第二十三話 いさよひ、其の一
いさよひに
青い峰にたなびく雲のように、ためらいながら物思いする、今日このごろ。
※いさよひ……ためらい。
万葉集 作者不詳
* * *
「嶋成、
「源、その衣しか持ってないのか。」
「うん……。」
源の衣は、長く着用した事により、
長く使っているのが一目でわかる、へたれた生地の衣。
郷の男としては、普通の質素な装いだが……。
嶋成が、うーん、と
「
オレの衣を貸してやりたいところだが、オレの衣はどれも、落としきれない血の汚れや、小さな刀傷があってな……。」
「それなら、オレの衣を貸そう。」
「良いんですか!」
「もちろん。」
源は、最近、佐久良売さまお付きの女官に、衆目のなかで大胆な告げなむ(愛の告白)をしたばかりだ。
あれには、
「お父上に気に入ってもらえると良いな。」
「はい!」
源は、全開の笑顔で答えた。
「おまえは素直だな。恋心を告げなむに、
(オレは、
源は、きょとん、とした顔をして、こちらをまっすぐ見た。大きな目の、濁りのない眼差しが、
「
十八歳の源に、若いな、と言おうとして、二十一歳の
「
一人の、大事な
「いるさ。」
と一言だけ告げ、
「ほら、もうオレの部屋につくぞ。手早く選べ。あまり時間がないんだろう? 帯も貸してやる。」
と気をそらす。
* * *
酔っ払ってすぐ母親に手をあげる父親を、
酔った父親は、いつも、
「バカにしやがって。バカにしやがって。うお───っ!」
と同じ言葉を口にした。でも、母親は父親をバカになんてしてない。
「
と
「駄目よ
と
「五百足、目をつむって、耳を塞ぎなさい、さあ!」
すぐに母親の言う通りにしても。
顔に母親の腹を押し付けられ、呼吸は苦しく。
母親の腹から、暴力の衝撃が伝わり。
耳をふさいだって、母親のくぐもった悲鳴と、父親の笑い声は聞こえてくる。
嵐のあと、母親は、
「親父に逆らっちゃ駄目よ。目をつむって、耳をふさいで、何も言わず、大人しくしてて。そうすれば、嵐はすぐに去るんだからね……。」
と
(そんなのは嘘だ。)
親父と戦わせてほしかった。
(オレは
あの日までは。
「あなたは連れていけないの。許して。母刀自のことは忘れて。……母刀自と呼ばなくて、良い。あたしも、あなたを忘れる。」
母親は、ずいぶん残酷な言葉を十三歳の息子に残し、家を出ていった。
それには、
思い返せば、母親は少し前から、一人ぼんやり、
そんな時に五百足が声をかけると、母親は無言で振り返り、五百足をおかしな目つきで見た。
冬の朝、水たまりに
それまで母親と目を合わせれば、確かに温かい親子の情を感じていたのに、その温かさは、母親のなかから、どこかに消え去ってしまったのだ───。
母刀自とは、母親を敬って呼ぶ言葉だ。
五百足は、母親に捨てられたあの日から、母親を、母刀自と呼ぶ事をやめた。
五百足は、何をするのも、見るのも、
父親は、すぐに再婚した。
その新しい母刀自は、おどおどした、薄幸が身にしみたような顔をしていた。いなくなった母親と、その点が良く似ていた。
でも、新しい母刀自の娘は、全く違った。まだ八歳の幼さなのに、親父が暴力的になると、いつも激しく、
「あんたなんか親父じゃない!」
と真っ向から食ってかかった。
五百足はそこまで、激しく親父に反抗をできなかったから。
五百足から虚しさが吹き飛び、新しい気力がぐんぐん湧いてきた。
(今度こそ、小鳥売を、新しい母刀自を守ってやりたい。オレが、守るんだ。)
案の定、親父が小鳥売にまで暴力を振るうようになるまで、時間はかからなかった。
新しい母刀自も、小鳥売も、
小鳥売は、あどけない瞳で、
「新しい親父は、あたし、嫌い。でも、
と言って、笑顔を向けてくれた。
明るい笑顔。
(
あったかくて、ちっちゃい。八歳でも、
小鳥売は嬉しそうに、きゃっ、きゃっ、と笑った。
(可愛い……。)
それに突き動かされるように、小鳥売を抱きしめる腕に力がこもり、心のなかで、神様に
(
小鳥売を必ず、守る。守ってみせる!)
親父は、小鳥売が可愛くなかった。
親父は
「
と親父の上司の家に、しょっちゅう働きにいかされるようになったのだ。
実際は、
日暮れまで働かされ、帰宅すると、親父は、
「もうおまえ以外は夕餉を済ませた。」
とせせら笑い、
新しい母刀自も、小鳥売も、どんどんやつれていき、
そして、小鳥売は、売られた。
その日はたまたま、上司の家の手伝いは早めに終わり、明るいうちに
「あんたなんか、あんたなんか親父じゃない! 小鳥売を返せ!」
と叫び、家を飛び出した。
(オレはこの家には帰らない。もう二度と。オレは親父を捨てる。役人の息子という、安泰の生活も捨てる。いらない。小鳥売、オレが助ける。オレは
市をさまよい歩き、
大柄な真比登は、薄目を開けた小鳥売を軽々と抱き上げて、真比登の家まで運んでくれた。
真比登は、
庭には井戸まであった。
炊屋はそこそこ広く、簡素な机と倚子もあり、寝ワラまで敷いてあった。
一人暮らしの為、飯を作る働き
真比登は、
「うーん。」
と困った顔で悩んだ。
「真比登さま。
と訴えると、
「んぐ……。」
と天をあおぎ、
「わかった。オレは、市で売られていた
……でも、もし親父、いや、どこぞの誰かがこの家に侵入してきたら、オレが追っ払ってやるから、安心しな。
それと、真比登さま、はよしてくれ。真比登で良い。」
と真比登は爽やかに笑った。
↓挿絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093076213861856
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