二十頁目

 宍戸ししどの事が気になって、その日は眠れなかった。

 宍戸が帰って来なかった翌朝、精神科に問い合わせてみた。宍戸の名前で予約はされていた。しかし来院はなかったと言う。宍戸の携帯は電源が切られていて、通話もメールも通じなかった。

 警察に相談をするべきなのか。気が早いか、それとも心配のしすぎか。落ち着いて伊丹いたみくんに電話をした。

「宍戸ですか。知りませんけど……どうかしたんですか」

「いや、えっとね……」

 聞かれると分かるはずなのに、適当な言い訳も考えておかないで伊丹くんに電話をしてしまった。言い淀んだのが現状の返答になってしまって、伊丹くんの溜息がスピーカーから聞こえた。

「連絡が取れないって、行方不明ってわけですか」

「いや、そうと決まったわけじゃ……」

「早けりゃ早いほどいいんです、こういうのは」

 少し怒った様子で伊丹くんは言った。

「帰省の件も嘘ですか」

「それは、分からないけど、多分」

 また大きな溜息が吐き出された。

 友人が行方不明届を出すことはできないらしく、宍戸の実家に連絡を取ってくれると伊丹くんは言った。

「伊丹とは居酒屋で出会って、精神科から行方不明だと。これで全部ですか」

「それと一度、電話がかかってきて、それっきり」

「分かりました。宍戸の親には何としてでも行方不明届を出させます。もしかすると祐未さんも呼ばれるかもしれませんから、お願いします」

 伊丹くんが頼りになるのは知っていたが、これほどとは思わなかった。

「ありがとう、伊丹くん。連絡待ってるから、よろしくお願いします」

「いいんです。宍戸には用がありますから」

 伊丹くんは小さな声で言う。淋しさとか、心配とかが一緒くたになった小さな声だ。

「そうだ。伊丹くんアマバタ様って知ってる?」

 宍戸から確かめてほしいと言われた物品。アマバタ様なる和綴じの本。些細なことでも手がかりになるかと思い尋ねた。

 伊丹くんは何も言わない。何か言葉にしようとして、うまくできなかった声が聞こえた。

「冗談、じゃないですよね」

「ど、どういう意味?」

 伊丹くんは子供を叱るように言った。なぜ伊丹くんの態度が急変したのか分からない。だからアマバタ様の説明をするのが怖かった。この本は伊丹くんと宍戸の間で何かひと悶着あった忌みものなのではなかろうか。

「宍戸はいなくなってる、そうですね」

 伊丹くんの強い口調に私は頷く。しかし電話だったのを忘れていて「はい」と慌てて言った。

「分かりました。じゃあ後ほど」

 そして電話は切れた。結局、アマバタ様の説明もできなかったし、アマバタ様について聞くこともできなかった。

 その日の午後、伊丹くんに呼ばれ警察署に出向いた。警察署の待合室に伊丹くんと初老の男女がいた。すぐに宍戸の両親だと分かった。母親のほうは手揉みして、気を揉んでいるようだった。父親のほうは怒っているように見えた。親御さんも宍戸と連絡はつかなかったようだ。

 父親は伊丹くんに「本当に出さなきゃいけないのか」と、さも大儀そうに言った。伊丹くんは「出さないで勝手に後悔するのはいいですけど、俺とか祐未ゆみさんを巻きこまないでほしいんですよ」と、さも嫌味ったらしく言った。父親はふんと鼻を鳴らした。

「ちゃんと電話して確認しておくんだった」

 伊丹くんが悔しそうに呟いた。

 十二月十七日、午後三時四十六分。煩雑な手順もなく、精神病の気があることもあって、簡単に行方不明届は受理され、捜索がすぐに開始されることとなった。

 届け出が出されてから、尋ね人が見つかるのは当日が一番多いという。

 それから三日経っても、宍戸は見つからなかった。


 ●


 目が覚めたのは昼過ぎだった。何かできることはないかと思って、何もできないことに気づく。じっとしていられなくてパソコンを開く。読みさしだった論文を読むことにした。しかし宍戸のことが気になって、頭に入って来なかった。

 数ヶ月会わないことだってあったのに、こうも目の前からいなくなられると嫌な想像や、ともすると酷い妄想をしてしまう。

「あぁ」

 自室でひとり、小さく声を出す。それで思考はリセットされなかった。

 気がどうも晴れないので、外に出ることにした。相変わらず寒く、ファーのついたダウンジャケット着込んだ。上着を選んでいるときに、宍戸に貸したロングコートのことを思い出した。宍戸に会わなければいけない理由が増えた。

 トートバッグにノートパソコンや財布や例の本を詰めて、大学に向かった。どこか楽しい場所とも思ったが、何も思いつかなかった。自然と足は大学へと向いていた。

 バスに乗り駅へ、そして電車で大学の最寄りまで行く。移動中、ぼーっとしてはスマートフォンを確認するのを繰り返していた。伊丹くんからの続報、宍戸からの連絡。私にはそれらを待ちわびることしかできなかった。

 電車は止まり、私は改札を抜ける。歩いて数分。大学の裏手から敷地に入り、ゼミに寄ってゼミ生や教授に挨拶をする。レポートに追われる後輩をからかってゼミを後にした。

 そのあと購買に朝ごはん兼昼ご飯を求めて、そぞろに歩いた。ゼミを出て一度、建物の外に出る。ゼミは大学裏手の林の中にある。これは私の所属するゼミだけで、なぜか隔離されている。林を抜けて構内の舗装された道に着地し、そのまま歩いてサークル棟に入る。掲示板のある長い渡り廊下を抜けて、本棟に入る。すぐのところに購買がある。

 購買でペットボトルのメロンソーダと揚げパンとサラミを買った。袋はもらわないでバッグに詰めた。私は主食が甘いものでもいける口だ。サラミはどうせしょっぱいものが食べたくなるから買った。

 食堂に向かうと、昼食時を過ぎて閑散としていた。いくつも並ぶ机のひとつを囲んで、三人組の生徒が静かに談笑している。その他はぽつぽつと、ひとりの生徒がパソコンをいじったり、本を読んだりしていた。

 人から間隔を取るように席を選んで座った。揚げパンの袋を開けて、砂糖がこぼれ落ちないように注意して食べる。しかし無駄な抵抗というもので、あえなく砂糖は机にこぼれてしまう。ウェットティッシュをバッグから取り出して机を拭いた。もう一枚取り出して、机に敷いて揚げパンを食べることにした。

 揚げパンを食べ終わって、サラミを噛みながらパソコンで論文を眺める。やはり内容が頭に入ってこない。揚げパンも甘くなかったように思える。サラミだって美味しくなかった。

 伸びをして切り上げようと、まわりを見ると見た顔が食堂にいた。さかきちゃんだった。

 遠くの机で、見知らぬ女の子と向かい合わせに座り、ころころ笑って楽しそうにしている。

 話を聞かないではいられなかった。

 パソコンをバッグにしまって立ち上がる。使ったウェットティッシュをゴミ箱に捨てて、榊ちゃんの座る机に近づいた。

「あ、えっと。祐未先輩? こんにちは」

 榊ちゃんは私のことを忘れていたのか、それとも驚いたゆえか、私の名前に疑問符をつけて呼んだ。

「こんにちは、榊ちゃん。隣、座ってもいい?」

 榊ちゃんは困惑しながらも席を勧めてくれた。

「お久しぶりです。祐未さん。変わらず元気にお酒呑んでますか?」

 榊ちゃんは完爾と笑う。それに笑い返す。

「まあ、そだね。呑んでるよ」

 言い淀んだのは宍戸がいなくなってからというもの、アルコールからは距離を置いていたからだった。宍戸がいなくなって四日。四日のあいだ酒を呑まないというのは、ここ数年の私にとってはありえないことだ。酒を呑んでは自由に動けなくなるから仕方がないのだが、そろそろ気苦労に耐えかねて酒に逃げたくなる頃でもあった。

「こ、こんにちは」

 向かいに座る女の子は背筋をピンと伸ばして、緊張した様子だった。黒髪で、ストレートのミディアムボブだ。緊張で小っちゃくなっているのと裏腹に、黒髪か凜としていて格好よく感じる。

「はじめまして、秋田祐未って言います。よろしく」

 できる限り緊張させないように、フレンドリーを心がけた。その横で榊ちゃんが秋田って苗字だったのか、と言いたげな顔をした。私の悪名は知れ渡っているらしいが、苗字はあまり知られていないのかもしれない。

上野咲うえのさきです。よろしく、お願いします」

 咲ちゃんはぺこりと頭を下げる。その動作は可愛かった。

「何か用事がありましたか?」

 私から何か察したのか、榊ちゃんのほうから話を切りだしてくれた。宍戸のことを聞きたかったのだが、包み隠さず言っていいものか、不安がよぎった。まだ本格的な行方不明と決まったわけではない。数日、大人がいなくなることくらいある。ないかもしれないが、別にいなくなったからといって死ぬわけではないのだ。

 だから宍戸とはどうだいと、お節介で迷惑な先輩みたいに聞くしか良い方法が思い浮かばず、自分を茶化すような言い方しかできなかった。

 榊ちゃんは顔を曇らせて、チラッと咲ちゃんのほうを見た。咲ちゃんはキョトンとしている。それを確認したかと思うと、軽く笑い飛ばすように口を開いた。

「宍戸さんとはそんなのじゃないですよ。二ヶ月くらい会ってもないですね」

「そっか」

 榊ちゃんが何かしら知っていることを期待を特別していたわけではない。けれど落胆はあった。そして朗らかに私のお節介を流してくれたのは本当に助かった。心の底では嫌な顔で敬遠されている可能性も否定できないが、それはそれで仕方のないことだ。

「祐未さんが心配するようなことは何もないですよ」

 まさかとは思ったが、私は榊ちゃんにあらぬ勘違いをされているようだ。否定するのも馬鹿馬鹿しい。というか否定するのが面倒くさい。しかしどうしたものか。宍戸の耳にこのことが入ったら、もっと面倒なことになる。

 考えあぐねた結果「冗談キツいぜ」とキツい台詞でやり過ごした、ことにした。

 それから他愛もない会話をした。咲ちゃんは事故にあって、今はリハビリを兼ねて大学に通っているらしい。健気さに心打たれて、少し目が潤んだ。

「そういや二人とも、午後の講義はなかったの?」

「サボりました」

 咲ちゃんが縮こまって言った。しかし顔には笑みが浮かんでいた。

「不良だ」

「ふふ」

 私の指摘に、榊ちゃんは静かに笑った。

「不良ごっこです。思い出づくり、みたいな」

 咲ちゃんは恥ずかしそうにモジモジしている。微笑ましかった。榊ちゃんを見ると目をしばたたいて、瞳に涙を湛えていた。

「だ、大丈夫?」

 あわあわしていると、申し訳なさそうに榊ちゃんは鞄からハンカチを取り出して、目を押さえた。

「涙もろすぎだよ」

「ごめん、はは」

 咲ちゃんと榊ちゃんのあいだだけで通じる何かがあって、私はその領域に踏み入ることはできなかった。なぜ榊ちゃんが泣き出したのか気にならないわけではない。しかし聞いてしまっては、人として駄目な気がした。

 その流れで私は居たたまれなくなって、その場を後にしようと思った。良い気晴らしになったと、実感できる時間だった。

「あ、そうだ。二人とも、これ知ってる?」

 最後に、ダメ元というか、伊丹くんに深く聞けなかった影響で、二人に例の本を見せることにした。

「なんです、これ」

 机の上に出された古ぼけた和綴じの本を二人は覗き込む。

「ううん、なんというか、見覚えがなければそれでいいんだ」

「なんて書いてあるんです?」

 本をしまおうとすると榊ちゃんが言った。

「アマバタ様、じゃない?」

 私が分からないけど、と前置きを口に出そうとしたとき、咲ちゃんが言った。キョロキョロと私と榊ちゃんの顔を見て、正解かどうか自信のなさげにしている。

「ぜ、全然読めなかったよ」

 榊ちゃんが白々しく言った。その白々しさには焦りのようなものが見えた。

「ねえ、これって……」

「上野ちゃん、私ちょっと用事があるんだ。着いてきてくれる? では先輩、また」

 様子がおかしかった。席を立って咲ちゃんの腕を引き、この場を去ろうとする。明らかに先ほどまでの榊ちゃんではない。この場から逃げだそうとしていて、それを隠そうともしていない。

「えっと、そうだね。分かった。けど、その前に連絡先、交換しませんか」

 榊ちゃんの様相に、咲ちゃんは目をぱちくりさせて当惑していた。私も戸惑っていると、当惑する咲ちゃんから連絡先交換の提案がなされた。状況が飲み込めていないのに話しかけられたので、返事をするまでに妙な間が開いた。

「え、あ、うん。そうだね、喜んで」

 咲ちゃんが私をまっすぐ見る。その後ろで榊ちゃんが眉を顰めていた。睨まれつつ、連絡先を交換する。ついでに榊ちゃんとも交換した。

「それじゃあ、また」

「う、うん、またね」

 榊ちゃんにぎこちなく返事する。私は何か言ってはいけないことでも言ってしまったのだろうか。また榊ちゃんは咲ちゃんの手を引っ張って、立ち上がるよう訴える。

 すると咲ちゃんが立ち上がり際に、囁くように言った。

「あとで連絡します」

 きっと榊ちゃんには聞こえていなかった。黙って二人の背中を見送った。

 外に出てても気晴らしにはならないことが実証された気がした。榊ちゃんへの釈然としない感情と、宍戸のことを抱えて家に帰った。

 家に着いた途端、身体からドッと疲れが流れ出した。徹夜の影響だ。シャワーを浴びて気絶するみたいに眠った。


 ●


 目が覚めると外は明るかった。帰宅したのは夕方だったから、優に十時間以上眠っていたらしい。スマートフォンで時間を確認すると、メールが届いていることに気づいた。

 榊ちゃんからで「今日はすみませんでした。詳しいことは言えませんが、アマバタ様の話題は控えていただきたいです。特に上野ちゃんの前では。だから、あの本のことも詳しく聞きません。よろしくお願いします」と、こんな内容だった。

 アマバタ様とはいったいなんなのか。宍戸と榊ちゃんの間に何かあったのか。咲ちゃんの前では、つまり咲ちゃんとも何かあったのか。いや、それより宍戸の行方が一番の問題ではないか。それともアマバタ様が失踪の原因なのか。

 宍戸の行方の手がかりが全く見つからず、考えはありえない方向へと向いてしまう。

 ともかく、アマバタ様と榊ちゃんと咲ちゃんへの詮索はしないほうがいい、と結論を出して妙な思索を閉じた。

 榊ちゃんに分かった、とメールを返す。もう一通、メールが届いていた。咲ちゃんからだった。

「今度、お話しできますか? あの本のことで」

 短く、そう書かれていた。榊ちゃんと咲ちゃんの間で、食い違いがあるのだろうか。詮索はしないと決めたのに、もう心が揺らいでいた。

「ぜひ! いつがいいかな? そっちに合わせるよ」

 気づけば、そう返信していた。

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