第二十六話  姉妹の語らい、其の一。

 蜂の巣を手に入れた日の夜。


 夜佐久良売さくらめは、下人げにんから木簡もっかんを渡された。

 さまからのふみだ。


(婚姻したい、と、かき口説くどかれたら困るわ。)


 そう、少々緊張しながら木簡を広げると、綺麗な文字で、当たり障りのない事が書いてあった。

 佐久良売さくらめはホッとした。


(返事をしなければならないわね。どうしよう……。)


 翌朝。

 佐久良売さくらめは朝の薬草摘みで摘んだ紫蘇しそを、土師器はじきにたっぷり揉み入れ、井戸水をそそいた。

 これは赤紫蘇水あかしそすいの仕込みである。


 

 その後、佐久良売さくらめは医務室に向かったが、医療の手伝いをしてるうち、都々自売つつじめに話を聞いてもらいたくなった。

 医務室の手伝いに区切りをつけ、午前中に同母妹いろもの部屋に行くことにした。


佐久良売さくらめ姉さま。」


 都々自売つつじめは笑顔で迎えてくれた。


「にゃあん。」


 白い毛に、土器かわらけ色と黄色の斑斑むらむら(この場合、ぶち)の猫も、朱色の座布団から立ち上がり、こちらに歩いてきて、歓迎してくれる。


里夜りや。」


 佐久良売さくらめは倚子に座り、にょーん、と柔らかい身体を両手で持ち上げ、すとん、と膝の上に座らせた。


「んふふふー。なんて可愛いの。」


 そう、にこにこ笑いながら、里夜りやの前脚を、上下にぽんぽんと振って、可愛い猫とたわむれる。

 里夜りやは、もう随分年をとっている猫だ。


「にゃあん……。」


 と細く鳴きながら、大人しく佐久良売さくらめの好きにさせてくれる。

 佐久良売さくらめは前脚をもてあそぶのをやめ、里夜りやの背中を撫ではじめた。

 猫は膝で丸くなる。

 倚子に座っていた都々自売つつじめは、手に持っていた木簡を、ことり、と机の上に置いた。


「塩売。片付けて。」

「はい。」

都々自売つつじめ、それは寺麻呂てらまろさまのふみ?」


 寺麻呂てらまろとは、都々自売つつじめつま長尾連ながおのむらじの跡継ぎだ。


「まだ奈良から帰ってこれないの?

 正税使しょうぜいし(税の申告に奈良へ行く文官)も大変ね?」

「ええ、そうなの。若海藻わかめの数が、提出した枝文えだふみ帳簿ちょうぼ)と合わないんですって。数え直しが地獄だと嘆いてるわ。でも、もうすぐ帰れるから、下野国しもつけののくにに避難できる準備をしておけって……。」

「二人で行くの?」

「ええ、あたしを無事、下野国しもつけのくにに送り届けたら、自分だけ桃生柵もむのふのきに戻るって。自分は長尾連ながおのむらじの跡継ぎだから、桃生柵もむのふのきで戦うって……。婿なのにね。」


 都々自売つつじめの顔がかげる。


「そう……。寺麻呂さまは立派ね。文官なのだから、直接戰場に立つわけじゃないわ。都々自売つつじめ、ちゃんと避難しなさいよ。緑兒みどりこ(赤ちゃん)を無事に産むこと。母親の大事なつとめよ。」

「ええ……、わかってるわ。佐久良売さくらめ姉さま。」


 都々自売つつじめが愛おしそうにお腹を撫でる。


「でも、父上やお姉さまと離れるのは、辛いわ。」


 佐久良売さくらめ里夜りやを膝からおろし、倚子から立ち上がった。

 都々自売つつじめの肩を緩く抱き寄せる。

 甘い良い匂いがする。

 都々自売つつじめ佐久良売さくらめも、衣被香えびこうという匂い袋を使っているが、佐久良売さくらめの好みは、白檀びゃくだんの強めの、涼やかな香りだ。

 対して、都々自売つつじめ麝香じゃこうが強めの、甘めの香りだ。


「大丈夫。すぐに……、とは言えないかもしれないけど、日本兵が必ず、最後には勝つわ。」


 教えてくれた人がいるから。


「父上も、あたくしも、寺麻呂さまも、皆、また生きて会える。だから安心して、避難なさい。」


 そう、都々自売つつじめの背中を優しく叩くと、


「はい。お姉さま。」


 佐久良売さくらめの肩に顔をあずけた都々自売つつじめが、こくりと頷いた。

 佐久良売さくらめは倚子に座り直し、塩売しおめを見た。


「準備は念入りに……。塩売しおめならこう言わなくても大丈夫かしら?」

「はい、乳母ちおもになる予定のおみなも、一緒に同行させる手筈てはずを整えてございます。」

「さすがね。」


 佐久良売さくらめはにっこり笑い、ふと思い出した。


塩売しおめつまが、戰場に立ってるのよね?」


 いつも落ち着いた女官は、ふと、恥ずかしそうにした。


「はい……。あの、男手がないのもいかがなものかと、あたしのつまも、一緒に避難するんです。」

「良い事じゃない!」


 主である都々自売つつじめつま桃生柵もむのふのきに戻るのに、塩売のつまは安全な下野国しもつけののくにに避難する事を、この忠実な女官は恥じているのだろう。

 佐久良売さくらめは、にっ、と笑った。


「遠慮する事はないわ。あなたも下野国しもつけののくにで励んで、緑兒みどりこを作れば良いのよ。」

「まあっ!」


 塩売が驚き、都々自売つつじめが、


「そしたら、あたくしが塩売の緑兒みどりこ乳母ちおもができるわね?」


 とくすくす笑った。


「ま、ま、まあっ……!」


 塩売が顔を赤くして、両手で頬をおおって困った。姉妹は微笑ましくその様子を見るが、若大根売わかおおねめが、


「ぷっ、きゃらきゃらきゃらきゃら……!」


 と摩訶不思議な笑い方をした。

 全員、若大根売わかおおねめを見る。


「あ、んん……! 失礼しました。」


 若大根売わかおおねめが礼の姿勢をとり、謝罪をする。


「くくく……。」

「ふふふ……。」


 姉妹は笑い、塩売が、


「まったく、若大根売わかおおねめ。あなたのその変な声が聞けなくなるのは、少しの間でも、寂しいわ……。」


 しんみりと言い、若大根売わかおおねめを抱きしめた。 

 しばらく、優しい笑顔でその光景を見ていた都々自売つつじめだが、佐久良売さくらめをきらりと光る目で見た。




    *   *   *




 都々自売つつじめは、若大根売わかおおねめ、塩売のおしゃべり経由で、いろいろと知っている。


(状況を整理すると、今回の縁談のお相手、軍監ぐんげん殿は、福耳で背が高く教養もあり、顔も良し、笑顔が明るく、グイグイ迫る性格で、お姉さまを赤面させた。

 一方、その軍監ぐんげん殿の配下の兵士、疱瘡もがさ持ちのおのこが、なぜかお姉さまに気に入られていて、文字を教えてあげたり、お姉さまは談笑して大笑いをなさったりしていた。性格は益荒男ますらお。)


 若大根売わかおおねめからの情報収集は完璧である。

 

 





 佐久良売さくらめ姉さまは、この七月、八年ぶりに平城京から陸奥みちのくの国へ帰ってきた。

 記憶にあるのは、十五歳の姿。

 再会したのは、二十三歳の姿。

 すっかり大人になって、二十歳までとされる婚期も過ぎて、厳しい雰囲気を漂わせる郎女いらつめ(身分ある女性)として帰ってきた。

 いつも、眉間にシワが寄っている。いったん、怒りに火がつくと、怒り方は本当に怖い。それは、十五歳の時にはなかったものだ……。

 でも、都々自売つつじめにそのような怒り方はする事はなく、二人きりでのんびり話をするときは、昔と変わらない優しいお姉さまだった。

 ただ、


「お姉さま、奈良では良いおのこはいませんでしたの? 采女うねめでも、恋文ぐらいもらうことはあるでしょう?」

「…………。」


 お姉さま自身の恋愛の話をふると、軽い話でさえ、まったくしてくれず、美しい顔に、うれいのある表情を浮かべる。

 

(お姉さまを、怖い、と影でコソコソ噂する下人や女官たちは、お姉さまの優しさや、抱えてらっしゃる憂いを知らないのだわ。)


 都々自売つつじめは、佐久良売さくらめ姉さまに、心無い噂がつきまとっている事が、悔しくてたまらない。


(八年間の采女うねめの暮らしのなかで、何があったのだろう?

 お姉さまが話してくださらない限り、わからないわ。

 それがこの縁談で、お心に、何かの変化があったのだわ。

 どっちのおのこかしら?

 直接会って二人の顔を確かめられないのは、もどかしいわね。)


 姉の縁談に同席するわけにもいかない。







佐久良売さくらめ姉さま? この時間から、こちらにいらっしゃるのは、珍しい事。何かお話があったのではありませんか?」


 佐久良売姉さまは、ちょっと眉根をよせ、目をそらしながら、


「あ、そう、そうなのよ。実はちょっと困ってて、殿から木簡をもらってしまったの。」


 と言って、領巾ひれをもてあそんだ。これは恥ずかしがっている仕草である。


(もしかしたら今日は、お心を話してくださるかもしれない。上手く話を誘導できれば……。)


 そう思いつつ、都々自売つつじめは微笑む。


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