第三十三話  米菓子美味しいです。

 真比登まひとは自分の部屋に戻り、全身を濡らした布で手早く拭き清めた。右腕からくれないの飾り布をいったんほどき、


(今は急いでいて、洗濯をしてくれる働きに、この飾り布は特別丁寧に洗うように言付ことづけできない。

 今日だけだから……。明日はもう、つけないから……。)


 と、飾り布を右腕にしっかり巻き直し、衣をあらためた。

 髪に櫛を通してもとどりを結い直し、桶にはった水鏡で髭をそり、歯木しぼく黒文字くろもじの小枝を割いて歯ブラシとしたもの)と塩で口中を清め、香り付けに丁字ちょうじ(クローブ)を噛んで吐き出した。

 白い直垂ひたたれで左頬も隠し、挂甲かけのよろいも身につけた。


 水鏡に映った己の顔は、緊張していた。


佐久良売さくらめさまの同母妹いろもか……。どういうお方だろう。昨日の今日で、呼び出しだ。お叱りや、罰を頂戴するのであろう。今のオレは、自分の持てる言葉で、誠心誠意、話すだけだ……。)





    *   *   *




 若大根売わかおおねめの土器土器日記。


 お姉さまへ。


 人を気軽にののしってはいけない。言霊ことだまになって、言葉は自分に返ってくるのだから。

 母刀自ははとじの教えなのに、昨日は随分、ひどい言葉を使いました。

 許してください。

 でも、あたし達の敬愛する佐久良売さくらめさまが、あのおのこたちに、どんなに辛い目にあわされたか、と思うと、また、ひどい言葉で罵ってしまいたくなります。泣きたくなります。

 許せません。


 今、あたしは、塩売の部屋でこれを書いています。

 なぜか、お話ししますね。


 今朝、佐久良売さまは、泣きはらした酷いお顔でした。

 当然、佐土麻呂さとまろさまも、都々自売つつじめさまも、驚かれました。

 佐久良売さまは、


 昨日は、この医療の仕事がことさら辛く感じましたの。


 とごまかされました。

 佐土麻呂さとまろさまは、


 そんなに辛いなら、無理に医務室に行かずとも良い。


 と優しくおっしゃいました。

 佐土麻呂さとまろさまは、あの縁談の真相を、ひどい偽りを、まだご存知ないようです。

 佐久良売さまは、


 その為に戻ってきましたの。気になさらないで。


 と仰いました。あたしは都々自売つつじめさまに、塩売の仕事の手伝いを命じられました。

 あたしは塩売に連れられて、この部屋に来ました。

 全て、塩売に話しました。

 塩売は、米菓子をだしてくれて、


 若大根売わかおおねめも酷い顔をしている、少し休んでいきなさい。


 と言ってくれました。

 あたしは米菓子を頂戴しながら、心を落ち着ける為に、今、こんな時間に日記を書いています。


 お姉さま。

 力を貸してください。

 お可哀想な佐久良売さくらめさまを、お助けしたいのです。

 あたしの力は足りないのでしょうか。

 どうしたら良いでしょうか。

 佐久良売さくらめさまは、いつもと全然ちがう、悲しそうな顔をなさっているのです。


 米菓子を食べ終わったら、あたしも、医務室へ行きます。

 あまり佐久良売さまを、一人にしたくはありません。


 塩売がたくさん米菓子をだしてくれたので、もうちょっと時間がかかりそうです。

 やはり人の親切は素直にうけないといけません。

 米菓子、美味しいです。

 炊いて丸めて棒状にした米を乾燥させて、胡麻油で揚げ焼きにして、仕上げに胡麻と塩が振ってあります。

 あたしは一本も残すつもりはありません。



 若大根売わかおおねめより。




    *   *   *




 真比登まひと桃生柵もむのふのき領主の屋敷を塩売しおめに先導されて歩いた。

 やがて、塩売が一つの部屋の前で立ち止まった。

 開け放たれている妻戸つまと(出入り口)で、礼をし、


軍監ぐんげん殿をお連れいたしました。」


 となかにはいる。

 真比登まひとかぶとを脱ぎ、続く。

 部屋から、「にゃあん。」と声が聞こえた。

 白い毛に、土器かわらけ色と黄色の斑斑むらむら(この場合、ぶち)の猫が、部屋の隅で、ふかふかの座布団の上に寝そべっている。

 真比登まひとはしげしげとその猫を見た。


麦刀自むぎとじ。」

 

 真比登まひとがつぶやくと、


「猫は珍しいでしょう? 里夜りやというの。あたくしとお姉さまの猫よ。」


 部屋の中央の倚子にゆったりと座る、この部屋の主から返事があった。

 猫は、真比登まひと一瞥いちべつすると、ゆら、と尻尾をふって、すぐに部屋を出ていってしまった。


「ようこそ。あたくしが陸奥国みちのくのくにの桃生もむのふのこほり少領しょうりょう長尾ながおのむらじの佐土麻呂さとまろの娘、都々自売つつじめです。」


 十八、九歳ほどの妙齢のおみなだった。

 可愛らしい声、愛らしい丸い目、白く透き通るような美しい肌は、さすが佐久良売さくらめさまと姉妹だ、と思わせた。首に透明な黄瑠璃きるりの首飾りをつけている。

 真比登まひとを見る目線が、鋭い。


「お召しに従い参上つかまつりました。蝦夷征討軍の軍監ぐんげん春日部かすかべの真比登まひとです。」


 真比登まひとは礼をする。塩売が、


「そこから先に進まないように。」


 と、冷たく言った。都々自売つつじめが、少々離れた位置から、柔らかい口調で話しだした。


「ご活躍の噂はかねがね聞き及んでいます。

 今日は、あたくしのお姉さまの事で話がしたくて。」


 都々自売つつじめは、豪族である佐久良売を、真比登まひと相手にへりくだって、姉、とは言わない。


 真比登まひとの顔を、じっと見る。


「お時間をいただきました。」


 真比登は汗をかきながら、その場に平伏した。ガシャガシャ、と挂甲かけのよろいの鉄の小札こさねが音をたてる。


「今回のこと、いかようにも罰を受けます。」

「昨日、皆の前で、お姉さまに妻問つまどいしたそうね?」


 都々自売つつじめの口調は柔らかいが、声音が冷え切っている。

 怒っている!

 真比登は肝が冷えた。


「そうです。しかし侮辱しようとしたのではなく、誓ってまことの心です。それだけは、どうか、疑わないでください。」

「お姉さまは、態度が厳しい事がありますが、あたくしにはいつも優しく、自分のことより、家族の心配ばかりしているような人です。今はこの桃生柵もむのふのきの現状に心を痛め、献身的に医師の手伝いをしています。

 もちろん、人を騙そうなど考えた事もない……。

 そんな人が、騙され、縁談という一生を決める場で恥をかかされ、どんな思いをしたか……。」


 真比登まひとは平伏したまま拳を握りしめた。都々自売つつじめの言葉は続く。


「今朝会いました。泣きはらした酷い顔をしていました。

 お姉さまはめったに泣かない人なんですよ。可哀想に……。」


佐久良売さくらめさま……!

 泣きはらして……!

 傷つけてしまった。オレの浅はかな考えのせいで!

 佐久良売さくらめさまはこんなオレに、笑いかけてくれた人なのに。)


「今すぐ首を落としてください!」


 真比登まひとは叫びながら顔をあげた。

 ぼろぼろと涙が頬をつたう。

 身をよじりながら、頭を床に打ち付け、


「今すぐ……! オレは……!」


 何度も打ちつけ、額から血が飛んだ。それを見て都々自売つつじめが慌てて、


「血を見せないで!」


 と叫んだ。塩売が、


「このれ者ッ!」


 と毒づきながら飛んできて、さっと手布で真比登まひとの額を巻き、傷を完全に隠した。

 その素早さに真比登まひとは面食らった。

 都々自売つつじめが手で胸を押さえ、それから腹を大事そうに抱えながら、


「ごめんなさいね……。あたくし、今は穢れを避けているの。悪く思わないでね。」


 とすまなそうに言った。

 何故か、声音から冷たさが消え、眼差しの鋭さが和らいでいる。


「あなたは後悔しているのね?」

「はい。」

「今回の件、斬首になってもおかしくない罪ですが、斬首をまぬがれたら、あなたは、どうしますか?

 戦もそのうち終るでしょう。兵役が終ったら、その時は?」


 真比登まひとに兵役はない事を、この郎女いらつめは理解していないらしい。

 だが、今はそれを、いちいち言う時ではない。

 真比登まひとは、目を潤ませながら、床に両手をつき、倚子に座る都々自売つつじめを見上げた。


「もし、許されるなら……。

 オレは、影ながら、佐久良売さくらめさまをお守りしたい。

 ここの一衛士えじ(戦のない時の警備の男)としてでも良い。

 罪を償いたいんです。」


軍監ぐんげんの地位も、財貨も、いらない。

 自分にできる事は、武勇を役立てる事ぐらいしかない。

 佐久良売さまを遠くから守りたい。

 ただの門番でも良い。

 佐久良売さまが居るなら……。)


 床についた手の指先が、ふるふると震える。

 真比登まひと心臓しんのぞうも、ふるふると震えている。


「そして、時々、できるなら、遠くからでも、お姿を拝見できれば……。」


(それだけで、良い。)


「あなたから見て、お姉さまはどんな人かしら?」

「お美しい人です。勇気があって、眩しくて、得難えがたい人です。」


(オレの天女。)


 思いが口から溢れそうになり、目からは涙がこぼれた。


「ふうん……。」


 そうつぶやいた都々自売つつじめは、少し目をそらし、しばらく無言で何かを考え込んだが、つと、真剣な顔で、真比登を射抜くように見た。

 

「良いでしょう。もう少しお姉さまの話をします。

 これから話す事は、あまり吹聴しないように。良いわね?」

 





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