第三十一話  手持ち無沙汰に立つ男

 副将軍、大川おおかわさまの従者、石上部君いそのかみべのきみの三虎みとらは、佐久良売さくらめさまの部屋につづく簀子すのこ(廊下)で、手持ち無沙汰ぶさた気味ぎみに立っていた。

 万一、佐久良売さくらめさまが井戸に身投げしたりしないよう、見張っているのである。


 先ほど、郎女いらつめが部屋のなかで、


「一人にしてくださいってお願いしないと、一人にもなれないの?!

 出ていって!」


 と佐久良売さま付きの女官に辛くあたり、女官は部屋を追い出された。

 その時に、三虎は佐久良売さくらめさまに姿を見られた。


(あ、ひそかに、が、もう失敗した。

 ……ま、良いか。)


 女官は泣きながら簀子すのこを駆け去っていった。

 三虎は憐憫れんびんの目でその女官を見送った。


(自分もあるじつ身だ。気持ちはわかる……。)


 もっとも、三虎はもともとあまり表情が動かないおのこなので、はたから見たら、その感情の動きはわからない。


 部屋のなかは佐久良売さくらめさまが一人。

 泣き声などは聞こえず、静かだ。

 時々、かた、と人が動く気配がするので、死んでない。


 ガララ……。


 部屋の妻戸つまとが乱暴に開かれ、佐久良売さくらめさまが、酒で赤い顔にすさんだ表情を浮かべでこちらにカツカツ歩みよってきた。泣きはらした目。

 左手に、酒壺を持っている。


「まあっ、主の不祥事ふしょうじ尻拭しりぬぐいにでもやってきたの。従者の鏡ね。」


 ふん、と鼻で笑い、浄酒きよさけを酒壺から直接あおり、


「あたくしをねやで慰めてくれるのかしら?」


 挑戦的に笑いながら、右手でぐい、と薄紅色の夜着の胸元を開いた。

 浄酒の匂いと、湯浴ゆあみ後の白い肌の香気がぷんと匂い立つ。





    *   *   *




 佐久良売さくらめは胸元を開いて見せてやったのに、従者は表情を変えない。


(可愛げのないおのこ。少しは赤面でもしなさいよ。)


 そう佐久良売は不満で顔をしかめるが、従者を注視すると、酔った佐久良売でもわかるほど、息遣いが荒くなっている。

 おのこは興奮している。


(あら……。)


 と佐久良売は機嫌を良くする。従者をにらみつけるのをやめ、つとめて、にっこりと笑ってみせる。


「眠れないの……。」


(こっちに来るかしら?)


 こういう時、おのこおみなの間に流れる空気は、しっとりと熱気をはらむ気がする。

 従者は一歩、こちらに踏み出しかけ、……それ以上動かない。ややあって、


「あなたは酔っている。佐久良売さくらめさま。必ず後悔なさるでしょう。

 ───そしてオレも。

 心に決めた、たった一人のおみながいるので。」


 と静かに言った。


(何よ、それ!)


 袖にされた事だけは、良くわかった。佐久良売さくらめは一気に真顔になった。くるりと踵をかえし、ずんずんと部屋に戻り、薬草の入った小包を持って、またすぐ戻ってきた。


「これは駄目にした衣代です。人参と大黄だいおうです。主に渡しなさい。」


 と小包を従者の胸に押し付け、


「もう消えなさい。あたくしはどこにも行きませんっ!」


 返事もきかぬまま、ガララ、と勢いよく妻戸つまとを閉じた。




   






 佐久良売さくらめは、一人になった部屋で、無言で寝床にうつぶせになり、木でできた枕に頭を何回も打ちつけた。


 初めておのこを誘ってみたのに、まさか断られるとは。


 惨めだった。


「あたくしってそんなに魅力がないの……?」


 そんな言葉が口からもれる。

 おかしい。

 佐久良売さくらめは、采女うねめでいる時、自分の美貌に助けられた。陸奥みちのくは日本の奥の奥、最果ての国の田舎采女よ、とか、鬼より怖い陸奥采女よ、と陰口をたたかれたが、醜女しこめさげずまれる事だけはなかった。おみなとは正直なのである。

 おのこからの恋文だって数だけならいて捨てる程受け取った。実際捨てたが。


 だが、どうやら、自分の容貌を過信していたらしい。……年齢を考えるなら、それもそうだ。もっと自分の認識を改めねば……。


「…………。」


 ガン、と木の枕に強く額を打ちつけた。今夜は眠れそうにない。


 浄酒きよさけを呑んでも呑んでも寝つけず、気持ちはぐちゃぐちゃのままで、それを忘れさせてくれるなら、誰でも良かった。

 ……いや、やっぱり、桃生柵もむのふのきおのこは嫌だ。

 あとから、顔をあわせるのが気まずい。

 あの従者は、肌艶の良さ、着ている衣の質の良さで、一目でこちら側の人間……良い家の者だと分かった。

 あんな目の腫れぼったい男の事など、なんとも思わないが、主である副将軍殿の罪を償わせるのには、ちょうど良いと思った。


 似合わない事をした。

 あんな事を言うんじゃなかった。


 後悔で身体が火照る。


 ───あのおのこのせいだ。縁談に代理を立てるなんて。酷い酷い酷い。屈辱よ。


 涙があふれ。


 ───何が妻にしたい、よ。嘘つき嘘つき! 名を偽って入れ替わってたくせに。


 木の枕に額をこすりつけ、唇を噛み締め。


 ───あたくしをバカにして。騙して。


 嗚咽がこみ上げ。


 ───無断であたくしの領巾ひれに口づけして。


 泣きすぎて目が腫れ、痛い。


 ───悲しみと優しさの混じった目であたくしを見て。


 泣きたくないのに。


 ───真剣な顔であたくしの手を握って。


 泣き止む事すらできない。


 ───怖くないって、あなたが言ってくれたのに。


 あまりにも惨めだった。

 あまりにも。


(あたくしはおのこ裏切られた。

 もう嫌。

 嫌い。

 あんなおのこなんて嫌い……!)



    



     *   *   *




 明日香川あすかがわ  下濁したにごれるを


 知らずして


 ななと二人  さ寝て悔しも




 阿須可河泊あすかがわ  之多尓其礼留乎したにごれるを

 之良受思天しらずして

 勢奈那登布多理せななとふたり  左宿而久也思母さねてくやしも



 綺麗に見える明日香川の、下は濁っているとも知らないで、あなたとふたり、夜をともにしてしまったのが悔しい。

 


 



    万葉集  作者未詳






    *   *   *





 あたくしは、怖いおみなと言われる事自体は、耐えられる。

 たしかに、あたくしの怒ってる顔は、見てる人からしたら怖いだろう、と想像がつくから。


 でも、その怖いおみなという評判がつれてきた出来事できごとは、耐え難いものだった。






 奈良で采女うねめとして務めはじめ、三年たった、十八歳の時。

 熱烈な恋文こいぶみをもらった。

 恋文自体は、珍しいものではない。想いがなくても数をばらまく、たわむれ好きなおのこもいる。

 佐久良売さくらめはそれまで全て、無視をしてきた。


 ただ、そのふみは、頻繁ひんぱんに佐久良売のもとへ届き、佐久良売の美しさを熱心に褒め、想いをげられたのなら、妻にしてあげるよ、と書いてあった。

 そのおのこは、従五位(貴族)といかなくても、畿内の豪族の四男だった。

 地方の豪族の娘にすぎない佐久良売からしたら、願ってもない良縁といえるであろう。

 実際会ってみたら、顔だって悪くなかった。


 重ねた夜は一度や二度ではない。


 ある日、うっかり手布てぬのを、おのこの屋敷に忘れた事に気がついた。

 おのこの屋敷に行くと、庭で数人のおのこが月見酒を楽しんでいた。佐久良売、と己の名が、その会話から聞こえて、思わず木陰に身を隠した。


「鬼より怖い陸奥みちのく采女うねめ、どんなおのこにもなびかぬ佐久良売さくらめ、と評判だったのにな。」

「ふん、くわだからとお高くとまっていても、陸奥国みちのくのくにさ。こんなものよ。賭け金、払えよ。」

「ちっくしょう。こんなに簡単になびくなんてなぁ……。」

「はははは……。」


 嘘だった。


 初めから、何もかも。


 甘い睦言むつごとも、妻にしてくれる約束も。


 全部、汚い汚泥おでいの底の、嘘だった。


 今の佐久良売さくらめだったら、宴に乗り込んでいって、野郎どもの頬を、一人一人、張り倒してやるところだ。

 だが、その時は、衝撃で足が震え、泣きながら自分に与えられた采女の部屋に逃げ戻る事しかできなかった。


(そんな評判、あたくしが望んだ事じゃない!)


 そのおのことは文で絶縁をつきつけ、それ以降一切会わなかった。

 それどころか、どんなおのことも、一切、関わりを持つのを止めた。他の采女が、楽しそうにおのこの話題でおしゃべりをして、


佐久良売さくらめはどう思う?」


 と訊かれても、


「あたくしはそういう話はいたしません。和乎可豆佐祢母わをかづさねも。(あたくしは数にいれないで)」


 と、ツン、と顎をそらした。

 悲しい事や、悔しい事があれば、可頭乃木能かづのきの和乎可豆佐祢母わをかづさねも可豆佐可受等母かづさかずとも

 心のなかで呪文のようにつぶやいた。

 二十歳をすぎ、このまま采女としてやっていき、年老いたら寺に入るか、郷に戻って一人で死ぬのだろう、と、腹も決まった。





 あたくしは婚姻しない。

 恋もしない。

 あたくしを数に入れないで。




 

 




 

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