飛行機雲を書いてみた

ミナトマチ

飛行機雲を書いてみた

何にでも形から入りたがる子だったので、幼少期は母によく𠮟られた。


極貧と言っては眉をひそめ、かと言って裕福な家庭だと言えば両親は決して首を縦に振らない。

観光地を和気あいあいと巡る家族旅行もロクにした思い出がなかったくらいなので、必要最低限以上のものを持ったことはあまりなかった。


そんな両親は親心からなのか見栄からなのか‥‥…まぁ、出所はどこでも構わなかったが、とにかく家族が「普通」であることにこだわった。


平凡、人並み、ありふれ……マイノリティではなくマジョリティ。

森の中で舞う木の葉のごとく変哲もなければ発見もされない。ブレず、目立たず、しかし誰からも笑われることはない。

そんなある種狂気じみた「普通であるための教え」は今日着るTシャツの柄から、まだ見ぬ未来の職業までのすべての決定権を持っていた。


結果的に「普通」の人間に育つことができ、思い返せば感謝が大きい教育方針ではあったものの、そういった少年時代が、こんなつまらない、物欲を持たぬ悲しい人間を生み出したのだと、葉一よういちは常々ため息をついていた。


だからこそ今その手に握られている黒い棒状のソレを、もう何度目か分からない程見つめ直して、葉一の鼓動はさらに早くなっていた。


うれしさや楽しさではなく、どちらかと言えば恐怖気味のおさまらない動悸。


宮下葉一みやしたよういちはこの日初めて万年筆を握った。


持ったり、キャップを抜いたり、雑紙にさらさらと何かを書いてみたり、ちょっと指の上で回してみたり。

火を手に入れた猿人みたいに、物珍しさが尽きなかった。


その時不意に指が当たって、回っていた万年筆が手の上から勢いよくはじき出された。

葉一は慌ててそれを、全身全霊で掴みにいった。

拾うのではなく掴む。

リバウンド王、なにがし顔負けで掴みにいった。


ああ……涙をぬぐい颯爽と別れを告げた五人の諭吉達。

しかし付きまとう、黄鶴楼ばりのあの別離の悲しさ!


さいわいなことに万年筆が床に落ちることは無かった。

しかし、万年筆を体全てで掴んだときの衝撃が、大学図書館の静寂を切り裂いた。

葉一はおそるおそる辺りを見回すがどうやら心配は杞憂だったようだ。


社会は落ち着きと明るさを取り戻し始めてきたとはいえ、図書館だけでなく、あの世界的なパンデミックがいまだに町の活気を喰らっていたのだ。

葉一の他に、四階フロアに人はなかった。


「ッッッ……ふぅぅ――――っ……」


長く重い息を吐くと葉一は万年筆をそっと机に置いて、街や行き交う人、まばらに校内をうろつく大学生を見下ろして物思いにふけった。


誰もいないフロアの、一番左奥に設置された窓際の机。

その上にはとうに冷めたブラックコーヒーに、分厚い原稿用紙。

そして神器、パイロットの万年筆。


……どうしてこうなったか、なぜなのかは葉一にも分からなかった。



「えっ‥‥…小説家になりたい?」


「ああ!俺、卒業したら小説家になろうと思うんだ。理工学部でありながら、その実をも凌ぐ文才を秘めた最強の文豪!ああ、いい……!見出しは完璧だ!」


「‥‥…」


三日前のことだからよく覚えている。

その日もいつものように、よくまぁこんな男が大学生になれたものだと葉一は逆に感心していたのだった。


この男こと、坂森圭祐さかもりけいすけは葉一の同期で、かつ写真サークル「カッシャ」に同じく籍を置いている「友達」である。

悪い奴ではない。どちらかと言えば陰の葉一に対して洗練された陽であり、名が体を表すが如く酒にはめっぽう強く、どんな飲み会にも何故か呼ばれて、律儀に出席していた。そして、その陽のエネルギーが惑わせるのか…なかなかどうして女によくモテた。


しかし特筆すべきはやはりその馬鹿さ加減であり、教養の無さである。


夏目は漱石で、鴎外は森だバカヤロウ!…と文学部の誇りをかけ、噛みつきそうになる衝動を抑えて、葉一は無言を合図として話を進めさせた。


「この前の飲み会でさぁ俺、姫里枝キリエちゃんの隣の席だったんだよ。んで聞いたの。どういう人がタイプなの?って。そしたら……」


「ちょ……ちょっと待って!河上かわかみさんが……あの河上さんが飲み会に来てたの?」


「ああ、そうだけど?ああ……お前バイトとか言ってたもんな。来てたんだよ、珍しく‥‥」


葉一はその瞬間、苦悶の表情で頭を抱えた。

バイトなどは嘘であった。

パンデミックが落ち着きを見せたからと言って、考え無しに浮かれる人間になりたくない。否、なってはいけないと固く決意を結び、苦手な宴席を大いなる勇気をもって自主欠席したのだが、まさかそんなことになっていようとは。

そんなことを言っている場合ではなかった。


「そしたらさぁ、『そうですね。文豪みたいな人ですかね』だってさ!あんな美人に言われたらもう小説家以外考えられないな。うん。そこでお前だよ!」


彼は入学当初、初めてあったときから葉一を「よいち」と呼ぶ、唯一の人である。


「なんで僕?」


「なんでってお前、文学部だろ!キリエちゃんと同じ文学部!なぁ、頼むよ、俺に小説とか文豪とかいろいろ教えてくれ!」


「えっ‥………えぇ~」


「文才は間違いなくあるはずなんだけど、書き方とかそういうの分かんねーしさぁ……っていうかそもそも本読むと眠くなるんだマジで!なんとかしてくれ!!」


「あ、うん‥…えと‥…そうなんだ……どう…しようか――」


そんなヤツが小説家など笑止千万。前世からやり直してこい!


本気でいってやるつもりだったが、葉一はまたも言えなかった。

その日は確か適当にはぐらかしてやり過ごしたはずである。


ああそうかと妙に納得して、葉一は再び万年筆を手に取った。


だから僕は、小説を書こうとしているのか。


葉一は決して人の恋路を邪魔する男ではない。断じてだ。

しかし、相手が河上姫里枝ならば話は別だ。


葉一だって、万年筆を衝動買いするくらいには、紫がかった黒髪をなびかせ眼鏡がこの世の誰よりも似合う彼女に想いを寄せているのだ。


そうだ、そうだ!と奮起して原稿用紙のマス目に万年筆を突き立てる。


パソコンがあるこのご時世に「文豪」と聞いて万年筆と原稿用紙に肉薄するなんて、お前は圭祐以上の愚か者だ。恥を知れ!


そんな心の声に勢いよく蓋をして、葉一はじっと小説世界を構築していくのだった。


さて、奮起してから一体どれほどの時間が経過しただろうか。

11月の風が昼の熱を奪い、気が付くと三時半を少し過ぎている。

2時間近くつれづれなる‥‥…いや、小説の構想に励んでいたことになる葉一だったが、その時間に見合わず、原稿用紙は無垢の白さを守っている。


文学部だからと言って、いきなり小説が書けるはずなどないのだ。


時計を見やって、一度万年筆を置き、伸びをしてからスマホを取り出した。

アプリを開いてイヤホンを耳に当てる。


小説を書くことに気を取られすぎて、あやうく失念するところだった。


葉一はマジめくさった、しかし、原稿用紙に向かうよりも真剣な顔でスマホの中を覗き込んでいる。

そこは、小説世界よりもドラマに溢れた、人と馬とが紡ぐ大世界。


競馬中継。

彼、あるいは彼女らの命の輝きこそが、葉一を煩わしい現実世界から解放してくれる唯一のバイブルなのだ。

葉一を競馬の道に誘った(引きずり込んだ)同学部の先輩や、同じく誘われた友達(ムジナ)からのメッセージが絶えない。興奮は最高潮に達していた。


それほどまでに、今回のレースは見逃せなかった。

この絶望が渦巻くこの時代に、大いなる歓声と惜しみない拍手を受けることもなく、しかし間違いなく多くの人間に希望と喜びを与えた史上八頭目の三冠馬がいた。


そんな彼が今まさにラストランを飾ろうとしていたのだ。


暗く重く、不自由を強いられた去年の大学生活。

しかし、彼はまさに空に浮かぶ雲のように自由で、強く、孤高ゆえに美しい。

そんな姿に葉一も希望を貰った多くの人間の内の一人であった。


しかし、そんな輝かしい偉業を持っていながら、ここ最近は勝ち星から遠ざかっている。


葉一はそれが歯がゆかった。


三冠馬は特別な馬なんだ。本来の彼の力はあんなもんじゃない!


熱い想いをぶつけた所で所詮誰の耳にも届かない。だから何も誰にも言わない。

しかし、葉一がその馬を信じなかったことは一度だってなかった。


ゲート入りが順調に終わり、ゲートが開いて世紀の一戦が幕を開けた。

課題であったスタートを見事にこなし、お馴染みの逃げ馬が最後方を行くという面白い展開が会場を沸かせるなか、道中緩やかなペースで流れていく芝2400メートル。


葉一の希望は縦長の展開、五番手の位置につけていた。

ほっと一息力を抜いたのも束の間、突如として逃げ馬がペースを上げ、先頭に躍り出たかと思うと、一気にペースが乱れ始めた。


「ここで行ったか!どういう作戦だ?……ッ彼は!?」


ジョッキーが馬に呼吸を合わせておりあくまでその馬のリズムを守っているように見える。


そして第四コーナーを曲がり最後の直線。

逃げ馬が引っぱるなか、三冠馬はまだ落ち着き払って高位置をキープ。

完全に直線に入り、間髪入れずジョッキーが持ち出して手綱を動かした。直後、爆ぜるような勢いでぐんぐんスピードを上げていく。


逃げ馬が生み出した距離を埋め、並み居るダービー馬を打ち負かし、海外からの刺客をはねのけ、立ちふさがる馬を全て撃ち落とすかのように差し切っていく。


気づくとその前にはもう誰もいなかった。


図書館に誰もいなくてよかった。

そう思えるほどに、無意識のうちに飛びだした、現地の観客にも負けない葉一の雄叫びが、寒さが忍び寄る夕方の館内で反響していた。


「空の彼方に最後の軌跡!」という実況の声を聞いたとき、目頭が熱くなった。

なおさら、周りに誰もいなくてよかったと思った。


興奮冷めぬ中、もろもろのインタビューを聞き終わり、惜しみない拍手を送ろうと手を挙げて立ち上がったその時、ようやく現実に戻って来た。白紙の原稿用紙と哀愁漂う万年筆によって引き戻された。


三冠馬は悔しさや無念の涙を、あの力強い末脚ではねのけ、他馬を寄せ付けない圧倒的な本来の強さで有終の美を飾ったというのに、今の自分の有様はいったいなんなのだ。


冷静になって考えてみると、いや、考えれば考えるほど、葉一は冷静さを取り戻して青くなった。


夕闇に溶けてしまいそうになるのを必死にこらえて、葉一は帰り支度をする前にと、飲み物を買いに自販機まで歩くことにした。


他階ならばちらほらといた人ももうすでにいなくなっており、図書館員が暇をいいことに談笑しあっている。


人恋しさは葉一にはない。

どうせ今夜は先輩に呼び出され、延々と今日のレースの話をするのだ。


そう言い聞かせ、虚しさを虚しさで相殺し、外にある自販機に向かうと、葉一は思わず息をのんだ。


自販機の前の、ちょっとした飲食スペースに、河上姫里枝かわかみきりえが腰かけて読書をしていたのだ。


外気はそれなりに冷たく、日も沈みかけて薄暗いのに、彼女は街灯の下で、西洋彫刻のようにただただ美しく本の世界を旅していた。


本への熱意が霜月の空気を燃やすのか、非科学的なことは分からなかったが、その眼差しは真剣そのもので、とても葉一が話しかけられるオーラではない。

いや、白状すると葉一は一度だってまともに話ができた試しがなかった。


「‥……僕もッ‥‥…僕だって……!」


突如何かを決心したかのように、財布をポケットに押し込んで、葉一は四階を目指して階段を駆け上がった。

エレベーターを待っていられなかった。


自己否定、思い人、現実の悔しさ……マイナスであり、しかし、角度を変えればプラスに見える大きなエネルギーが青年の文才を刺激した。


夢を乗せて飛べるわけではないのだけれど。

誰かに希望を届けることは出来ないのだけれど。

現実を打ち抜く、機関銃は搭載していないのだけれど。


万年筆という梶をとり、マス目状の空をどこまでも飛んでゆける。

そんな飛行機乗りには、なれるような気がした。


時間も忘れ、思ったことを、考えたことを。そしてなにより、今日目の当たりにした人と馬の奇跡のドラマを丁寧に丁寧に紡いでいく。

葉一は生まれて初めて、飛行機雲を書いてみた。














































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