第五十四話  故非忘れ貝

 そでは  手本たもととほりて


 れぬとも


 恋忘こひわすがひ  らずは行かじ






 和我袖波わがそでは  多毛登等保里弖たもととほりて

 奴礼奴等母ぬれぬとも

 故非和須礼我比こひわすれがひ  等良受波由可自とらずはいかじ





 波が手元を伝ってきて、オレの袖がずぶ濡れになろうとも、恋忘れ貝を拾わずには帰らない。





 ※恋忘れ貝……恋を忘れることができる貝




     万葉集  作者不詳  遣新羅使けんしんらし







      *   *   *





 夕餉を終え。


 韓国からくにのみなもとと、荒海あるみの久自良くじらが、


「ちょっと来いよ。」


 と、人の輪から離れたところへ、嶋成しまなりを誘った。


「……なんだよ。」


 久自良くじらがオレを見た。


古志加こじかにふられたか。」

「なんで……ッ!」

「おまえの顔に書いてある。

 見ればわかる。

 ひどい顔をしている。」

「ほっとけよ!」

「……ほっとけんな。友だろ、オレたち。」

「う……。」

「付き合うから、呑めよ。」


 久自良がオレにつきを持たせ、源が、浄酒きよさけをついでくれる。


 オレは呑んだ。

 呑んでも、呑んでも、吉弥侯部きみこべの古志加こじかの面影が脳裏にちらついた。




 大きな潤んだ瞳。

 可憐な赤い唇。

 赤く光る、紅珊瑚の耳飾り。

 たゆらと揺れる豊かな胸。

 花のようなくわ

 



 ───だから、嶋成をそういう目で見る事はできない。

 ……ごめん。




「うっ、うっ、うっ……。」


 古志加の言葉が、オレを泣かせる。


「オレ……、オレ……。

 本当に恋うていたんだ。

 妻問いしたんだ。

 最後は、オレが大国造おおくにのみやつこの息子だって匂わせて……。

 それでも、完全に、振られたんだ。」


 涙があとから、あとから流れでる。


「オレ、辛い……。苦しい。

 心臓しんのぞうが痛くて、どうしようもできないよ。

 こんなに辛いなら、恋なんてするんじゃなかった。

 古志加に会わなければ良かった……!」


 源が気遣わしげな顔で、


「元気だせよ……。」


 と背中をさすってくれる。久自良が唐突に、


「源。おまえ、恋に敗れた事があるか。」


 とたずねた。源は目を丸くした。


「ない。若大根売わかおおねめに、初めて恋したから……。」

「そうか。おまえは幸せだな。

 恋に敗れる苦しみは、恋に敗れた者にしかわからない。

 ……嶋成。古志加は、きっぱり振ってくれたんだろう?」

「ああ。」

「良かったな。」

「……!」


 オレはカッとなった。


「何が良いんだよ!」

「二年だ。」

「は?」

「オレは、郷で、すこぶる良い体つきのおみなのもとに通ってな。

 そのおみなは、オレの事を恋うてるって言ってくれて、オレはそれが本当なのだと信じた。

 心から恋うていた。

 だが、そのおみなは、オレの妻にできないおみなだった。

 郷長の吾妹子あぎもこだったからだ。

 オレはそれでも、その女の、恋うている、という言葉を信じて、彼女が本当に恋うているのはオレなのだと、郷長の目を盗み、通い続けた。

 二年たって、いきなり、もう来ないでくれって言われた。

 緑兒みどりこ(赤ちゃん)ができた、郷長が妻にしてくれる。

 もうあんたは用済みだ、あんたのちっちゃい目が好きじゃない。

 始めから、恋うてはいなかったって……。

 二年、心を偽られた。

 それなら始めから、恋うてないって言ってもらった方が、よっぽどましだ。

 そう思ったよ。」


 久自良は、穏やかに語った。

 だが、語りきれないやるせなさを吐き出すように、深く長い溜め息をついた。


「なあ嶋成、古志加は、誠実な、良い女だったんじゃないか?」

「ああ……、そうだな。」


 古志加は、オレの身分を匂わせても、なびかなかった。

 オレは残念に思いながらも、竹を割ったように清々しい気分になった。

 あれは、古志加が……。




 オレ自身を見てくれたから。



 だからなんだな。





「うっ、うわああああ……。」


(古志加、妻になってほしかった。オレのいもになってほしかった……!)


 オレは大声をあげて泣いた。

 久自良が、


「泣けよ。恋に敗れるってのは、そういうもんだ。

 泣いて泣いて、涙の海におぼれるもんだ。

 失恋は苦い。

 あまりにも苦い。

 だからこそ……。次の恋が甘美だ。」


 源が、


「久自良は、そのあと、どうしたの?」


 と遠慮がちにきく。


「ああ、ずいぶん長く苦しんだがな。次の恋を見つけた。

 オレのいもだ。

 オレが多賀たがの兵舎に、妻を置いてきてるの、知ってるだろう?」

「あ、そうだったね……。」


 と源。


 鎮兵は妻を、兵舎に住まわせて良いのだ。

 桃生柵もむのふのきが戰になった為、多賀にいた鎮兵も動員されてるだけで、普段の暮らしのなかでは、鎮兵は妻と一緒に暮らせる。


 久自良が、うつむいて元気のないみなもとの背中をバンと叩いた。


「なんだ源。そんな顔するな。

 さっき、恋に敗れる苦しみは、恋に敗れた者にしかわからないって言ったの、言い過ぎたかもしれないな。すまん。」


 源は、はっ、と顔をあげた。


「いや、言い過ぎじゃないよ。その通りなんだと思う。

 オレ……。嶋成になんて言葉をかけたら良いか、自分のなかで言葉が見つからないんだ。

 オレ、いつも、どんな時でも、言葉が見つからないなんてこと、ないんだ。

 こんなの初めてだ……。

 久自良が大人のおのこなのが羨ましい。

 オレ、嶋成の役に立てなくて、自分が情けないよ……。」

「バカだな。」



 おいおい泣くのに忙しいオレの横で、久自良がわしわしと源の頭をなでた。


「良いんだよ。おまえはそれで。気持ちは嶋成に伝わってる。なあ?」


 オレは涙と鼻水でグズグズの顔で頷いた。

 すまない。今、上手く言葉が喋れないんだ……。

 黙ってからつきを源に突き出す。源が浄酒を注いでくれる。


「ぐすっ……。ありがど……。」

「うん。」


 源は、弱く笑顔を浮かべた。久自良が、


「嶋成。今は泣け。そして忘れて、次の恋をしろ。」


 とオレに言う。


「……でぎない。もう、恋、なんて、嫌だ。辛い。ぐすっ。」

「そう言うな。ほら、これをやるよ。すごく良いものだ。」


 と久自良が、懐をごそごそあさり、何かを掌にだした。

 茶色い二枚貝の貝殻だ。

 何の変哲へんてつもない、ごくありふれた貝殻だ。


「恋忘れ貝だ。」

「むむっ。」


 源が何か言いたげにし、口を引き結んだ。

 今夜の夕餉の鍋には、貝が入っていた。


「いいか、これは、特別な貝だ。

 持っていたら、恋の苦しさを忘れられるという、ありがたーい恋忘れ貝だ。持っとけ。」


 久自良がオレの手に貝をおしつけた。


(ちがうだろ、絶対、鍋に入ってた貝殻だろ……。)


 そう思いつつ、


「ぐすっ、あり、がとう……。」


 とオレはその貝をぎゅっと握って、


「ううううう……。」


 まだ、泣く。


「久自良、源……。ありがとう。」


 切ない。辛い。苦しい。

 恋とは苦い。

 でも次の恋は、甘美なのだという。

 本当なのだろうか?


 わからない。


 今はわからない。


 でも……。話を聴いてくれる友が。

 恋忘れ貝をくれる友がいてくれて。


 本当に良かったよ……。







 今は泣かせてくれ。






   







    *   *   *





 著者より。


久自良くじらの過去の恋を描いた短編は、こちら。

 かわいいラブストーリーに仕上がっていますので、お時間があればぜひ!

「メユカはクジラに口づけする」

https://kakuyomu.jp/works/16818093079020393315

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