二十一頁目
伊丹くんの杞憂ではないのかという疑問と、宍戸の身にやはり何かあったのではないかという不安がよぎる。
まだ一週間も経っていない、そう思う自分もいる。しかし、宍戸の精神状態は普通ではなかった。もしかしたら人目のつかぬところで……嫌な想像が尽きない。
約束の日の朝。たまらず伊丹くんに電話をした。やはり続報はないようだった。伊丹くんが警察からの連絡を直接、私にいくようにしておくと言ってくれた。お礼を言って電話を切った。
身だしなみを整える。昼頃に鬱々としながら家を出たとき、知らない番号から、スマートフォンに電話がかかってきた。電話に出ると、聞いたことのない男の人の声がする。それは警察官だった。
警察官は宍戸とみられる目撃証言があったと言う。電話口で喜びのあまり、本当ですかと少し大きな声を出してしまう。
宍戸は今日の朝に目撃されていた。最悪なことになっていなくて、本当によかったと胸を撫で下ろす。警察官は必ず見つけます、と言った。見えないのにお辞儀をして、電話を切った。
切ってすぐ、伊丹くんから電話がかかってきた。
「連絡来ましたか」
伊丹くんは少しうわずった声で言う。来たと答えると、それ以上特に話すこともないので、電話を切った。
目撃された場所は宍戸のアパートからも、消えた精神科からも、かなり離れた場所らしかった。自ら探しに行きたい気持ちがあった。けれど自己満足で何の役にもたたない気がして、やはり警察に任せるのが賢明だと自分に言い聞かせた。それに約束がある。
不安は残るが、少し安心した気持ちで約束の場所に向かった。
待ち合わせ場所は大学に向かう電車の逆に乗って四駅、そこから歩いてすぐの喫茶店だった。喫茶店はモダンな一階建てだった。乳白色の壁に茶褐色の窓フレームから、楽しげな二人組の顔が覗いている。錆色の屋根には味があった。
喫茶店には前庭があって、飛び石のまわりに細い木が二本植わっていた。扉は木製で、艶々した表面に木目が黒々と浮き出ていた。その重い扉を押し開けると、スローテンポのジャズが耳に入ってきた。入り口の右手にカウンターがあって、そこには白髪の男性が座り、静かにコーヒーを飲んでいる。カウンターの席は五席ほどあったが、座っているのはその男性だけだった。
カウンターの中にはマスターと思しき若い女性がいた。他に店員はいないし、何よりフードのついたセーターにジーンズというラフな恰好は、店のオーナーでないと許されないのではなかろうか。そういえば女性の場合、マスターではなく、ミストレスと言うのではなかったか。
「いらっしゃい」
店主が小さな声で言った。店主は俯き加減にカップを拭いていた。
「開いてるところ、どこでも座ってください」
テーブル席を手のひらで示す。店の左手にはテーブル席が並んでいる。会釈をして店の中に入ると、テーブル席のひとつに外から見えた二人組がいた。そこを通り過ぎ、次のテーブル席に咲ちゃんはいた。
「こ、こんにちは」
外は寒いというのに、咲ちゃんはコーラフロートを飲んでいた。バニラアイスはそれほど溶けていなかった。約束の時刻は二時半だったのだが、二人して早めに来ていたようだ。
「こんにちは。まだ約束の時間まで十五分もあるのに早いね。待った?」
「いえ、来たばかりです」
咲ちゃんは緊張した様子で答え、背筋を伸ばした。
咲ちゃんの向かいに座り、ブレンドコーヒーを頼む。咲ちゃんは何も話さない。機を窺っているのか、それとも話の足掛かりがなくて困っているのか、モジモジした様子はどちらにも取れた。
「それで、話って?」
私のほうが沈黙に耐えかねて、こちらから話を切り出すことにした。
「あの、あの本。アマバタ様の本ってどこで手に入れたんですか?」
咲ちゃんはアマバタ様のことを口にした。持ってきていたバッグの本を撫でる。
「友人からもらったの。私も聞きたいんだけど、アマバタ様って何?」
咲ちゃんは黙考して息を漏らした。コーラフロートの表面を水滴が滑るのが見えた。
「友人って、宍戸さんですか」
私の目を見る。私が何から話せばいいものか、上手くまとめられないでいると、咲ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「実は、記憶喪失なんです」
●
咲ちゃんが話し終わる頃には、届いたコーヒーは冷め、コーラフロートはカフェオレの色になっていた。
事故と記憶喪失。そして一番気がかりなのは、宍戸の件だった。
「宍戸とは親交はなかったわけだよね?」
「はい。でも親とか榊ちゃんが、わざと隠してるのかもしれません」
私は医学に知見を全く持ち合わせていない。だから、この問題について言えることは何もなかった。しかし、咲ちゃんの話には続きがあった。
「入院していたとき、一度だけアマバタ様について聞かれたことがあるんです」
「誰に?」
「お母さんです」
宍戸の失踪前夜に渡された本。母親から聞かれたアマバタ様。それとアマバタ様に過剰に反応していたように見えた榊ちゃん。アマバタ様が物事の中心にいるような気がしてくる。
「それで宍戸さんとアマバタ様が繋がって、何かあるんじゃないかって。宍戸さんを見ると申し訳なる理由とか、なくなった記憶を少しでも取り戻せるんじゃないかって」
咲ちゃんは中身は違えど、私と同じようなことを考えていた。私としては、まさかアマバタ様とやらが宍戸失踪の原因だとは考えていないけれど。しかし、アマバタ様は奇妙に咲ちゃんと宍戸とを繋げている。
アマバタ様とは――この本はいったい何なのか。
ひとしきり話し終わり、宍戸のことを話す。おそらく精神病に罹っていたこと。あの本を持ってきて欲しいと頼まれたこと。そして行方が知れないこと。
「し、宍戸さん、大丈夫なんですか」
咲ちゃんはひどく驚いた様子だ。数ヶ月前に顔を合わせた人が(そう言っていいものか微妙な話ではあったが)そんなことになっていると知れば、深い関わり合いがなくとも気にかかってしまうものなのだろう。もしくは、単に咲ちゃんが心優しい子なだけか。
「まだ分からない。ただ今日の朝に誰かに目撃されてたって。運がよければ今日中に見つかるかも」
私は穏やかに話すようにした。咲ちゃんはぼそっと「よかった。生きてて」と呟いた。そしてあわてふためいて「ごめんなさい。不謹慎でした……」と小っちゃくなった。
「別にいいよ」
どの立場からの言葉か自分でも分からなかった。
「そうだ。咲ちゃんはアマバタ様について、何か知ってることはないの?」
咲ちゃんは首を傾げた。そして溶けて混ざりきったコーラフロートをストローで吸った。
「知らないです。覚えていないだけかもしれないですけど。でも、私にお母さんがアマバタ様のことを聞いたってことは、やっぱり忘れてるんじゃないでしょうか」
確かに、知りもしないようなことを聞くことがあるのか。記憶障害があると分かって、手当たり次第に覚えていそうなことを聞いた可能性が高い。つまり咲ちゃんはアマバタ様を知っていたのかもしれない。
「咲ちゃんがアマバタ様を知ってたってことは、この本を持ってた宍戸とも接点があったかもしれないってことだよね」
咲ちゃんはゆっくりと頷いた。
「榊ちゃんは病院でのことがあったから、神経質になって、あまり宍戸さんのこととか、アマバタ様のことも聞いたんですけど教えてくれないんです。宍戸さんとは、もっと昔に何かあったのかもって、祐未さんは何か心当たりは?」
ううんと唸る。どうだろう。そんな話は聞いたことがない。しかし、そこまで頻繁に連絡を取り合っていたわけでもない。結論としては分からない、とその一言が精一杯だった。
「そうだ。伊丹くんに聞いてみよう」
「伊丹、さん。どなたですか」
伊丹くんが宍戸の親友で同じアパートに住んでいることを伝える。咲ちゃんは「何か知ってそうですね」と嬉しそうに言った。
「それと、あとひとつ」
「何?」
「その本、読ませてくれませんか」
咲ちゃんはテーブル上のアマバタ様の本を指さす。
「もちろん。何か思い出すかもしれないしね」
咲ちゃんに本を手渡す。咲ちゃんは神妙に本を受け取った。
咲ちゃんはテーブルの上で本を開き、読み始めた。逆さまではあったが、私にも内容が見えた。
何か手がかりがあるのではと、宍戸がいなくなってから何度か読んだが、今一度読んでみるのもいいかもしれない。
●
表紙には和装の(おそらく死装束)女が座り込んでいる。そして左上にアマバタ様の崩し文字。本を開くと白紙のページが数ページ続く。そして茶渋のようにくすんだページを挟んで、最初の絵が現れる。
袷を着た男が友人と酒を呑んだり、仕事をしたり、楽しげな生活が戯画のように数ページ描かれている。そして男は友人から何かの話を聞き、間抜けな顔をする。
それから男の前に着物の女が現れる。女は恋人でも友人にも見えない。男の後ろをただついて回り、何をするわけでもない。男は気づいていないふりをしている。
白紙のページが続く。
突如として、風景画となる。海や山、神社や寺の絵が、墨だけで精巧に描かれている。そのどれにも男が小さく描かれていた。そして、女も小さく。
また白紙のページ。しかしすぐに絵は現れた。
男は文机に向かい、筆を持って何か本へと書き込んでいる。男は一心不乱に何かを書き続け、ページを捲るごとに、男の傍らへと本が積み重なっていく。男は何かに取り憑かれたように、そして怯えるように何かを書いているように見える。女は見えない。
ページを捲る。男は憑きものが落ちたような顔をしている。肩越しに女がいた。男まわりには山積みだった本はなく、一冊の本がその手に握られている。またページを捲ると、その本を誰かに差し出している男の絵があった。相手は描かれていない。
それ以降のページには何も描かれていない。文字も絵も。ただ、くすんだ染みが最後まで続く。
●
咲ちゃんはパラパラと片手でページを捲り、もう何も描いていないことを確認をする。
「これは……なんなんでしょう」
眉をハの字にして、咲ちゃんは呟いた。
「見たとおり、お話が飛び飛びでよく分からない」
「白紙のページに絵が描かれていないせいでしょうか」
咲ちゃんはパタンと本を綴じた。
「そういうデザインなのかも。多くを語りすぎないというか。多分、その本、手作りだし」
そう言うと咲ちゃんは物珍しそうに本の裏表を眺める。
「本って作れるんですね。もっと古いものだと思ってました」
「古いものに見せかけた、って感じだと思う」
話の方向がますます外れていく。冷めたコーヒーを飲んで、話をもとに戻す。
「それで、思い出したことはある?」
咲ちゃんはまた、本をパラパラ捲る。捲ったあとに軽く溜息を漏らした。
「何も」
残念そうに言って、咲ちゃんはコーラフロートだったものをストローで吸い上げる。
「そっか」
お互いに黙って、何を喋っていいか分からなくなる。
「この女の人がアマバタ様なのかな」
「怪談なら、そうだと思う」
咲ちゃんの呟きに答える。
「でも表紙の女の人とは違う人ですね」
それには私も気づいていた。恰好もそうだが、まず顔立ちが違う。別人なのは自明だ。
現状は錯綜も帰結もせず、アマバタ様が何なのかという疑問が、そのまま残ることとなった。咲ちゃんに置いてもそれは変わらずだろう。
「暇なら伊丹くんの住んでるアパートに行ってみる?」
「ぜひ」
少し前のめりになって咲ちゃんは答えた。
伊丹くんの反応に私はずっと引っかかっていた。あの日の電話でアマバタ様のことを口にした途端、重苦しい雰囲気が別の種類に様変わりしたように思えた。
私たちは軽食代わりのスイーツを喫茶店で食べてから店を出た。
●
一時間ほどで伊丹くんのアパートに着いた。十六時前の空はまだ明るかったが、冬の空はここから急激に暗くなる。伊丹くんに連絡をしておくべきだったと、気づいたのは伊丹くんの部屋の前でのことだった。そのことを咲ちゃんに言うと小さく声をあげた。
「私もすっかり……すみません」
「私が悪いよ。伊丹くんがいなかったら、ごめんね」
少々気が逸っていたようだ。
私は心のどこかで伊丹くん、いないでくれてもいいんだよ、と思いながらインターホンを押した。
トントントントンと急ぐことなく、半ば怠そうな足音が微かに聞こえる。
「何だ、インターホンなんか押して……」
「や、やあ。伊丹くん」
伊丹くんは目を丸くして私を見る。そして後ろの咲ちゃんを怪しむように目を細めて見た。
「えっと、何用です? 宍戸、じゃないですよね」
伊丹くんに申し訳ない気持ちが湧いてきた。友人が行方不明だというのに、私たちは暢気すぎる。そう思われているに違いない。
けれど宍戸はいなくなる前に、あの本を取ってくるように言った。いなくなった直接的な原因だとは思えないが、本に何かあるのではないかと勘ぐってしまっているのは確かだ。それにアマバタ様の話題を出したときの伊丹くんの態度も気がかりだった。アマバタ様のことを、聞かなくてはいけない気がしてならない。
この話をどう切り出したものか、咲ちゃんの説明をするのが先か。
「今、大丈夫?」
「まあ、時間はありますけど」
伊丹くんは状況が飲み込めないまま、戸惑っている。私の顔を見たあと、咲ちゃんの顔を見た。咲ちゃんは目をそらした。
「まず、こちら咲ちゃん」
咲ちゃんを紹介する。伊丹くんはぺこりと頭を下げ、咲ちゃんも、それに続いた。
「上野咲と言います」
頭を下げたときに咲ちゃんは自己紹介した。
「それで……」
伊丹くんは言いかけて、髪を手櫛する仕草をやめた。口を軽く開け、目を見開いている。
「どうかした?」
「上野咲、って言いましたか」
伊丹くんは溜息を吐き、睨むように咲ちゃんを見た。
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