第四十一話  上司が軍議をすっぽかし新妻のところに行くので困ってます。

 ひつじ四つの刻。(午後三時)


五百足いおたり、オレは今日は、もう、佐久良売さくらめさまのところに行く。軍議はオレの代わりに出ておいてくれ。」


 真比登まひとは、さっぱりした笑顔で、五百足いおたりにそう告げた。


 今日の真比登は、返り血を浴びていない。

 平城京の命令で、坂東ばんどう八国から送られた大量の兵糧へいりょう

 それが、桃生柵もむのふのきに運びこまれるまでの警護についたのだ。

 六千人が冬ごもりできる兵糧。

 一日で運びこみは終わらない。

 先日、蝦夷に、その長く伸び切った兵糧を運ぶ船を、水上で急襲されたのだ。

 幸い、七割の兵糧は無事に桃生柵もむのふのきに運びこめたが、三割は水底に沈んだ。

 事態を重く見た真比登が、自ら警護を志願した。

 真比登が目を光らせた今日は、蝦夷に襲われる事なく、桃生柵もむのふのきまで無事に兵糧を運び込めた。

 警護は終わり、これから軍議に出よう、というところで、真比登のこの発言だ。

 

「冗談じゃない! 軍監ぐんげんが軍議をすっぽかすなんて!」


 五百足いおたりは怒って抗議する。


「そう言うなよ〜。こういう時のための擬大毅ぎたいき(副官)じゃないか〜。」

「バカ言わないでください!」

「なんとか、上手く言っておいてくれよ。」

「今日は小競り合いもなかったんです。皆、真比登がピンピンしてるの、知ってますよ!」

「ええと……、腹痛! 急な腹痛! 医務室行かなきゃ。あとは頼んだぞ……。」


 ぴゅーっ。

 真比登は逃げた。


「あっ、コラ───!!」


 五百足いおたりは大きな声を出すが、追うだけ無駄なのも知っている。力尽くで真比登に言う事をきかせるのは不可能だ。

 真比登は、右手に弓を持ったまま、すたこらと逃げ去った。

 五百足いおたりはその場で、


「はあ……。」


 とため息をつき、鼻の付け根を揉んだ。

 近くにいた鎮兵ちんぺいが、


「真比登も新婚だからな。」

五百足いおたり、我慢してやれよ。」

「おっかないけどくわの妻に早く逢いたいんだろ。」

「うべなうべな。」

「怖い郎女いらつめだけど、真比登は愛されてるからな!」

「うべうべな!」


 と無責任な言葉をほがらかに口にする。


(くっそ、人ごとだと思って!)


 と五百足いおたりは思うが、真比登が皆から慕われているのは嬉しい。


「うべなうべなッ!」


 腹立ちまぎれに、五百足いおたりもこう言い、諦めた。

 すぐいつもの穏やかな顔になり、一人、軍議の場に向けて歩きだすのだった。



    *   *   *




 真比登は、医務室に急ぐ。


 昨日、佐久良売さまは元気がなかった。朧月夜や、幻想的な桜を思わせる美貌を曇らせ、憂いの表情でうつむく事が多かった。


 仲の良い同母妹いろも都々自売つつじめさまが、戰場である桃生柵もむのふのきから避難するべく、つまの実家、下野国しもつけのくにに旅立ってしまわれたからだ。

 せりだしたお腹に緑兒みどりこ(赤ちゃん)がいる都々自売つつじめさまは、きっと下野国しもつけのくにでご出産あそばすだろう。

 

 都々自売つつじめさまのつま寺麻呂てらまろさまは、細身で、理知的な顔の男だった。

 正税使しょうぜいし(税の申告に奈良へ行く文官)の仕事が長引いて、奈良でずっと足止めをくらっていたそうだ。

 やっと桃生柵もむのふのきへ帰ってこれたので、妻を実家へ送り届け、自分は桃生柵もむのふのきへ帰ってくるという。


 都々自売つつじめさまは、


「真比登さま。佐久良売お姉さまを、桃生柵もむのふのきを守ってくださいまし。あたくしのつま、寺麻呂さまも、死なせないで……。頼みましたよ。」


 と真比登を、思いのこもった目で見た。


「はい。おまかせください。」


 真比登は都々自売つつじめさまに礼の姿勢をとった。

 寺麻呂さまが力強い笑顔で、


「死なないさ。」


 と都々自売つつじめさまの手を握った。都々自売つつじめさまが潤んだ目でつまを見る。

 佐久良売さまが、


都々自売つつじめ……。元気で。立派な緑兒みどりこを産むのですよ。」


 と声をかけると、都々自売つつじめさまは、佐久良売さまに抱きついた。


「お姉さま……! あたくし、お姉さまを、お父さまを置いていきたくない!」

「バカおっしゃい。あなたはお腹の緑兒みどりこの為にも、下野国しもつけのくにに行かなくてはなりません。あたくし達の心配はしなくて良いのよ。必ず、あたくし達が蝦夷に勝つわ。勝利の日を、下野国で安心して待っていれば良いのよ。」

「お姉さま……。」


 姉妹は抱き合って泣いた。






 一昨日、都々自売つつじめさまは、寺麻呂さまに護衛されて、お世話する女官たちと一緒に、桃生柵もむのふのきを旅立った。





 都々自売つつじめさまが旅立つまでは、気丈に振る舞っていた佐久良売さまだが、寂しいのであろう、都々自売つつじめさまが旅立ったあとは、元気がなくなってしまったのだ……。





    *   *   *





「佐久良売さま!」


 右手に弓を持った真比登は医務室についた。

 医師の手伝いをしていた佐久良売さまが、


「真比登? 早いわね?」


 と驚く。


「はい、今日は、佐久良売さまをお連れしたいところがありまして。一緒に来てください。」

「あら……、まだ医師の手伝いが終わってないから……。」

「駄目です。連れてっちゃいます。」


 真比登は、つかつか、と烏皮舃くりかはのくつ(黒革のくつ)で佐久良売さまのそばに歩み寄って、左手で妻の右手をつかみ、ぐっと引き寄せた。


「あっ! 真比登!」


 佐久良売さまの驚きの声は、女官たちの、


 キャ──────ッ!


 という声にかき消される。

 ひときわ大きい声をだした、お付きの女官、若大根売わかおおねめに、


若大根売わかおおねめ、今日は馬に乗る。馬に乗れるのは二人だけだ。悪いが、若大根売わかおおねめは連れていけない。」


 と真比登が微笑むと、若大根売わかおおねめはにっこり笑って、


「わかりました!」


 と頷く。


「え? 馬? え?」


 と目をまたたかせる佐久良売さまの手をひいて、医務室をあとにすると、若大根売わかおおねめの、


「強引なのも素敵ぃ───!」


 という大きな声が医務室に響いた。




   




 

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