十九頁目

 宍戸ししどのアパートにはバスで向かい、十七時を回ろうとする頃に着いた。空は茜色から暗くなり始めて、冬の日の短さが顕著だった。宍戸から連絡はまだこない。心配だが、病院にいるのだし、じきに連絡が来るだろう。

 アパートは二階建てで、錆びた外階段が前面に見える。宍戸の部屋は道路に面した一階、一○一号室にある。鍵は渡されていた。

 ドアの前に立ち、開かないと分かっているのにドアをガチャガチャとしてみる。やはり鍵がかかっていて、ドアは開かなかった。

 暗くて鍵穴に鍵を差しかねていると、隣人がぬるりと部屋の中から出てきた。それは伊丹いたみくんだった。

「えーと、こんばんは。伊丹くん」

祐未ゆみさん? 何してんですか」

 伊丹くんは最初、私が誰なのか訝って目を細め、暗闇の中の私と記憶の私と同定をして、目を見開いて困惑した。

「宍戸に頼まれごとをされてね」

「帰ってきたんですか、宍戸」

「えっ?」

「実家に帰省してるって聞いてますけど、鍵も持ってるようだし、帰ってきたんでしょ?」

 私が返答に窮していると「まさか合鍵ですか」と半分本気のトーンで伊丹くんは言った。

「ま、まさかあ。そのう、なんだ、宍戸に口止めされててね、詳しいことは言えないのだ」

 私は苦しく笑って誤魔化せたか、伊丹くんの顔色を窺った。しかし、そうこうしているうちに日が完全に落ちてしまって見ることができなかった。

「そうですか……宍戸は元気でしたか」

 優しい声がする。その声に少し戸惑った。

「どうかした?」

「いや、宍戸の様子が変だったので、いなくなってから心配してたんです。連絡は来ましたけど」

「ふふ、元気だったよ」

 嘘を吐いたつもりはなかった。でも嘘なのに違いはない。でも伊丹くんの宍戸への気持ちが、なんだか嬉しくて、むず痒い暖かさがあって、本当のことは言えなかった。嘘はきっと、人の悪いところから生まれたものではなくて、善い部分から生まれたものなのだろう。

「伊丹くんはどこに行くの?」

「コンビニに酒を」

 適当にまたねとか、なんとか言いあって、伊丹くんはコンビニに歩いていった。

 本格的に暗くなってしまって、手元はほとんど見えなかった。スマートフォンのライトで手元を照らす。やっとのことで鍵を開けた。

 部屋は暗く、何も見えない。照明のスイッチはどこかと、壁をさする。しかし見つかりそうもなかったので、ライトの明かりだけで探すことにした。

 ライトを正面に向けると、すぐに布団は見当たった。敷き布団だけあって、掛け布団は近くにはなかった。布団の横にライトを向けると、ローテーブルがあった。その上には食器や空き缶などが雑然と置かれている。宍戸はミニマリストで、綺麗好きなイメージであったから、少し意外だった。この惨状はおかしくなっていたからかもしれないけど。

 それ以上は物色しなかった。ライトで場所場所を照らして見るのは、それこそ物色しているのに違いなくて、やってはいけないことをしているように思えた。

 靴を脱いで部屋にあがる。布団の横にしゃがんで、盛り上がっているところを手で確かめてみた。固い何かが布団の下にあるようだった。スマートフォンを床に置く。ライトが天井を照らした。そして布団の下のものを取り出す。

 手触りでそれがなんなのか、すぐに分かった。ざらざらとした感触が現代のものに感じられなかったが、それは確かに本だった。スマートフォンで中を見るにも、それでは片手が塞がってしまって面倒で仕方がない。だからひとまず、外に出ることにした。

 外に出て本を小脇に挟む。ドアの鍵穴をライトで照らす。そして鍵を閉めた。

 伊丹くんはまだ帰ってこないようだった。また顔を合わせても話せることはないし、気まずくなるのが目に見えたので、そそくさとアパートを立ち去った。


 ●


 帰りのバスの時間が差し迫って、バス停まで走る。どうやら間に合ったようで、バス停の前で肩を上下させていると程なく、バスが私の目の前に停車した。時間は十七時三十分。宍戸のアパートには二十分もいなかったことになる。

 時間的にもバスは社会人の草臥れた顔が詰められていると思ったが、案外空いていた。座席がところどころ空いていて、私は最後部の四人掛けシートの端に座った。反対側の端に知らぬ人が座っている。高校生に見える。

 車内は活字を読むには目が疲れる光量だった。しかし表紙を読むのは造作もない。

 宍戸宅から持ち出した本は和綴じで、表紙には幽霊に見える不気味な女性が墨で描かれていた。そして崩し字で何か、おそらく本のタイトルが左上に書かれている。

「私は理系なんだけど」

 走行音にかき消され、独りごちた声は誰にも聞こえなかったと思う。

 解読を試みているとブーッとスマートフォンのバイブが鳴った。画面には宍戸の名前があった。

「宍戸、大丈夫だったか」

 ひそひそ声で運転手に怒られないように話す。二年ほど前、酔って騒いでいたら、怒り心頭に発した運転手に恐怖だけ植え付けられ、記憶は吹き飛ぶ説教をされたのがトラウマだった。今回は電話しなければ済む話だが、宍戸からの電話ではそうはいかなかった。

「はい。結果は後ほど、落ち着いてから……」

「そうだね、宍戸。あと言い忘れてたんだけど、私の家に集合でいいからね。とりあえず、今日も泊まっていっていいからね」

 宍戸は黙って、なにやら断られそうな雰囲気を感じたが「お言葉に甘えます」と重々しく聞こえた。気負い過ぎだと言ってやりたかったが、バスの運転手に睨まれているような気がして、話を長引かせるのは憚られた。

「それで、用があったの?」

「はい……その」

 口籠もるところを見るに、今夜の宿泊先についてのことだったのかもしれない。噛み合わないコミュニケーションが歯痒かった。

「ありましたか。モノは」 

 宍戸は気を取り直して、頼み事の成果を確認してきた。私は「あったよ」と言って、どんなものだったかの説明をする。

「それは、また、後で」

 宍戸は慌てて私の説明を遮った。本と言いたかっただけなのに、それさえも言うことが許されなかった。

「そう? 分かった。私の家には辿り着けそうかな」

「はい。それは問題ないです」

「それじゃあ、切るね。また後で」

「はい。また」

 通話は切れた。運転手には怒られなかった。

 また本を眺めてみる。読めそうにはなかった。しかし多分、日本語のわけだし、要素を組み合わせて文字の推測ができるかもしれない。漢字の読み方がフィーリングで分かることがあるように。

 ためつすがめつ、表紙を眺めていても埒があかない。パラパラとページを捲ってみる。文字はなく、絵本のように墨で絵が描かれている。女の幽霊に男が呪われて、なんやかんやとされているように思われた。ちゃんと見れば、また違うのかも分からない。

 表紙に戻って、再度解読を試みる。

「あっ」

 喜びと驚きの混じった小さな声をあげる。表紙の文字は漢字でもひらがなでもない。カタカナであった。

「ア、マバタ」

 そう書いてあるのが分かった。

 何となく、最後の文字は「様」である気がした。


 ●


 家には十九時頃に着いた。家の前にも、中にも、どこにも宍戸の姿は見当たらない。連絡もつかなかった。

 一人の自室に、古ぼけた本だけが残された。

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