奴わけに見透かされているようで、不愉快だった。


「何よっ! 鷲鼻の戯奴わけっ!」


 うまい罵り言葉が見つからず、そう言って、また、泣きながら、その場を逃げ出した。



 泣いたって。


 逃げたって。


 行くところなんてない。


 もうこうするしかない。


 大川さまのお情けを頂戴するしか……。



 あたしはよろよろ歩いて、夜、兵舎の大川さまの部屋を訪れた。

 従者の三虎が部屋の外にでてきた。


「何の用だ?」

「大川さまに会わせてください。」

「だから、何の用だと言っている。」

「どうか……、あたしに一晩だけでも、お情けをください。」

「バカ! 帰れ!」

「お願い! あたしを部屋のなかに入れて! 大川さま! 大川さまあっ!!」


 びしっ!


 容赦ない三虎の張り手が、あたしの左頬に炸裂した。


(ああ、あたし、今日は、頬を叩かれたり、叩いたり、そればっかりだわ……。)


「出ていけ! 明日、桃生柵もむのふのきから上野国かみつけのくにに送り返す。

 まだ、お前を護衛してきた衛士が残ってて、良かったな! 

 一緒に帰れ!」

「そんな……! 

 やめて、それだけは、お願い……!」

「もう一発叩かれたいか! 去れ!」

「うっ……、うわあああああ!」


 あたしは兵舎を飛び出した。

 壁越しに聞こえているだろうに、大川さまは結局、部屋のなかから一度も、顔も見せず、声もきかせてくれなかった……。







 上毛野君かみつけののきみの屋敷に送り返されたら。


 今度こそ、すぐに車持君の屋敷に、帰されるだろう。


 そしたら、両親はあたしに失望し、あちこちで陰口を叩かれ、あたしに、居場所なんてない。


 佐久良売さまに謝罪し、ここで医師の手伝いをし、もう長尾連の女官になったつもりで生きていく?


 そんなのも嫌だ。

 あんな血まみれの仕事、嫌。


 希望はない。


 あたしの明日に希望はない。


 よろよろと庭を歩いていると、井戸が見えた。


「井戸だわ。」


 泣きつかれ、干からびた唇から、ぽつりと声が漏れた。


 ああ、あそこを覗き込んで、飛び込めば良いのか。


 もう生きていても、希望はない。


 来世はせめて、もっと美しく、自分の顎に悩まない女として生まれたい。


 あたしは、ふらふらと井戸に手をつき、井戸をのぞきこんだ。そのまま、飛び込もうとした。


「バカッ、やめろっ!」


 誰かが腰に抱きついて、あたしを引きずりあげた。


「離して! もう死ぬんだから! 生きてても希望なんてないんだから!」

「そんな事言うなっ!」


 あたしは暴れたが、男の力は強く、あたしは身投げしそこなってしまった。

 力なく、地面にしゃがみこむ。


「命を粗末にするな!」


 そこにいたのは、月光を背にした、鷲鼻の男だった。


「わっ、わああああああん!

 あんたなんて、何も知らないくせに───っ!」


 あたしはせきを切ったように、大声で泣いた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る