二十二頁目
「どうぞ」
伊丹くんの部屋はワンルームで、ものはあったが散らかってはいなかった。ベッドの毛布はピシッと伸ばされているし、卓袱台の上は綺麗だった。フローリングもピカピカで、綺麗好きであろうことが覗えた。
伊丹くんは卓袱台のまわりに、座布団を三枚おいた。二枚は並んでおかれ、そちらが私たちの席だと分かった。
「ああ、お茶淹れますね」
三人で腰を落ち着けたと思うと、伊丹くんは立ち上がった。お構いなくと言ったのを伊丹くんは無視した。
湯呑みが三つ、卓袱台に置かれた。湯呑みからは湯気がたっている。
「来客用ですから」
伊丹くんはお茶を啜った。
嫌な沈黙だった。誰もが話そうとしているが、何から話せばいいか分かっていない。居たたまれなくて、お茶を注意して啜った。
「その、
正座をして、膝の上でぎゅっと握りこぶしをつくっている。私にも咲ちゃんの緊張が伝わってきた。伊丹くんは咲ちゃんの妙な言い回しが引っかかっているようだ。
「どういう意味です?」
また伊丹くんはお茶を啜った。
「あの、私が事故にあったのは知ってますか」
「知ってる」
「それで私、記憶喪失ってやつになっちゃって……」
また沈黙。けれど嫌な沈黙ではなかった。伊丹くんが何か言おうとしているのが分かったからだ。伊丹くんは黙考の果てにお茶を啜った。
「俺に関係があるんですか。話が見えない」
今度は私の番だった。
「アマバタ様って、心当たりある?」
いつかした質問をする。
伊丹くんは顔をムッとさせて、見るからに機嫌を悪くした。
「それが今、何なんです。いま、
私は言い返さずに、例の本を出して、卓袱台の上にスッと差し出した。
「宍戸の部屋にあったの。宍戸がいなくなる前日に、これを取ってくるように言われたの」
伊丹くんは本を手に取り、パラパラとページを捲る。顔が曇った。そして表紙を再度見る。
「アマバタ、様か」
忌々しそうに呟いた。卓袱台に乱暴に本を投げ置く。キッと私と咲ちゃんを睨む。咲ちゃんは身体をびくつかせた。伊丹くんはそれを見て、目をそらしたと同時に鼻から息を吐いた。
「一度、入院中に聞かれたんです。アマバタ様のこと。でも覚えていなかったんです。だから、伊丹さんが知っているなら教えてほしいんです。不謹慎なのは分かっています。けどお願いします」
咲ちゃんは深々と低頭した。その態度に伊丹くんはひどく驚いたようだった。
「私もさ、お願いだよ。宍戸はこの本を取ってくるように、わざわざ頼んだんだよ? 何かあるんじゃないかって思っちゃうよ。いなくなった理由とかさ」
伊丹くんは本を手に取り、遠い目をして本を見ている。本を見ているようで、違うものを眺めているようだ。
「頭、上げてください。何もそんなにして頼むことじゃないし、俺が頼まれるような立場でもない」
抑揚なく伊丹くんは言った。咲ちゃんはゆっくりと頭を上げた。その目を鋭い視線で伊丹くんは捉えた。私と咲ちゃんは伊丹くんが言葉を発すのをじっと待った。
そしてゆっくりと、その口が開いた。
「アマバタ様は、あなたが造ったものだ。上野さん」
●
伊丹くんの話は夏休みまで遡った。掲示板に張り出されたアマバタ様についてと書かれた紙や、咲ちゃんのいたサークル棟の部屋。そして約束の時間にいない咲ちゃん。ここまでは宍戸に聞いた話だ、と補足があった。
帰省から戻った伊丹くんは宍戸から、この話を聞かされる。一笑に付したのは事実として、面白そうだとも思った。だから咲ちゃんの行方を追う協力をするのもやぶさかでなかった。
そして判明する咲ちゃんの事故。はじめは宍戸も伊丹くんも、そのような演出だと思った。タイミングが良すぎたのだ。しかし、咲ちゃんが病院にいることはすぐに裏が取れた。
以降、アマバタ様の話題は持ち上がらなかった。
●
「これがアマバタ様について知ってることだ。少ないが、十分だろ。上野さん。アマバタ様はあなたのものだ」
ぽつりぽつりと語る伊丹くんは侘しさを漂わせいる。伊丹くんがいま、どんなことを考えているのか、想像もできなかった。
「じゃあ、この本は?」
「あなたが書いたんだろ。じゃなきゃ辻褄が合わない」
不服そうな顔をして、咲ちゃんは本を捲る。
「絵が描けないんです。だから、小説を書いてた。それは覚えてます」
「じゃあ、この本はどう説明する」
「私、宍戸の部屋から持ってきたって言ったよね」
三人が黙る。結論を出すのに尻込みをしているようだった。
「つまり、宍戸が描いたってことですか」
伊丹くんが私と咲ちゃんを顔を交互に見て、机上の本に目を落とした。
そうなのだろうか。しかし咲ちゃんが描けないとなると、状況証拠が作者は宍戸だと証明するようだ。なら、宍戸は自作の本を取ってくるように言って何をしたかったのか。行方をくらますだけなら、こんな間怠っこしいことはしなくていいはずだ。
そのとき、玄関のドアがガチャリと開いた。伊丹くんが顔を上げ、入っていいぞ、と声をかけた。
玄関にいたのは
何が起こっているのか分からなかった。しかし確実に彼の身に何かが起こっていた。そして数秒が経ち、伊丹くんが声をかけた。
「おい、どうした」
「はあっ……うう」
唸りながら皆川くんはビニール袋を地面に落とした。甲高い音が鳴り、足下に缶がゴロゴロと転がった。
「大丈夫、ですか?」
咲ちゃんが立ち上がって、皆川くんのほうに歩いていく。皆川くんの息はどんどん荒くなっていく。
咲ちゃんが皆川くんの前に立ったとき、どうしたらいいか分からず、一瞬戸惑った。
そのとき、皆川くんが叫んだ。
「や、やめてくれ! 許してくれ!」
皆川くんは咲ちゃんを突き飛ばし、外を駆けだしていった。ドン、と床が響く。咲ちゃんは尻もちをついた。
開けっ放しになったドアから、ひっそりとした夜の闇が滑り込んできた。
●
その後、話を続けられるような気力が私たちにあるはずもなく、咲ちゃんと伊丹くんが連絡先を交換して、散会の流れとなった。咲ちゃんと私は別方向の帰り道だった。
「皆川くんとは、知り合い?」
別れ際、咲ちゃんに尋ねた。
「いえ……知りません。いや、忘れているのでしょうか」
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