第四十六話  海底撈月  〜かいていろうげつ〜

 ※海底撈月かいていろうげつ……海面に映った月を、海の底からすくい上げようとすること。実現できない事に労力をついやすこと。「撈」は、すくい取る。




    *   *   *




 佐久良売さくらめは、後ろ手に縛られ、足も縛られ、動けない状態のなか、きっ、とおのこを睨んだ。


下郎げろう! さっさとこの縄をほどきなさい! ここはどこなの?」

「今は暴れるでしょう? 縄はいてあげられない。我慢してね。

 ここは、桃生柵もむのふのきの外、日高見山中の郷さ。

 もともと、場所が悪いところに、陸奥国みちのくのくにの外、いろんなところから連れてきた浮浪ふろう者(重税を苦に郷を逃げ出した者)や、不孝、不恭、不友、不順なる者(犯罪者)を住まわせてた場所さ。戰がはじまってすぐ、蝦夷に焼かれ、放棄された。ここは立派な築地塀に守られてなかったからね……。」

「くっ……。」


 望みは薄い。そう思いつつも、叫ばずにはいられない。


「誰か───ッ! 誰か来やれ───ッ!」


 おのこはくすくすと笑った。


「誰も来ないってば。ここはてられた郷。誰も住んでない。ここのまわりは森。

 オレはここの事を、誰にも言ってない。誰もここの事は知らない。

 疲れたでしょう? 蜂蜜食べる? 好きなんでしょう?」


(?!)


 たしかに蜂蜜は好きだが、なぜ、会ったこともないこのおのこは、まるで知っているように言うのか。言いしれぬ不快に、ぞっとした。


 おのこは壺をとりだし、木の皮のふたをとった。木のさじで、とろりと黄色い蜜をすくい、動けない佐久良売の口元に運ぼうとした。


(誰がこのおのこほどこしを受けるものか!)


「嫌っ! 早くあたくしを解放なさい。あたくしが誰だがわかっているの?! 豪族の娘をかどわかすなんて、死罪よ!」

「もちろん誰だかわかっていますよ、長尾ながおのむらじの佐久良売さくらめさま。」


 おのこは壺を床に置き、蜂蜜を食べさせるのを諦めたようだ。


「佐久良売さまこそ。オレの名前を。」

「知らぬ!」


 男はため息をついた。緑兒みどりこ(赤ちゃん)をあやすような顔をする。


虫麻呂むしまろですよ。迎えに来るのが遅れたから、怒っているの? ごめんね。」

「何を言っているの……?」

「あの犬達を手懐てなずけるのに時間がかかったんだよ。宝物殿の敷地には、宝を守る為、野犬が放たれている。本来は人に懐かないものだが、知ってます? 餌を与えることで、ゆっくり、馴らす事ができるんですよ。おかげで、ほら……。」


 虫麻呂は床に置いてあった包みを開いた。そこには、立派な金細工や銀細工など、さまざまな宝があった。


「二人で遠い北の果てへ逃げて、ずっと一緒に暮らす為に、宝は必要だからね。」


 兵舎の離れに宝物殿がある。日本国の富として、財宝が蓄えられている。それを盗んだのだ、この男は!


「この盗人ぬすっと!!」

「二人の為に使うとうけひするよ。けして自分一人の為には使わない。オレはあなたを妻にするんだから、正当な財産だ。」

たまよ絶えね!(死ねこのクソ野郎)」

「オレ達は愛し合っている。何度もたまいしたじゃないか。覚えてるでしょ?」


 魂逢たまあいとは、夢のなか、愛し合う男女が逢うこと。

 起きてからも、二人は同じ夢を覚えている。

 魂をとばして、相手の夢に現れるものだからだ。

 そして、魂逢たまあいをした男女は、夢のなかだけでなく、うつつでも結ばれるという。


「してないわ。」


 うけひできる。このおのこの夢なんて、ただの一度も見たことはない。


「くくく……。魂逢たまあいは幾度いくたびも……。」


 男はうっとりと、熱に浮かされたようにそう言い、懐から首飾りをだした。


 緑瑠璃みどりるり(色ガラス)の首飾り。


 若大根売わかおおねめが失くした、と思っていた佐久良売の大事な首飾りだ。


(あ……!)


「おまえが盗んだのね……!」


(どうやってかはわからないが、この男の罪だ。

 そうとは知らず、罪のない若大根売わかおおねめを罰してしまった! あたくしの可愛い女官を。)


 怒りのあまり、目にうっすらと涙が浮かび、顔が紅潮した。


「おまえのせいで、あたくしは……!! この下衆げす!」


 おのこ──虫麻呂むしまろは、佐久良売の顔を嬉しそうに見ながら、首飾りを、べろり、と舐めた。小さい瑠璃の玉の連なりを、下から上に長く舐めあげ、ついで、瑠璃一粒ずつを、舌先でちりちりと丁寧にねぶった。


「嫌……っ。」


 ぞっとした。

 いつも身につけていた首飾り。我が身を卑しい舌がったような錯覚を覚えた。


(嫌、嫌……。真比登……!)


 この首飾りを通じて、このおのこは今まで、佐久良売にどんな邪念を送りつけていたのか。想像もしたくない。


「オレと佐久良売さまは、強く結びついているんだよ。」

「違う!」

「これだけじゃない。佐久良売さまは、これを目印に、今まで魂を飛ばしてきていたんだよ。」


 虫麻呂は首飾りを床に起き、懐から今度は白い錦の小袋をだした。

 櫻刺繍。

 紛れもない、佐久良売が愛用する柄だ。櫻の花びらのまわりに銀糸の縫い取りを施してある、佐久良売が考案した柄だ。この錦は、佐久良売が使うか、佐久良売が気を許した少数の女官にしか持たせていない錦だ。

 佐久良売は驚愕で目を見開いた。


「どうしてそれを……!!」


 虫麻呂は小袋に頬ずりをした。


「覚えてない、か。丙午ひのえうまの年(766年、天平神護2年、8年前)、オレが十三歳のとき、ここ、桃生柵もむのふのきの薬草園で、オレと佐久良売さまは一回、会っているんだよ。」

「え……?」


 そんな記憶はない。


「オレは薬草園に忍び込んだ。オレを見つけた佐久良売さまは、オレが、病気の家族の為なんです、と泣いてはいつくばったら、罰するどころか、この小袋ごと、乾燥した高級な薬草をくれたんだ。」

「……!」


 思い出した。あれは、奈良に采女になる為に旅立つ直前。丙午ひのえうまの年(766年)、あたくしが

 十五歳。

 たしかに、薬草園に忍び込んだ男童おのわらはに同情して、一生手にすることがないだろう高価な薬草を与えた事があった。男童おのわらはの顔も覚えていない遠い出来事だ。


 このおのこ妄執もうしゅうが怖い。


 八年も前から……。


(助けて……。真比登……。)


 思わず、泣きそうになる。


(泣くものか。このような下衆に、豪族の娘の泣き顔を見せてなるものか!)


 佐久良売は唇を噛んでうつむいた。



   *   *   *




 目の前の佐久良売さまは、ようやく分かってくれたようで、うつむき、しおらしくなった。


 その顔は、美しい。


 夢のなかでは、何度も何度もさ寝してあえがせてやったが、やはり、うつつの佐久良売さまは、夢で見るより美しい。顔立ちの完璧さは言わずもがな、薄暗い粗末な家のなかでも、白いきめ細やかな肌が光を放つよう……。


「あの薬草は高く売れた。本当に高く。感謝しています。」


 病気の家族は嘘だ。うちは貧乏だった。薬草を盗み、売り払う目的で、豪族の薬草園に忍びこんだ。そしたら、その生えてる草より、もっと高級な薬草を手に入れる事ができた。


「とても助かりました。この錦の袋も、良い値がつくだろうけど、売らなかった。オレと佐久良売さまの、大事な思い出、魂をつなぐだから。

 美しく優しい佐久良売さま。一目見たときから、お慕いしていました。ずっと、ずっと。

 あなたほど美しいおみなは見たことがない。」


 本当に不思議だ。

 豪族の娘と、虫麻呂は、本来、顔をあわせるはずもなかった。

 豪族の娘とは、滅多に戯奴わけ(身分が下の男)に顔を見せない。

 だがどうだ。

 虫麻呂と佐久良売さまは出会った。

 そして佐久良売さまは、優しさと、この出会いの証しをくれた。

 

(オレと佐久良売さまは、縁がつながっている。運命の恋人だからだ。)


 虫麻呂はうっとりと微笑みながら言う。

 

「奈良に行かれてしまって、もう駄目かと思ったけど、あなたはこうやって帰ってきてくれた。

 すぐ縁談となり、やっぱり他のおのこのものになってしまうのか、と絶望しかけましたが、火事がおこり、縁談は中止となった。

 それで、オレは分かりました。どうすれば良いのかと。

 きっと神様が、オレの努力を試してるんだ。

 だから、縁談のたび、付け火をしました。

 七日前の縁談のときも、ちゃんと火をつけたんですよ?

 思いがけず賊の襲撃があり、紛れてしまいましたけど……。

 さあ、オレの努力がわかりましたね?

 オレとのつながりも。

 オレのいも。恋しています。愛子夫いとこせと呼んでください。」


 いも愛子夫いとこせは、運命の恋人。身分も越える、何よりも強い男女のつながり。

 おのこいもと呼んではじめて、おみなおのこ愛子夫いとこせと呼ぶ資格を得る。

 しかし、女が返事として、男を愛子夫いとこせと呼ばなければ、その関係は成立しない。


 うつむいていた佐久良売さまが顔をあげて、虫麻呂を睨んだ。


「呼ぶものか! このれ者! 真比登ぉ───っ! 助けて───!」

「あのおのこの名を口にするな!」


 つい、かっとなり、虫麻呂は佐久良売さまの右頬をばしっ、と平手で打ち据えた。


「きゃあっ!」


 ぞくぞくする悲鳴をあげて、たっぷりのわらの上に佐久良売さまは横倒しとなった。カサカサと藁が音を立てた。


「ああ、ごめん、ごめんよ。殴るつもりじゃなかったんだ。美しい顔に傷がついてしまう。ごめんよ。」


 虫麻呂は佐久良売さまに嫌われたくない。優しく謝った。


「佐久良売さまが、あのけがれた疱瘡もがさ持ちの名を呼んだりするからだよ。今後一切、口にしてはいけないからね。口が穢れてしまう。この口は、いったん塞いでおこうね。」


 虫麻呂は優しい手つきで、自分の粗末なたえ手布てぬのを佐久良売さまの口にぐいと押し込んだ。


「ぐっ……。むぐっ!」


 佐久良売さまは虫麻呂を睨んだ。


(そんな顔をするのも今だけだ。すぐに素直な良い子になるよ。魂逢たまあいでは、いつも、愛子夫いとこせ、虫麻呂さま、と口にして、とっても素直だもの。)


 虫麻呂は笑顔で上衣を脱ぎ、


「ふふ……、遠くに逃げる前に、たくさん……、たくさん、してあげるよ。快楽くわいらくが極まったら、口の布はとってあげる。何度も、愛子夫いとこせって叫ばせてあげるよ。」


 尻を出し、佐久良売さまに覆いかぶさった。


(ああ、いよいよ。待ちに待ったこの時が来た。)


 佐久良売さまは首をふり、布で塞がれた口で、


「んん──────っ!」


 と声をあげた。次の瞬間。ばがん、という木を叩き割ったような音が聞こえた。



   



 

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