裏表紙

 暗い帰り道。街灯は心細く光る。広い通りに抜ける路地。通りを走る車のヘッドライトがチラチラと、路地の先を通り過ぎていく。時折、人が通り過ぎるのが黒い影になって見える。

 それは左から右へ行くただの影で、誰が誰とか見分けがつけられる要素はなかった。なかったはずなのに、背格好かはたまた第六感か、いま通り過ぎた影が誰なのか分かった。

宍戸ししど? 宍戸!」

 宍戸が目撃されたのは、ここからほど遠い場所だ。しかし一日かければ移動することなど造作もない距離だ。

 私は走る。通りに出て、すぐに左を向く。宍戸の姿は見えなかった。宍戸でなかったのかとも思った。しかし他人の姿も見えなかった。影は、人が通り過ぎたのだ。宍戸ならまだしも、人がいないなんてことがあるのだろうか。

 人がどこかにいないか、確かめながら小走りで進む。少し進んだところで私は立ち止まった。

「疲れてる。落ち着けよ、私」

 心労が見せた幻覚だ。それ以外ありえない。黒い影が宍戸に見えたときに、空見だと判断できたはずなのに、一縷の望みにかけてしまった。それが悪いことだとは思わないが、疲れている、そう思った。

 そのとき、私のスマートフォンに着信があった。画面には伊丹いたみくん、と表示されていた。忘れ物でもしたかと思い、電話に出ると全く違う知らせが飛び込んできた。

祐未ゆみさん、今いいですか?」

 伊丹くんの息は軽く上がっていた。声色から緊急を要する事態なのだと、すぐに分かった。

「何があったの? まさか宍戸が……」

 嫌な想像が頭の中を占拠してしまう。スマートフォンを強く握る。冷や汗がぶわっと、即座に分泌される。

「見つかったんです。生きてます」

 私の焦りように、伊丹くんは冷静さを一部取り戻したようで、さっきより落ち着いた声色で言った。

「見つかった? 本当に? あ、ああ、良かった……」

 腰が抜けるかと思った。見つかった。生きていた。

「でも、宍戸のヤツ、事故にあったらしいんです」

「え?」

「電話がかかってきたのも、警察じゃなくて、搬送された病院から連絡を受けた宍戸の親からなんです」

 どういうことだ。見つかったというより、怪我人がたまたま宍戸だったということか。

「し、死なないよね? ねぇ」

 伊丹くんに言っても仕方がない。分かっていて言ってしまう。呼吸が荒くなっていく。

「交通事故で死にはしないと、親御さんの話ですけど。ええと、あと……」

 伊丹くんのほうも落ち着かないようだった。深呼吸ような音が聞こえる。

「とにかく、いま俺たちにできることはないそうです。けど、とにかく宍戸は無傷ではないけど無事だったと、らしいです。だから祐未さんは連絡が来るのを待っててください。多分、明日以降です」

「わ、分かった。い、伊丹くんから来るのかな?」

「そうします。なんか落ちかないんで、一回切ります。すみません」

 電話は切られた。

 それから家にどう帰ったか、あまり記憶は判然としない。


 ●


 二週間が経ち、年は明けた。部屋から窓の外を見ると、雪がまばらに降っていた。

 宍戸は意識が戻らないという。悶々と過ごし、大晦日も正月もなかった。面会謝絶で、入院する病院は知っていたが顔を見ることは叶わなかった。

 一月八日。その日の午後。こたつに入って、ココアをちびちび舐めていたときだった。

 手持ち無沙汰にアマバタ様のページ捲っていると、表紙が初めのページと張り付いているのに気づいた。破れないように注意してペリペリと剥がすと、そこには短い文章が書かれていた。崩し字で読むことが出来なかった。ひらがなと漢字、これだけは分かった。

 他にもそんなページがないか探すと、裏表紙がくっついていた。

 こたつの上のスマートフォンが鳴って、画面に伊丹くんの文字が見えた。手が自分の意思を乗り越えて俊敏に動き、スマートフォンを取る。

「もしもし」

 前のめりの心待ちで電話に出ると、伊丹くんの浮ついた声が聞こえた。

「何かあった?」

 声を抑え、期待を隠すように答える。

「宍戸が目を覚ましたそうです」

 声が出ない。何を言えばいいか分からない。

「祐未さん、大丈夫ですか?」

 涙が流れた。


 ●


 翌々日。面会謝絶は解け、宍戸のお見舞いへ行くのに、大学の最寄り駅前で待ち合わせをしていた。

 今日も寒く、空は晴れ晴れと白っぽい青だった。微風が耳を冷やす。

 駅の前からはまっすぐ道路が延び、丁字路になる。五十メートルほど先に月極駐車場が見える。金網で区切られ、掲げられた看板に満車と、パネルで取りかえられる部分に書いてあった。

 手前にスカイブルーの軽自動車が止まっている。その車体の下から、何かが這い出てきた。小さくてよく見えない。目を凝らすと、黒々とした猫が伸びをしているのが見えた。

「不吉だ」

 そう呟き、耳朶をつまんで寒さを肌に感じていると、伊丹くんが道路を渡ってやってきた。

「おはようございます。祐未さん」

 伊丹くんは白い息を吐き、顔を少し綻ばせた。

 私はまだ宍戸の心配をしていた。宍戸は骨折していたり、打撲であったり、交通事故らしい怪我をしているそうだ。目立った後遺症はないと聞く。事故前後の記憶がないそうだが、よくあることだという。けれど酷い容態だったらどうしようと考えてしまう。私は悲観的で、伊丹くんは私と比べて楽観的なのだろう。

「おはよう」

「気分でも悪いですか」

 上手く微笑んだと思ったのだが、ぎこちなかったのか伊丹くんに要らぬ心配をさせてしまった。

「いやね、そこの駐車場に黒猫がいてさ、不吉でしょ?」

 伊丹くんは駐車場のほうを向いて目を細めた。

「ほら、あの車の下に……あれ、もういないかも」

 指をさしたが、その先には何もいなかった。

「まあ、横切られてないなら問題ないんじゃないですか」

 興味なさげなのが伝わってきた。

 迷信を迷信だと理解するのと、迷信だと割り切るのは全く違う。私は迷信だと分かっているのに、割り切れずに夜に爪を切れずにいる。今日の黒猫も何となく縁起が悪い気がして仕方がない。

 伊丹くんの背中越しに動くものが見えた。

「あ」

 その声で伊丹くんが後ろを見た。俊敏な動きで黒猫が私たちの目前を横切って、道路を曲がってどこかに消えた。

「見た? 不吉だよ」

 不思議そうな顔をして、伊丹くんは私を見る。

「すみません。見逃しました。何かありました?」

 伊丹くんは黒猫を本当に捉えられなかったようで、道路の隅々を見回した。

「本当にいましたか? 黒猫なんて」


 ●


 病院には昼前に着いた。大学病院で建物が物々しく、意味もなく宍戸が心配になった。

 一階の受付ではなく、宍戸が入院する階層のナースステーションで面会の受付をするらしい。伊丹くんがエスコートしてくれて、スタスタと滞りなく八階へと辿り着いた。

 エレベーターから出ると目の前にナースステーションがあった。伊丹くんは部屋番号と宍戸の名前を言う。受付表にそれぞれ名前を書いて、宍戸の部屋へと向かう。

「個室だそうです」

 伊丹くんは呟いた。

 部屋の前に着くと、壁に遮られた小さな声が部屋から漏れ出していた。伊丹くんがノックをする。すると聞き慣れた宍戸の声がした。

「はい」

 伊丹くんはゆっくりと戸を開いた。私はなんだか怖いような気恥ずかしいような気がして、伊丹くんの背中に隠れた。

「おお、伊丹か!」

 元気な宍戸の声が部屋に響く。ベッドに横たわり、頭に包帯を巻いていた。腕は折れているらしくギプスが巻かれていた。

「まあ、お見舞い? ありがとう」

 宍戸の母親がベッドの傍らの椅子に座っていた。父親がその隣に座っていた。

 宍戸の表情を覗う。笑顔だった。

 なんだか私も笑いたくなってくる。

「こんにちは」

 背中から姿を見せる。宍戸の両親が驚いた顔をした。

「祐未さん、だったかしら」

 宍戸の母親が自信なさげに言う。

「祐未です」

「ありがとう、今日は」

 お父さんはだんまりだった。寡黙な人なのか、口下手なのか。それとも口下手だから寡黙なのか。

 宍戸のほうを見る。この笑顔はぎこちなくないはずだ。心の底からの笑顔だ。

「宍戸」

 呼びかけに宍戸は答えない。私を見つけると、笑顔はだんだん失われ、目の焦点は合わず、わなわなと口元が震えだした。

 宍戸は何かに怯えているようだった。


 ●


 ごめんなさい、ごめんなさい。

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