第六十四話 八穂蓼、其の二
大豪族の判断を、こんなにあっさりと覆すことができるなんて。
兵舎をあとにし、
「良かったな。女官部屋まで送るよ。」
と言ってくれた。あたしはコクンと頷く。
───女官にだって、心がある。
そんな事を、今まで教えてくれる人はいなかった。
女官は仕えるもの。
主の言うことを聞くもの。
主に逆らわないもの。
それが女官だ。
でもあたしは。
広瀬さまに名前を取り上げられた時も。
大川さまにとりあってもらえなかった時も。
なんで? と、ずっとずっと、傷ついていたんだわ……。
あたしにだって心があるんだもの。
男女の適切な距離を開けて、目の前を歩く嶋成の背中を見る。
この人がいなかったら、あたしは今頃、黄泉渡りをしていた。
この人はあたしの命を助けてくれた。
のみならず、ここにいられるよう掛け合って、あたしを助けてくれた。
嶋成。
名前、呼びたい……。
「し、嶋成。」
はじめて、彼の名前を口に出すと、嶋成は立ち止まり、振り返った。
「ありがとうございます。助けてくれて……。
あたし、あなたに、鷲鼻とか、
どうして、ここまでしてくれるの?」
「死にそうなの、放っておけないだろ?」
嶋成は、にこっ、と笑った。
目の色が明るい。
(見返りや、打算など、この人にはないんだわ……。)
「大川さまや三虎と、あんなに気安く喋れるなんて、あなたって何者なの?」
着ている衣は、あちこち傷や汚れがあるが、良く見れば、ずいぶん質が良い布だ。
「ただの鎮兵だよ。きちんとした鎮兵さ。」
嶋成は、ふっと笑った。
なんというか、大人の男、という微笑みだった。
「なあ……、せっかく
ここで、今までの自分を捨てて、生まれ変わるつもりで生きてみたら?
自分がその気になれば、人って変われるんだぜ?」
「え?」
あたしは、家のため、女官となり、大勢の女官のなかから、
「女官としてではなく?」
「そう。自分の好きな自分になる為に。大鍔売って、自分のことが好きか?」
(好き……?)
「そんな事、考えたこともなかった。」
「オレはここに来て、昔よりずっと、自分のことが好きになったぜ。
戰場だけどさ。
ここって大鍔売が思ってるよりずっと、自由な場所だぜ。」
嶋成は、晴れやかに笑った。
その笑顔が、かっこよかった。
あたしは見惚れた。
トットットッ……。
鼓動が乱れる。
「……あたしの事、醜いって言ったくせに。」
「豪族だって威張ってる心ばえの事を言ったのさ。別に顔が醜いとは……。」
嶋成が、足を引きずりながら、二歩、近づいて、あたしの顔をのぞきこんだ。
あたしはいきなり、カーッと顔が熱くなった。
(恥ずかしい!)
「見ないでっ!」
両手で顔を、とくに顎を念入りにおおう。
「ここまででけっこうです!」
あたしは嶋成を追い越し、とたたた……、と女官部屋にむかって走りだした。
* * *
嶋成は、
(あれ? 走っていっちゃった……。
走れる元気が出たようで、何よりだね。)
としか思わなかった。
(さて……。)
うーん、と背伸びをする。
(人助けは気持ち良いな! うんうん、良い事をした……。)
とだけ思い、もうこの事は忘れ、兵舎に片足を引きずりながら歩きだした。
酒の肴にもならぬ話は、覚えていなくても良い。
もともと、あの
* * *
大鍔売は、女官の一人部屋で眠り、翌日、朝はやく、佐久良売さまの部屋に向かった。
───佐久良売さまが怒ったのも当たり前だ。
愛する
あなたは佐久良売さまに謝るべきだ。
あの人が、そう言ってくれたから。
あたしは、謝るべきだ。
不思議なほど、素直にそう思えた。
あたしは佐久良売さまに、
「佐久良売さまの
お許し願えますか?」
そう、深く礼の姿勢をとった。
* * *
佐久良売は、文句を言ってやりたい気持ちが瞬間的にくすぶったが、真比登の、悲しげな、
「もう、良いんです、佐久良売さま。」
という言葉を思い出した。
目の前の年若い女は、昨日のふてくされたような様子は欠片もなく、今はただ、しおらしく、うなだれていた。
(もう、良いわ。)
「あたくしもつい言いすぎたわ。
あたくし、真比登のこととなると、冷静でいられないの。
もうこれで、よろしいですわ。
辛い仕事ですもの。
休み休みでも良いわ。
徐々に慣れてくださいね。」
そう言って、佐久良売は優しく微笑んだ。
大鍔売はホッと肩の力が抜け、顔から緊張が抜けた。
「あの……、あたしは、佐久良売さま、とお呼びしますが、あたしのことは、大鍔売とお呼びください。
あたしは、車持君の娘ですが、佐久良売さまは、
……あたし、見栄っ張りでしたわ。」
と、大鍔売は恥ずかしそうに笑った。
その笑顔は、可愛らしいものだった。
* * *
大鍔売は、昼餉のあと、もらった休憩時間で、兵士たちのいるところへ行ってみた。
まばらに傷病者や、数少ない兵士たちがいたが、大半の兵士は、まだ戰から帰ってきてなかった。
嶋成は見つからなかった。
医務室の仕事は、体より心が辛かった。
二回、吐いた。
でももう、逃げ出したいとは思わない。
───戰場だけどさ。
ここって大鍔売が思ってるよりずっと、自由な場所だぜ。
あの人はそう言った。
ここが、どう自由な場所なのか、まださっぱり、わからない。
でも、あの人がそう言うなら、きっとそうなのだ。
───今までの自分を捨てて、生まれ変わるつもりで生きてみたら?
自分がその気になれば、人って変われるんだぜ?
あたしも、生まれ変わってみたい。
───オレはここに来て、昔よりずっと、自分のことが好きになったぜ。
あたしも、自分で自分を好きになりたい。
あの人の言葉が、胸にあった。
あたしは、頑張れる。
夕刻。
兵士たちが戰場から帰ってきた。
あたしは、夕餉のあと、兵士たちのいるところに行ってみた。
人数が多い!
沢山の男たちの、むわっとする匂いがする。
嫌だ。
でも、医務室のめまいがするような匂いよりかは、まだマシだ……。
あたしはキョロキョロ、頑張って探したが、嶋成は見つからなかった。
(お礼の品も渡したかったのに……。)
翌日も、自由になる時間で、兵のいるところを探しに行ったが、嶋成は見つからなかった。
勇気をだして、兵士の一人に、
「あの、嶋成って知りませんか?」
と聞いてみたが、
「知らねぇな。」
と返事がかえってきた。
他の兵士に、
「鎮兵の嶋成って知りませんか?」
と聞いてみたが、
「さあ? 鎮兵っていくつか団があるんだろ。どの団?」
と聞き返され、
(あたし、どの団かなんて知らない……。このまま、見つからないのかな。もう、あの人には会えないのかな……。)
さらに次の日、夕刻、三虎が医務室に顔をだした。
佐久良売さまと話をし、あたしとも話をした。
「頑張ってるようだな?」
「はい。」
「励めよ。」
「はい。」
という短い会話のあと、大川さまの従者は、さっ、と医務室からいなくなった。
(あっ、待って!
嶋成がどこにいるか知ってたら教えて欲しかったのに!
バカバカ、怖い従者の
あたしは泣きそうになりながら、心のなかで三虎を
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