第二十三話  いさよひ、其の一

 青嶺あおねろに  たなびく雲の


 いさよひに


 ものをぞ想ふ  としのこのころ



 安乎祢呂尓あおねろに  多奈婢久君母能たなびくくもの

 伊佐欲比尓いさよひに

 物能乎曽於毛布ものをぞおもふ  等思乃許能己呂としのこのころ





 青い峰にたなびく雲のように、ためらいながら物思いする、今日このごろ。


 ※いさよひ……ためらい。



    万葉集  作者不詳





   *   *   *





 五百足いおたり伯団はくのだん戍所じゅしょを歩いていると、福耳のみなもとが深刻な顔で、鷲鼻わしばな嶋成しまなり相手に話をしていた。


「嶋成、若大根売わかおおねめのお父上に、今晩呼び出されてるんだけど、オレ、どうしよう……。」

「源、その衣しか持ってないのか。」

「うん……。」


 源の衣は、長く着用した事により、つるばみ色(くすんだ黒)が薄くなったものを、藍を使って染めなおした、そんな色合いだ。

 長く使っているのが一目でわかる、へたれた生地の衣。

 郷の男としては、普通の質素な装いだが……。


 嶋成が、うーん、とうなって腕を組んだ。


倉木くらきの若大根売わかおおねめは、しっかりした家の女官だろ。その格好はないな……。

 オレの衣を貸してやりたいところだが、オレの衣はどれも、落としきれない血の汚れや、小さな刀傷があってな……。」

「それなら、オレの衣を貸そう。」


 五百足いおたりは口を挟んだ。源は、ぱっと人懐こい笑顔を浮かべた。


「良いんですか!」

「もちろん。」








 みなもとと二人で、兵舎の部屋にむかって歩く。

 源は、最近、佐久良売さまお付きの女官に、衆目のなかで大胆な告げなむ(愛の告白)をしたばかりだ。

 あれには、五百足いおたりも相当驚いた。


「お父上に気に入ってもらえると良いな。」

「はい!」


 源は、全開の笑顔で答えた。


「おまえは素直だな。恋心を告げなむに、躊躇ためらいはなかったのか?」


(オレは、躊躇ためらってばかりなのに。)


 源は、きょとん、とした顔をして、こちらをまっすぐ見た。大きな目の、濁りのない眼差しが、五百足いおたりに突き刺さる。


躊躇ためらい? オレだっていつ死ぬかわからないし、恋しいおみなを誰かにとられちゃったら、嫌でしょ? 想いを告げなむに、何を躊躇ためらうんです?」


 十八歳の源に、若いな、と言おうとして、二十一歳の五百足いおたりは、己が三歳しか違わない事に思い当たり、口を閉じた。


五百足いおたりは、妻はたしか、いないんですよね? ───恋うてるおみなはいないんですか?」


 五百足いおたりは、生意気な若いおのこの首根っこをつかまえて、頭をグリグリしてやろうか、と一瞬思ったが、やめた。

 一人の、大事なおみなの顔が心に浮かび、ふざける気ががれたからだ。

 五百足いおたりは、目をそらし、


「いるさ。」


 と一言だけ告げ、


「ほら、もうオレの部屋につくぞ。手早く選べ。あまり時間がないんだろう? 帯も貸してやる。」


 と気をそらす。






      *   *   *






 酔っ払ってすぐ母親に手をあげる父親を、五百足いおたりは物心ついた頃から、ずっと好きではなかった。

 酔った父親は、いつも、


「バカにしやがって。バカにしやがって。うお───っ!」


 と同じ言葉を口にした。でも、母親は父親をバカになんてしてない。

 五百足いおたりは小さい身体で、いつも父親に立ち向かおうとしたが、母親が、


五百足いおたり、こっちに来ちゃ駄目! 向こうに行きなさい! 早く!」


 と五百足いおたりを追い払ったり、


「駄目よ五百足いおたり、逆らっちゃ駄目。大人しくしてて。あなた、あなた、お許しください……。」


 と五百足いおたりを抱きしめて自分の身体のかげに隠したりして、父親に反抗するのを許してくれなかった。


「五百足、目をつむって、耳を塞ぎなさい、さあ!」


 すぐに母親の言う通りにしても。

 顔に母親の腹を押し付けられ、呼吸は苦しく。

 母親の腹から、暴力の衝撃が伝わり。

 耳をふさいだって、母親のくぐもった悲鳴と、父親の笑い声は聞こえてくる。

 五百足いおたりは恐ろしくて、悲しくて、憤って、泣いた。


 嵐のあと、母親は、


「親父に逆らっちゃ駄目よ。目をつむって、耳をふさいで、何も言わず、大人しくしてて。そうすれば、嵐はすぐに去るんだからね……。」


 と五百足いおたりに言い聞かせた。


(そんなのは嘘だ。)


 五百足いおたりは心でそう思いつつも、母親の言うとおりにした。


 親父と戦わせてほしかった。


(オレはおのこだから、母刀自ははとじを守るのに! 早く大人になって、もっと母刀自を守れるようになりたい!)


 五百足いおたりはそう思っていた。

 あの日までは。


「あなたは連れていけないの。許して。母刀自のことは忘れて。……母刀自と呼ばなくて、良い。あたしも、あなたを忘れる。」


 母親は、ずいぶん残酷な言葉を十三歳の息子に残し、家を出ていった。

 五百足いおたりの知らないおのこと、郷を抜け、どこか遠くに逃げるのだ、と言う。

 それには、五百足いおたりは邪魔なのだと。


 思い返せば、母親は少し前から、一人ぼんやり、ほうけた笑みで外を眺めている事が多くなった。

 そんな時に五百足が声をかけると、母親は無言で振り返り、五百足をおかしな目つきで見た。

 冬の朝、水たまりに薄氷うすらいが張るような、透明で薄い冷たさで、その目は輝いていた。


 それまで母親と目を合わせれば、確かに温かい親子の情を感じていたのに、その温かさは、母親のなかから、どこかに消え去ってしまったのだ───。




 母刀自とは、母親を敬って呼ぶ言葉だ。

 五百足は、母親に捨てられたあの日から、母親を、母刀自と呼ぶ事をやめた。




 五百足は、何をするのも、見るのも、うつろになった。気力が湧かなかった。








 父親は、すぐに再婚した。








 その新しい母刀自は、おどおどした、薄幸が身にしみたような顔をしていた。いなくなった母親と、その点が良く似ていた。

 でも、新しい母刀自の娘は、全く違った。まだ八歳の幼さなのに、親父が暴力的になると、いつも激しく、


「あんたなんか親父じゃない!」


 と真っ向から食ってかかった。

 五百足いおたりは、感動した。

 五百足はそこまで、激しく親父に反抗をできなかったから。

 五百足から虚しさが吹き飛び、新しい気力がぐんぐん湧いてきた。


(今度こそ、小鳥売を、新しい母刀自を守ってやりたい。オレが、守るんだ。)


 五百足いおたりは決意した。

 案の定、親父が小鳥売にまで暴力を振るうようになるまで、時間はかからなかった。

 五百足いおたりは、かばった。親父に殴られ、蹴られても。

 新しい母刀自も、小鳥売も、五百足いおたりに感謝してくれた。

 小鳥売は、あどけない瞳で、


「新しい親父は、あたし、嫌い。でも、兄人せうと(お兄ちゃん、この場合は、幼児が甘えて言う言い方、ぃに)は好き!」


 と言って、笑顔を向けてくれた。

 明るい笑顔。

 五百足いおたりの守るべき万々妹ままいも(異母妹)。

 五百足いおたりは、小鳥売が可愛かった。


 (兄人せうとなら、良いよね?)


 五百足いおたりは小鳥売の身体を、そっと抱きしめてみた。

 あったかくて、ちっちゃい。八歳でも、女童めのわらはからは、ほんのり甘い匂いがした。

 小鳥売は嬉しそうに、きゃっ、きゃっ、と笑った。


(可愛い……。)


 五百足いおたりの胸に、愛おしさと、幸福な気持ちがあふれた。

 それに突き動かされるように、小鳥売を抱きしめる腕に力がこもり、心のなかで、神様にうけひをした。


天地乎乞禱あまつちにこいのむ丈部はつせべの五百足いおたりうけひをする。

 小鳥売を必ず、守る。守ってみせる!)





 親父は、小鳥売が可愛くなかった。

 小鳥売ことりめの飯の量をどんどん減らしはじめた。

 五百足いおたりは隠れてこっそり、握り飯を与えたが、親父に見つかって殴られた。

 親父は五百足いおたりを家から遠ざけた。


務司まつりごとのつかさの仕事をそろそろ覚えはじめろよ。」


 と親父の上司の家に、しょっちゅう働きにいかされるようになったのだ。

 実際は、務司まつりごとのつかさの仕事を覚えるのではなく、ただの上司のご機嫌とり、下人げにんの真似事をさせられただけだった。

 日暮れまで働かされ、帰宅すると、親父は、


「もうおまえ以外は夕餉を済ませた。」


 とせせら笑い、五百足いおたりは一人で夕餉をとらされた。

 新しい母刀自も、小鳥売も、どんどんやつれていき、五百足いおたりはどうする事もできず、とうとう、前触れなく、新しい母刀自は、いなくなった。

 五百足いおたりには何も告げず……。


 そして、小鳥売は、売られた。


 その日はたまたま、上司の家の手伝いは早めに終わり、明るいうちに五百足いおたりは帰宅した。小鳥売は奴婢として売った、と薄ら笑いを浮かべる父親に、


「あんたなんか、あんたなんか親父じゃない! 小鳥売を返せ!」


 と叫び、家を飛び出した。


(オレはこの家には帰らない。もう二度と。オレは親父を捨てる。役人の息子という、安泰の生活も捨てる。いらない。小鳥売、オレが助ける。オレは兄人せうとなんだ。小鳥売、どこだ、どこにいるんだ?)


 市をさまよい歩き、小鳥売ことりめを見つけられたのは幸運だった。

 真比登まひとに買ってもらえた事は、それ以上の幸運だった。

 大柄な真比登は、薄目を開けた小鳥売を軽々と抱き上げて、真比登の家まで運んでくれた。


 真比登は、母屋おもや炊屋かしきやが別になっている、広い土地に一人で住んでいた。

 五百足いおたりの家より、立派だった。

 庭には井戸まであった。

 炊屋はそこそこ広く、簡素な机と倚子もあり、寝ワラまで敷いてあった。

 一人暮らしの為、飯を作る働きを探していたと言う。


 五百足いおたりは身体の無数のあざを見せ、自分が親父から逃げてきた事、もう家に帰るつもりはない事、良民りょうみん(庶民)ではあるが、これからは下人になったつもりで精一杯働くから、ここに置いて欲しい、と頼み込んだ。

 真比登は、


「うーん。」


 と困った顔で悩んだ。


「真比登さま。万々妹ままいもを守りたいんです。オレがついててやらなければ、死んでしまう!」


 と訴えると、


「んぐ……。」


 と天をあおぎ、


「わかった。オレは、市で売られていた奴婢ぬひを一人、買ってきただけだ。おまえは、勝手にオレの家についてきただけだぞぅ。オレは知らないんだぞぅ。

 ……でも、もし親父、いや、どこぞの誰かがこの家に侵入してきたら、オレが追っ払ってやるから、安心しな。

 それと、真比登さま、はよしてくれ。真比登で良い。」


 と真比登は爽やかに笑った。













 ↓挿絵です。

 https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093076213861856

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