第二十話  若大根売は見てむ、其の一

 泊瀬はつせの  斎槻ゆつきした


 かくせるつま 


 あかねさし  照れる月夜つくよ


 人見ひとみてむかも





 長谷はつせの  弓槻下ゆつきがしたに

 吾隠在妻あがかくせるつま

 赤根刺あかねさし  所光月夜邇てれるつくよに

 人見點鴨ひとみてむかも





 泊瀬はつせの神々しいケヤキの下にオレが隠している妻、隠妻こもりづまよ。あかあかと月が照る夜に、人に見られてしまうのだろうか。






 ※泊瀬はつせ斎槻ゆつき……奈良県桜井市の巻向山の山頂のひとつ、弓月ゆつきが岳と、神聖なけやき、両方にかかる。


 ※当時は通い婚だったので、人におおっぴらに出来ず、秘密で通っている妻のことを、隠妻こもりづまと言った。





    万葉集  柿本人麻呂歌集より。






     *   *   *




 夕刻。


佐久良売さくらめさまあ───!」


 厨屋くりやへ湯を取りにいかせた来た若大根売わかおおねめが、血相けっそうを変えて、ばたばたと佐久良売の部屋に駆け込んできた。

 

 佐久良売は、猫の里夜りやを膝にのせ、その柔らかい毛並みを撫で、ごろごろ……、と喉を鳴らす音を楽しんでいたのだが、里夜りや若大根売わかおおねめの騒々しさに驚き、


「にゃぁっ。」


 と慌てて膝から逃げ出した。佐久良売は、


「走るでないっ!」


 と叱った。若大根売わかおおねめは、はぁはぁ息を切らしながら、すぐに盆を机に置いて、礼の姿勢をとり、


「お許しください。取り急ぎ、真比登さまの事で、お耳にいれなくてはならない事がございます!」


 と一息に言った。佐久良売の顔色も、一瞬で変わる。自分のつま、心から愛しぬいている愛子夫いとこせの名前を出されては、平静ではいられない。


「お話し。」









 要約するとこうだ。


 厨屋くりやからの帰り道、つい先程さきほど

 若大根売わかおおねめは、人影のない庭のはじ、木に阻まれ、人目が届かない所で、真比登と小鳥売ことりめが二人きりで会っているのを見た。


 二人は、男女の礼節を保った距離、不用意に手が触れない距離をあけて立っていたが、流れる雰囲気が、尋常ではなかった。

 小鳥売は思案顔でうつむき、真比登は、真剣な顔でおみなをじっと見つめ、二人は長らく無言だったと言う。やがて真比登から口を開いた。


「悪いようにはしない。決断してほしい。」

「でも、あたし……。」

「小鳥売。」

「あたし、佐久良売さまに、悪いです……。」

「大丈夫だ。佐久良売さまはわかってくださる。」


 そして二人は一緒の方向に去っていった。











「はあああああ〜〜〜?!」


 その話を聴き終わって、佐久良売は腹の底からおどろおどろしい声を出した。


 小鳥売ことりめはふっくらした身体つきの、十六歳のおみなだ。

 女官ではない。郷からの避難民なのであろう、質素な衣で、厨屋くりやで働く、明るい働き者だ。

 つい昨日も、佐久良売は真比登の為の握り飯を作りに厨屋くりやを訪れ、


「はいはい、今日もですね、佐久良売さま! 米はこちらを。はい、塩。さて、良い昆布の甘煮がありますよ。ちょっともらってきましょう……。」


 と、下ごしらえを手伝ってもらったばかりだ。

 厨屋くりや本来の、夕餉を作る仕事からはずれる佐久良売の頼み事は、忙しそうにしてる女官より、どことは決めず、手が足りないところを渡り歩く小鳥売に頼みやすい。

 小鳥売はおしゃべりがうまく、手も早い。効率良く食材を揃えてくれる。


 でも、ただの郷の女だ。

 顔立ちは平凡……。


(まさか、吾妹子あぎもこなのっ?)


 今さらながら、吾妹子あぎもこ(愛人)はいないでしょうね? としっかり真比登に念押しをしていなかった事に思い当たり、佐久良売は愕然がくぜんとした。


 財力のあるおのこ吾妹子あぎもこを何人も持つのは、世の中の常だ。

 でも、佐久良売は、嫌だ。

 真比登には、自分だけを愛してほしい。


(他のおみながいるなんて気配はちっとも……。真比登は、あたくしだけだって言ってたじゃない!!)


 真比登は、あの年齢まで、おみなに関しては清かった。間違いない。あたくしはその清さを愛しんだ。

 そのはず。いつの間に?!

 だいたい、おみなを何人も抱くおのこの腕は、嫌だ。

 そう思う佐久良売は、世間の常識とずれている。

 わかっている。

 でも、嫌なものは嫌なのだ。

 だから、縁談の時に、他の妻も吾妹子あぎもこもいない男、と条件をだした。

 あれは、婚姻なんかしたくない、という気持ちと、佐久良売の本心からの条件だった。

 その条件で縁談したのだから……。


(ああ! 違う! 真比登はあの縁談は、偽りだったのだわ。

 だから、吾妹子あぎもこも……?

 いいえ、真比登には、もう、変なこと、疑っちゃ駄目ですよって言われたわ。真比登を信じるべきよ……。でもあまりにも怪しい女が現れたなら、あたくしはどうすれば……。)


「佐久良売さま。」


 妻戸つまと(出入り口)の外から真比登の声がした。

 佐久良売は緊張した顔で、若大根売わかおおねめに頷く。

 若大根売わかおおねめも緊張した顔で頷き、妻戸を開く。


 そこには、真比登と、ふっくらした身体つきのおみな、小鳥売が立っていた。


あなやギャー───! 来たぁー!)


 佐久良売は目を剥いた。










↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093076138941689


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