第二十七話  姉妹の語らい、其の二。

 くれなゐの  深染こそめのころも


 色深いろふか


 みにしかばか  忘れかねつる




 紅之くれなゐの  深染衣こそめのころも

 色深いろふかく  染西鹿齒蚊しみにしかばか

 遺不得鶴わすれかねつる



 くれなゐで色濃く染めた衣のように、心に色濃く染みたのか。

 あなたの事が忘れられない……。




     万葉集  作者不詳




    *   *   *



 

「まあ、佐久良売さくらめ姉さま。何を困ることがあるのです? このまま話を進めて、婚姻なさればよろしいじゃありませんか。」


 さらりと人妻である都々自売つつじめは言ってのける。


「い、嫌よ……。婚姻なんて、あたくしはしないのよ。おのこに恋したりしないんだから。」

「お姉さまのそのお言葉は、前にも聞きましたわ。」


 そう、縁談を断るたび、佐久良売さくらめは都々自売の部屋にやってきては、


───婚姻なんてイヤ。おのこに恋したりしないわ。


 と、一方的な愚痴ぐちを聞いてもらい、毎度、同じ言葉を口にしている。

 姉として同母妹いろもに甘えている自覚はある……。


「あたくしは、お姉さまの考えを尊重いたしますわ。

 でも、考えてみてほしいの。

 あの殿は、お姉さまの出した厳しい条件を全て満たしてます。

 性格も良さそうだと……。」


 都々自売つつじめ若大根売わかおおねめを見た。

 にかっ、と若大根売わかおおねめは笑い、こくこく、と大きく頷いた。

 情報の出元はここか。


「この先、このような条件のおのこは出てこないと思いますわ。」

「ええ、そうよね……。」


 佐久良売さくらめは目をふせ、領巾ひれをもてあそび、考えた。

 にゃあん、と里夜りやが近づいてきて、気ままに領巾ひれを追いかけはじめる。



 わかってる。

 自分が婚姻するとしたら、これが最後の機会かもしれない。

 それを父上から切望されている事も……。


 佐久良売さくらめ里夜りやをつかまえ、抱っこし、ふんわり柔らかい毛並みを撫ではじめた。

 ごろごろごろ……。

 白と土器かわらけ色と黄色の猫は、喉から不思議な、落ち着く声を発する。


 さま。

 福耳。明るい笑顔。純粋な瞳。博識で、二十八歳だというけれど、まるで男童おのわらはみたいな若さのおのこ

 軍監なのだから、豪族の娘である自分の嫁ぎ先として、何の問題もない。

 良い人だと思う。

 きっと、佐久良売さくらめが妻となったら、悪くは扱われないはずだ……。


 ただ。


 あの無邪気であけっぴろげな人の隣に、自分が立っている姿を、想像ができない。


「お姉さま。じゃあ、ちょっと質問を変えて、たとえば、どんなおのこが好みですの?」

「そんなのない……。」

「例え話でけっこうですわ。」

「…………。」


 そう、例えるなら……。


 さまのような、純粋で若者みたいな目より、佐久良売さくらめは、もっと、人生の山も谷も知り、深い色合いになった眼差しに惹かれる。


 静かにそこに立っているだけで、頼りがいのある強さを醸し出し、落ち着きを感じさせるおのこが良い。


 時々、驚くほど悲しそうな目をするのに、佐久良売さくらめを見る表情は、とても優しい。


 ただの上っ面の優しさじゃなくて、深く、広く、こちらを包みこんでくれるような、大きな優しさを持った、大人のおのこが良い。


「例えば……。馬上でいだかれたら、腕の力強さを感じたりとか……。」


 おみなを守ってくれる強さのおのこが良い。


「怖くない、と言ってくれたり……。」


 その人にとってだけは、佐久良売さくらめは怖い存在ではないのだ。


「花束をくれたり……。」


 佐久良売を喜ばせようとしてくれて。


領巾ひれに口づけを……。」


(あれ?)


 いきなり佐久良売さくらめは恥ずかしくなった。

 心臓しんのぞうが早鐘を打つ。


(これではまるで、の事を言ってるみたいじゃない!

 あ、あり得ない。ただの一兵士を、豪族の娘であるあたくしが気にしてるとでもいうの?

 いえ、そもそも、戯奴わけ(目下の男)かどうか、という前に、あたくしは恋をしたりしない。恋をしない。)

 

 佐久良売さくらめは、口元を両手でおおった。

 頬が熱い。


(なんで……。)


 なんで、こんなに、あの疱瘡もがさ持ちの顔が浮かぶのだろう。


 そう。


 昨日、殿から木簡を届けられた時も。

 今朝も。

 今も。

 あの、悲しげで、優しい顔が、面影おもかげとして、ふっ、と目に浮かぶのだ。


(こ、困った……! あり得ない。)


「あたくし、帰る。たたらき日をや。(さようなら)」


 佐久良売さくらめは、若大根売わかおおねめともない、さっさと部屋を出た。


「まあ!」


 残された都々自売つつじめは、いつにない佐久良売の慌てぶりに、塩売と顔を見合わせ、くすっ、と笑った。


「これはもしかすると、もしかするのかしら……?」







 佐久良売は、逃げるように医務室へ行き、仕事に没頭し、いつもよりきつく負傷兵の傷口を洗い、


「い、痛いです!」

「あら、そう、ごめんなさい。」


 とぼんやり答え、いつもよりきつく、傷口に清潔な麻布を巻き、


「き、きついですっ!」

「あら、そう、ごめんなさい。」


 とぼんやり答え、昼餉もぼんやりとすぎ、陽が傾きはじめる頃、ようやく、落ち着いた。


(やはり、あたくしは、殿と婚姻はできない。これが、最後の機会で、どんなに好条件だったとしても……。


 可頭乃木能かづのきの 和乎可豆佐祢母わをかづさねも 可豆佐可受等母かづさかずとも……。)


 と心で唱える。


 佐久良売さくらめ殿と婚姻しない。


 誰とも婚姻しない。


 佐久良売さくらめは恋をしない。


 自分はそういうおみななのだと、昔、思い知ったのだから。


 一人のおのこの面影がちらつくのは、きっと、気のせいだ。


 






 

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