第五十八話  三日月を顔に持つ女、其の二

 大鍔売おおつばめ佐久良売さくらめさまにむかって、居丈高いたけだかに三日月顎をそらした。


「あたしは、上野国かみつけのくに吾妻郡あがつまのこほりを治める車持君くるまもちのきみのの娘です。

 桃生郡もむのふのこほりを治める長尾ながおのむらじとは、対等の地位のはずよ!」

「……わかりました。大鍔売おおつばめさま。では、静かに教えた仕事に戻って……。」

「ほほ、嫌です。このような場所、血と死を浴びて、穢れてしまうわ。」


 厭味いやみったらしく笑ったおみなは、侮蔑ぶべつの目であたりを見回した。


 目つきの据わった佐久良売さまのまわりから、ヒュゥゥゥ……、と、氷のような冷気が四方に放たれた。

 嶋成はゴクリ、と生唾なまつばをのんた。


「副将軍殿から女官として好きにつかってほしいと言われたから、医務室に連れてきてみれば、なんという……。」

「あたしは医務室に来たいなんて言ってません!

 豪族の娘が、よくこんな穢れた仕事ができますこと。

 前采女さきのうねめでいらしたんでしょう? 佐久良売さま。

 宮中では、穢れを避けて生活なさっていたのではなくて?

 ああ、醜い疱瘡もがさ持ちをつまになさってるくらいですものねえ、穢れなんて……。」


 三日月顎のおみなは最後まで言えなかった。


 ばしーん!


 佐久良売さまの張り手が若いおみなの左頬に炸裂した。


「きゃあ!」


 大鍔売おおつばめは悲鳴をあげた。


「なっ、何す……。」


 またもや最後まで言えなかった。強烈な次の張り手がおみなの右頬を見舞った。


「ぎゃっ!」


 佐久良売さまは憤怒し、


「よくもあたくしの愛子夫いとこせにそんな口を……ッ! 之毛度しもと(鞭打ち)の刑では足りぬ! 顔の皮を剥いで塩漬けにしてやる!!」

「ひぃ……っ!」


 大鍔売おおつばめは青い顔をして震え上がった。

 なおもおみなに手をあげようとする佐久良売さまを、若大根売わかおおねめが後ろから腰に抱きつき、


「佐久良売さま、お鎮まりあれ!

 上野国かみつけのくにの女官です。

 副将軍殿から預かった郎女いらつめです。

 お鎮まりあれ!」


 と必死に止めた。


「ええい、お離し!」


 他の女官も、髪を振り乱し暴れようとする佐久良売さまをなだめにかかる。


「こんなところ、もう嫌───ッ!」


 顎の張り出したおみなは、両頬を抑えて、医務室を逃げ出した。


(可哀想にな、佐久良売さま。真比登をああ言われちゃ、怒りもするよな。)


 佐久良売さまは、


「許せぬ、あのおみな───っ!」


 としばらく荒れ狂い、


「ちょっと留守にします。」


 としばらく、医務室をあとにした。


 医務室に帰ってきた時には、すっかり落ち着き、何事もなかったように、医師の手伝いを再開した……。


 嶋成は、薬草の替えを一回分、渡してもらい、医務室をあとにした。


 左足を引きずりながら、ゆっくり、兵舎へ向かうと、道脇の木立から、


「うっ、うっ、うっ……、ぐすっ……。」


 とおみなが忍び泣きをしている声が聞こえた。


 多分、さっきの三日月顎のおみなだろう。


 嶋成は、声をかけようか、無視してこのまま道を進もうか、しばらく迷ったのち、


佐久良売さくらめさまを、誤解されたくないな。

 佐久良売さまは、怒らせたら怖いけど、愛情深い優しい人でもある。それを伝えたいな……。)


 と、泣き声が聞こえる木立に分け入った。


 大鍔売おおつばめは一人しゃがみこみ、肩を震わせて泣いていた。

 嶋成の気配に気がつき、涙の光る目で、きっ、と嶋成を睨みつけてきた。

 やっぱり顎が三日月のように前にせりだしている。


ね!(あっち行け)」

「あのさ、叩かれたのは可哀想だけどさ……。」

「往ねと言ったのが聞こえなかったの。戯奴わけ(目下の男)が話しかけないで!」


 嶋成はカチンときた。


「オレは戯奴わけじゃない。」


 本当は大国造おおくにのみやつこ、貴族の息子だ。

 だがそれをいちいち自慢するつもりはない。


「きちんとした鎮兵ちんぺいだ。」

「だから何よ! あたしは車持君くるまもちのきみの娘、上毛野君かみつけののきみと同じ豊城入彦命とよきいりひこのみことを祖先とする名家なのよ。

 偉いんだから!

 正一位太政大臣、淡海公たんかいこう藤原不比等ふじわらのふひと)を産んだのは、車持くるまもち与志古よしこのいらつめ、あたしの一族なんですからね! 

 あたしの家は立派な家なんだから!」


 おみなは血筋の自慢をまくしたてた。

 唇がまくれあがり、目つきは侮蔑に歪み。

 醜かった。


 もはや、顔立ちとか、そういう問題ではない。

 心の暗さが、目や口からあふれて、黒い色を大鍔売おおつばめの顔に塗りたくっているかのように見えた。





 そうか。


 これは、オレか。






 佐久良売さまにも、ごてごてに着飾って、縁談の席についた昔のオレは、こう見えていたのか。


「醜いな。」

「なぁんですってぇぇえ! 無礼な!」


 おみなは立ち上がった。悔しそうに、


「おまえこそ、鷲鼻の醜男しこおのくせに!」


 真っ赤な顔で右手をふりかぶり、


おみなの顎のことを言えて?!」


 びしり。


 嶋成の左頬を強かに打った。

 嶋成は、右に傾いた顔を静かに戻し、大鍔売おおつばめを見た。


「オレは顔の事を言ったんじゃない。心ばえの事を言ったんだ。

 そんなに豪族が偉いのか?

 戯奴わけだから見下して良いのか?

 何を言っても傷つかない、バカにして良いと思っているのか?

 豪族の娘だ、偉いんだ、それだけを繰り返す自分の顔が、どれだけ醜いのか、知らないのか?

 オレだって、耳がある。

 心がある。

 酷い事を言われれば傷つく。

 佐久良売さまが怒ったのも当たり前だ。

 愛する愛子夫いとこせを侮辱されて、心が傷ついたんだから。

 あなたは佐久良売さまに謝るべきだ。」

「う……。」


 大鍔売おおつばめはぐっと言葉につまった。ぼろぼろと泣きながら、


「何よっ! 鷲鼻の戯奴わけっ!」


 と、くるりと踵をかえして、ふくよかな身体を揺すりながら走り去っていった。


(やれやれ……。まだ年若いおみなに、少々大人気なかったかな……。)


 三日月顎のおみなに鷲鼻の醜男しこおとののしられても、ちっとも気にならなかった。

 気にするほうが馬鹿らしい。


(オレはふっくらした体型のおみなが好みだが、あれはないな……。顎のせいか、可愛げのない性格のせいか、とにかく心惹かれない。

 やっぱり、人とは、中身なのだ。)


 きっと、嶋成の言葉は、あのおみなには届かなかったろう……。


(声をかけるんじゃなかったな……。)


 左頬がじんじんする。

 嶋成はため息をつき、兵舎へむかって、左足を引きずりながら歩きだした。








   *   *   *




 著者より。


 次話、「【主要登場人物の現在まとめ】おまけつき」

 は、必読です! おまけがBIGなので、読み飛ばさないでね!



    


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