第四十四話  喚犬、と書いて、ま、と読む。

 虫麻呂むしまろは二十一歳。

 玉造団たまつくりのだんの兵士である。

 今、上機嫌で、桃生柵もむのふのき領主の屋敷へ、足取り軽く歩いている。


 やっと、準備ができた。

 やっと、佐久良売さくらめさまを迎えに行ける。


 正直、七日前、佐久良売さまが五回目の縁談にのぞんで、蝦夷えみしさらわれた夜。

 助けだし、屋敷に帰る時に、あの疱瘡もがさ持ちからその身を預かり、馬で連れ去ってしまおうかと、よっぽど思った。

 でも、駄目だね。まだ七日前は準備ができてなかった。


 その後、あの憎らしい疱瘡もがさ持ちが、佐久良売さまの領巾ひれに口づけをした時には、はらわたが煮えくり返るかと思った。

 あんな事をした疱瘡もがさ持ちを、オレは当然、許さない。

 だから、隙を見て、死んだ蝦夷から奪った毒矢を吹いてやった。

 あのまま黄泉に行けば良かったのに。邪魔くさい奴め。汚らわしい疱瘡もがさ持ちめ。


 まあ良いさ。

 オレは見てたよ。あの疱瘡もがさ持ちは、馬に乗って遠乗りに出ている。佐久良売さまは自室で寝ている。

 ふふふ、天はオレに味方し、佐久良売さまはオレが迎えに行くのを待ってくれてるんだね。

 準備が整った日に、オレが事を起こしやすくしてくれてるんだから。

 うん。分かってるよ。オレたちは愛しあっている。




    *   *   *



「あれっ、いないなぁ?」


 嶋成しまなりは非番の日、医務室を押し出し間戸まどからこっそり覗くのが、日課であった。


 もう、佐久良売さまに抱いていた、形容できない気持ち、このオレの深淵なる悩みは、充実した話し合いによって氷解している。

 だから、もう覗く必要はないのだが、なんとなく習慣で、また覗きにきていた。


 でも、いない。


(残念だな。)


 早々に気持ちを切り替え、嶋成は木立をぷらぷら歩きはじめた。

 と、一人のおのこが歩くのが見えた。

 綿襖甲めんおうのよろいはつけていない。非番であろう。


(…………。)


 あのおのこ、見覚えがある。顔が、左右対称でない、左顔が大きく下にずれた、生まれつき、特徴的な顔立ちである。

 実は、医務室をこそこそ窺う日々のなかで、何度か、あのおのこも、医務室の押出し間戸から中を覗ける位置で、うろうろしていたのを見かけた事がある。


 その男が、今、楽しそうに口元をにやけさせながら、長尾ながおのむらじの屋敷に向かって歩いている。


 何かが、嶋成の心に警鐘けいしょうを鳴らした。

 そのおのこのあとをついていくと、何か門番と話をして、すんなり屋敷内へ入っていった。


(どうしよう……。)


 嶋成は迷ったが、門番へ、


「おい、今のおのこ、なんだって屋敷内へ入っていったんだ?」


 と声をかけた。


「お? 佐久良売さまに呼ばれてるんだとよ。証拠に、上等の錦の袋持ってた。佐久良売さまが好んで使う櫻刺繍だ。」


(怪しい。……袋を持ってれば、なかに入れるのか?)


 嶋成は、佐久良売さまの父、佐土麻呂さとまろさまから頂戴した、青い波模様の錦の小袋を持っていた。

 小物入れとして今は使っているものだが、もともとは、縁談の申し込みのさいに届けた財貨の返礼として、この錦の小袋には、水精玉すいせいのたま(水晶)が入っていた。


 ばれた時の言い訳を考えつつ、ためしに、


「オレは……、佐土麻呂さとまろさまに呼ばれている。これが証拠だ。」


 と、青い波模様の錦の小袋を懐から出し、門番に見せた。


「うん……? そうか。たしかに、佐土麻呂さまの錦だ。」


 あっさり中に入れた。


(いいのかよ!)


 嶋成は屋敷のなかを進む。

 佐久良売さまの部屋は……、部屋は……、実は場所を知っている。檜垣ひがき(木の板のへい)の外から、ちらちら、ちょっとだけ窺ったことがある。

 ちょっとだけだ!

 屋敷のなかに侵入したことはない。

 この小袋が使えるともっと早く知っていたら……。

 いやいやいや、もう、佐久良売さまのことは、吹っ切ったのである。


 迷うことなく佐久良売さまの部屋へ進むと、あのおのこが、佐久良売さまの部屋の前にいた。ちょうど、妻戸つまと(出入り口)が半ば開き、お付きの女官の顔が見えていた。


「おまえ、怪しい奴! 妻戸つまとを開けるな!」


 嶋成は大声を出して簀子すのこ(廊下)を駆けた。女官は、はっ、として妻戸を閉めようとするが、男が左手で細い肩をつかんで、右の手刀を女官の首に打ち込んだ。

 声も出せず女官は倒れた。


「てめええええ!」


 嶋成は怒り、おのこに殴りかかるが、右拳がおおぶりすぎた。

 おのこは身体を沈めかわす。そこを脇腹を締めた鋭い左拳で狙う。おのこは、はっ、と嶋成の左拳を目でとらえるが、嶋成の方が早い。


「うらぁ!」


 左拳がおのこの右頬にめりこんだ。


「ぐぅ!」


 おのこはうめいて、二歩、後ろにたたらを踏んだあと、先程より深く身を沈め、嶋成をにらみ、どっと雪崩が向かってくるような勢いで嶋成に突進してきた。嶋成は右にかわす。


(!)


 すれ違いざま、ズバ、と腹に衝撃を感じた。

 斬られた。

 嶋成がおのこに向き直ると、いつの間に抜いたか、おのこ小刀しょうとうを持って薄笑いを浮かべている。

 焼ける痛みが左脇腹から走る。じわ、と血が衣を濡らすのを感じる。


(痛ぇ! 畜生! だけど、これでひるむと思うなよ。おまえ、佐久良売さまのところへは行かせない!)


 佐久良売さまの姿は見てないが、お付きの女官がいたのだ。佐久良売さまはこの部屋にいる。


「うぉぉぉ!」


 嶋成はおのこにつかみかかった。殴り、殴られ、もみ合うなかでおのこの衣のあわせのなかに、偶然手が入った。

 ───何かを掴んだ。


「しつこいんだよ。」


 おのこが小刀の柄を嶋成の頭頂部に打ち下ろした。強烈な火花が視界に散り、ついで視界が暗くなる。


(あ、やべ、気を失ってる場合じゃ……。)


 嶋成は気絶した。




    *   *   *




「門を開けてくれ、これから、人にうつる病になった者を、遠くへ捨てにいくんだ。」


 馬にのった一人のおのこが、大きなむしろにくるまれた荷物───おそらく、大きさから、おみな───を前に乗せて、北門の門番に言った。なぜか、よろい姿ではないのに、弓を手に持ち、やなぐい(矢入れ)を左肩に背負っている。

 門番は、下に二人。門の左右、やぐらに二人ずつ。計、六人。

 門番の一人が、


「おおい、門を開けてやれ。」


 と指示する。二人がかりでかんぬきをはずし、門を開けはじめる。

 一人が、


「なんで弓持ってる? なんだか怪しいな。」


 と薄ら笑いを浮かべている馬上のおのこに言う。

 おのこは質問に答えず、指笛をピュウイ! と吹いた。


 喚犬喚犬喚犬喚犬


 と犬の喚き声が聞こえ、ヤブから六匹の猛犬が飛び出し、地上に立つ門番二人へあっという間に襲いかかった。


「わああ!」

「ぎゃっ! 誰か!」


 悲鳴は地上からだけではない。


「うっ!」

「ぐわっ!」

「ぎゃあ!」


 やぐらの上からもあがる。

 薄ら笑いのおのこが恐るべき早業で、櫓の門番三人を次々と射抜いたからだ。

 残された一人が、櫓の上から弓矢を放った。


 ビュウ!


 薄ら笑いのおのこは、足で馬をあやつり、矢はそれ、馬の足元の地面にザク、と刺さった。

 その時には、櫓の上の門番の胸に深々と一本の矢が刺さっている。


「こうやって使うからだよ。」


 門番六人は全員、倒れ、ここに立っているおのこは、馬上のおのこのみとなった。

 薄ら笑いを浮かべたおのこは、左右非対称の、左顔が下にひっぱられたような顔をしている。

 懐から猪肉ゐのししの干し肉を取り出し、馬上から地面に放った。

 猛犬たちは尻尾をふってクンクン鳴きながら、干し肉を喰らう。

 男がもう一度、ピュウイ! と口笛を吹くと、猛犬たちはほうぼう、好きなところに散った。


「ふふ……、今までありがとうな。」


 おのこは用のなくなった犬たちに小さくお礼を言うと、ぽん、と人がくるまれたむしろを軽く叩いた。反応はない。

 おのこは悠々と桃生柵もむのふのきの北門を馬でくぐった。


「ふふ……、うふふ……、ははははは!」


 おかしくて堪らない、というような笑い声とともに、午後の日差しを遮る山の森のなかへ、おのこは姿を消した。





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