第十三話  手習い

 安積山あさかやま  かげさへ見ゆる


 やま


 浅き心を  が思はなくに





 安積香山あさかやま  影副所見かげさへみゆる

 山井之やまのゐの

 淺心乎あさきこころを  吾念莫國あがおもはなくに





 安積山あさかやまの影さえ見える山の泉の水のように、浅い心であたくしはあなたを思うのではありません。




 万葉集 作者未詳、ただし、采女。





    *   *   *





 佐久良売さくらめさまの部屋に、真比登まひとは通された。


「そこの倚子に座っていてちょうだい。」


 真比登まひとは座らされ、佐久良売さくらめさまは木簡もっかんを用意し、若大根売わかおおねめと呼ばれた女官は、百合を須恵器すえきの花瓶に活けたあと、墨と筆を用意した。


 真比登まひとは、文字が書けない。

 書ければ良いな、とは思う。

 だが、読み書きは、できるヤツに任せてしまっている。

 勉強するより、仲間と食事を楽しんだり、剣の稽古を楽しんだりしたい真比登まひとだ。

 反省。


 とはいえ、文字を教えて下さい、と佐久良売さくらめさまにお願いした目的は、佐久良売さくらめさまと、邪魔が入らないところで話がしたかったからだ。


 さっそく、佐久良売さくらめさまの背中に、


「オレの……、左頬の……。驚かなかったんですか?」


 と、おずおずと訊く。

 使っていない木簡を選び、机の上に広げた佐久良売さくらめさまは、真比登まひとの隣の倚子に、さらりと衣擦れの音をさせ、座った。


(距離が……。近い。)


 いや、男女の分別ある距離は保っている……と思う。でも、手習いする関係上、真比登まひとの想定以上の近さとなる。

 ふわ、と落ち着く、深い甘さのあるなかに、清涼感のある香りがする。

 佐久良売さくらめさまから漂う香り……。


 佐久良売さくらめさまは、すずりに筆をあてながら、穂先を入念に確かめ、


「ああ、疱瘡もがさ? 感染うつるとか、けがれる、とか、民草たみくさの間では言われるけれど、完治したあとは、疱瘡もがさを触っても、感染うつらないのよ。」


 と言った。

 ふと手を止め、こちらを見て、にやりと笑った。


「触ったことがあるわ。医療でね。だから、本当よ。」


(……!)


 真比登まひとは衝撃を受けた。

 たしかに負傷兵に疱瘡もがさがあった場合、治療をする為、疱瘡もがさに触る必要も出てくるだろう。

 しかし、触るとは。


 真比登まひと疱瘡もがさをさらして郷を歩いているだけで、人々はけがれを見るようにする。

 ただ、すれ違うだけなのに、それすらも耐えられない、というように。

 なのに、見るどころか、その手で触ったとは。

 初めて触る時、この豪族の娘は、どれくらいの勇気を出したのだろう。

 

 この美しいおみなは、この細い身体のどこに、そこまでの勇気を秘めているのだろう……。


「尊敬します。」


 真比登まひとが素直に気持ちを伝えると、佐久良売さくらめさまはこっちを見て、


「ふ……。」


 柔らかく微笑みをもらした。

 桜色の唇が、ふっくらと大きな笑みの形になる。

 真比登まひとの目を見て、


「ありがとう。」


 と言ってくれた。その微笑みの優しさに、


(うわああ……。)


 真比登まひとは瞬時、呼吸困難に陥った。

 こんな近くで、麗しき天女の微笑みを見させられては……昇天してしまう……。


「手本を書きます。集中して良く見なさい。書き順も見て覚えなさい。泣き言は許しません。あたくしは怖いおみなですよ。」


 佐久良売さくらめさまは、すぐに笑顔をひっこめて、厳しい顔をした。


。」


 思わず軍部で用いる返事をして、真比登まひとは背筋をぴっと伸ばした。

 佐久良売さくらめさまは、くすっ、と小さく笑い、




 安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國




 スラスラと木簡に文字を書いた。

 綺麗な文字だった。


「読める?」


 始めの文字は、、だろうか?


「あ、あ……。ええと……。読めません。」


 真比登まひとは情けなく、小さい声で言った。


安積山あさかやま かげさへ見ゆる

 やま

 浅き心を が思はなくに、よ。」

「へ、へえ……。」


(浅い心であたくしはあなたを思うのではありません、か……。)


 真比登まひとの脳裏に、みなもとから百合の花束を手渡され、頬を染めた佐久良売さくらめさまの姿が浮かんだ。


殿と、婚姻するんですか?」


 するり、と口がなめらかにすべった。


(うわっ、オレは今、何を……!)


 慌てて右隣を見ると、ぎらり、と光る目で凄みのある笑顔を浮かべた佐久良売さくらめさまがいた。


(ひいぃ…………!!)


「まあ……、殿の仕込みかしら?

 なら、お生憎あいにくさま。

 もっと若くて優しい郎女いらつめを選びなさい、と殿には伝えなさい。

 この戰の最中に、お父さまもまわりも、婚姻の事ばかり。

 どうして?

 あたくしはお相手を恵んで欲しくて桃生柵もむのふのきに帰ってきたわけではないのですよ?

 すこしでも戰の役に立つ為に、その為だけに帰ってきたのです!」


 佐久良売さくらめさまは迷いなく、ピシャリと言った。

 その姿は強く凛々しい。

 だけど、同時に痛々しさを、真比登まひとは感じてしまう。縁談で、


 ───あたくしは生涯ひとりでかまわない!


 と炎燃ゆるように口にした佐久良売さくらめさま。

 迷いはない、という顔をしているが、一人とは。

 一人とは、寂しいものなんですよ……。


「傷の手当はありがたいです。

 でも……、おみなとは皆、良い相手をみつけて、幸せになりたいと思うものではないのですか? なぜ、お父上にその幸せを願われているのに、佐久良売さくらめさまは婚姻なさらな……。」

「年増のおみなをもらってくださってありがとう、と、おのこ祇承しじょう(謹んで仕えもてなす)しろって言うの?! まっぴらごめんよ!

 知ってるのよ! 皆、あたくしの事を年増だって、怖いって、居丈高いたけだかだって、裏で好き放題に言ってるって! あなただってそうでしょう!」


 激昂した佐久良売さくらめさまが、右手を振り上げた。

 真比登まひとの頬を打とうと、振り下ろす。

 その手を真比登まひとは左手であっさり捕まえた。


「あっ!」


 佐久良売さくらめさまはその素早さに驚く。


(たしかに、オレも、佐久良売さくらめさまを怖いおみなだと心のなかで思った。だけど、大切なのは、佐久良売さくらめさまが見るべきところは、そこじゃない。そこじゃないんだ……。)


 佐久良売さくらめさまは真比登まひとから右手を引き抜こうとするが、真比登まひとは握りしめた手を離さない。

 それどころか、ぐいっと手を自分のほうに引き寄せる。

 ぐっと、真比登まひとと顔を近づける形になった佐久良売さくらめさまは、驚きで切れ長の目を見開いた。

 真比登まひとは、佐久良売さくらめさまの目をのぞきこんで、言った。


「あなたは怖くない。

 そんな事を言うヤツは、本当に怖い目にあった事がないヤツだけだ。」


 自分を殺そうとする凶刃のもとに、身をさらした事がある者にはわかる。

 いくら佐久良売さくらめさまがすごもうとも、やはり可愛いおみなの域を出ないのだ。

 比べれば、全然違う。


(あなたが、そんなヤツらの言葉に傷つく必要はない。)


「医務室でひたむきに負傷兵を治療してくれていたあなたは、神々しくて……、美しい天女のようだった。」


(言えた。)


 真比登まひとはそう思った。

 ちゃんと伝えたい言葉を、伝えたい相手に、言えた。

 おみなでも。

 顔を隠さなくても。


 佐久良売さくらめさまはただ驚いて真比登まひとを見つめ、何か言う前に───、ぶっ、と吹き出す音がした。

 女官が、こらえきれず、吹いたのだ。


若大根売わかおおねめ……。」


 佐久良売さくらめさまが真比登まひとから目をそらし、困ったような、恥ずかしそうな顔で、若大根売わかおおねめを見た。

 年若い女官は、


「申し訳ありません。」


 と礼の姿勢をとった。

 真比登まひとは名残惜しく感じつつ、すぐに佐久良売さくらめさまの手を離し、倚子を立ち、礼の姿勢をとった。


「ご無礼をお許しください。」


 佐久良売さくらめさまは、真比登まひとにらんだ。


いさおに免じて今回は不問にしますが、あまり無礼を働くと、ばっしますからね。」

「はい。」

「その木簡を持って、もう行きなさい。」

「はい。書をありがとうございました。たたらをや(さようなら)。」


 真比登まひとは素早く木簡を巻き、手に持ち、さっと妻戸つまと(出入り口)に向かった。

 簀子すのこ(廊下)に出ると、佐久良売さくらめさまが女官に、


「疲れたわ。厨屋くりやでお湯をもらってきて。白湯さゆを飲みたい。」


 とため息まじりに言っていたのを、背中で聞いた。


 真比登まひとは大股で歩き、すぐに走りだす。


(オレは佐久良売さくらめさまを、どうしても怒らせてしまうな……。申し訳ない。)


 佐久良売さくらめさまの顔を思い出す。

 ぎらりと光る目で大蛇のように怒る顔。

 天女のような優しい微笑み。

 にやり、不敵に笑った顔。

 目を見開いた、驚いた顔。

 ああ、あの美しい顔で、ずいぶん表情が豊かなのだ、とやっと気がつく。


 叩かれそうになったのを止めただけだが、佐久良売さくらめさまの白い手を握ってしまった。

 柔らかく、すべすべした感触。細い指。真比登まひとのごつごつした手とは、全然違う手だった……。

 真比登まひとはそっと、左手を握りしめる。甘やかな感触が、まだほんの少し、残っている気がする。



 ───完治したあとは、疱瘡もがさを触っても、感染うつらないのよ。



 あの言葉を聞いた瞬間。

 真比登まひとの胸に、ほのかな桜色の温かい光が、灯った気がした。


 その色は、あの郎女いらつめの、勇気と、優しさの色に、思えてならない。


 きっと、一生、この言葉を、忘れない。


佐久良売さくらめさま、ありがとうございます。佐久良売さくらめさまは、天女みたいだ……。)


 そう思うと、うああ、と叫びたくなってしまう真比登まひとであった。








 真比登まひとは、なんと直接、軍に合流せず、走って、兵舎の自分の部屋に寄った。

 佐久良売さくらめさまから頂戴した貴重な木簡を、誰にも触れさせず、大事に自分の部屋にしまいこんだのである。


「おーい、通せ、通せ。」


 やっと軍の自分の居場所についた時には、


「遅れすぎだこの軍監ぐんげんッ!」


 怒った五百足いおたりに背中をバチーンと叩かれた。


「へへ。ごめん。もうしないよ。」


 上機嫌の真比登まひとは、にへら、と笑って謝った。







    *   *   *




 若大根売わかおおねめ土器土器日記どきどきにっき


 お姉さまへ。


 今日も、佐久良売さくらめさまについてご報告よ!

 顔に疱瘡もがさのある兵士が、図々しくも、佐久良売さくらめさまに、書の手ほどきをお願いしてきたの。

 疱瘡もがさのあるおのこなんて、佐久良売さくらめさまに近づけて、ごめんなさい、お姉さま。

 でも、佐久良売さくらめさまが、この兵も、自分を助けてくれた兵だからっておっしゃるの。

 佐久良売さくらめさまは、心が広すぎです。

 それでね、話はここで終わらないのよ。

 顔に疱瘡もがさのある兵士が、なんと、佐久良売さくらめさまの手を握って、あなたは怖くない、と言ったのよ!

 きゃ〜っ!

 どういう事、て、手を握って!

 そんな事、面と向かって言ったおのこなんていなかったわよ。

 これは益荒男ますらお

 疱瘡もがさ持ちであろうが、益荒男ますらおだと認定します。

 だって、あたし達の敬愛する佐久良売さくらめさま、やっぱ、ちょっと、怖いものね。

 ちょっとよ。


 そして、その後、佐久良売さくらめさまの事を天女って言ったわ。

 天女よ! 

 あたし、驚いたわ。思わず、ふいたわ。あたしも誰かに言ってほしい……。


 佐久良売さくらめさまも、驚いてらしたもの。

 その後、医務室に戻る前に、四半刻しはんとき(30分)ほど、お部屋で白湯さゆを召し上がり、無言でぼんやり、庭を眺めてらしたわ。

 佐久良売さくらめさまは、お疲れです。

 無理もありません。

 昨日、賊にさらわれるなんて、恐ろしい目にあったのに、休まず負傷兵のお世話をなさってるんですもの。

 あたし、休むように進言したのよ。


 ───負傷兵のほうが、傷は深いのよ、あたくしは、怪我一つしてないわ。


 と佐久良売さくらめさまはおっしゃるの。佐久良売さくらめさまは立派です! 

 あたしが佐久良売さくらめさまの体調には気を配ります。安心してね、お姉さま。



 若大根売わかおおねめより。










↓挿絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330669049084601


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る