十八頁目

 起きて私が最初にしたことは声を小さくあげることだった。無理な体勢で眠っていたので、左手が痺れた。それが辛くて「うう」と小さく口から漏れた。

 身を起こして次にしたことは、もう少し大きな声をあげることだった。自分の部屋に誰かがいる。いつもと違う光景に「わっ」と驚いた。しかしすぐ思い出して、起こさなかったかと息を殺した。宍戸ししどは身じろぎをしたが、起きそうにはなかった。

 スマートフォンで時間を確認すると、午前一時だった。何時に家に帰ってきたのか覚えていないが、三時間も眠っていないのではなかろうか。

 欠伸をする。喉が渇いたのでキッチンに飲み物を取りに行く。宍戸を起こさないように抜き足差し足で部屋を出た。部屋の外は冷え冷えとしていて、身震いした。廊下に出てからは多少雑に歩いた。居間を通り、廊下に出る。先にトイレに行って、キッチンに向かった。

 冷たい水で手を洗うと、目が覚めた。けれど目を覚ましたいわけではなかった。冷たくて、むしろ痛い。

 冷蔵庫を開けると炭酸飲料の二リットルペットボトルが入っていた。多分、弟のものだろうけど、文句を言われたら買ってくればいいと栓を開けた。コップに注いで、飲み干した。寝起きに炭酸を飲むのは、なんというか、気持ちがいい。そしてもとに戻した。

 麦茶の入ったピッチャーと別のコップ二つを盆に載せて、部屋に戻った。両手が塞がっていたので、ドアを開けるのに少々手間取った。

 部屋に入って、机のほうに盆を置いた。宍戸はまだ起きていなかった。当然と言えば当然だが、正座と寝にくいであろう姿勢でよく寝続けられるなと感心した。

「んん……」

 やはり寝にくいのか宍戸が身じろぎをした。かかっていた毛布がずり落ちた。私がそれを直すと、また身じろぎして宍戸は目を覚ました。

「うう……ぐぁ……」

 宍戸はローテーブルに突っ伏していた身体をもたげると、苦しそうに正座で折りたたまれていた足を伸ばした。

「ふふ、痺れた?」

「あぁ……はい」

 宍戸のほうはしっかり私のことを覚えていたようで、私の問いかけをスムーズに答えた。

 しばらくして、宍戸の足の痺れも取れたらしい。宍戸は麦茶を受け取って、グイッと一気飲みした。そしてトイレはどこかと聞いてきた。脱衣所にあるドアがそうだと答える。

「ついていこうか」

「一人で問題ないです」

 間が開いて(逡巡だろうか)宍戸はそう答えた。トイレに行くのに宍戸がどんな不安があったのか、邪推してしまう間だった。

 戻ってくるまでに座布団をテーブルを挟んだ向かい合わせに敷く。片方に正座で座って毛布を畳んだ。

 宍戸は戻ってくると畏まって、もうひとつの座布団に座った。

祐未ゆみ先輩。本当にありがとうございます」

 そして恭しく頭を下げて、数秒間そのままだった。

「別に、いいんだよ」

 頭をあげた宍戸の顔を見て、私はなんだか照れくさくて仕方なかった。

「まだ、寝るかい?」

 宍戸は首を横に振って「いいえ」と言った。

「なら、特製の夜食を振る舞おう」

 宍戸は表情を明るくした。けれど口では「ありがとうございます」としおらしく言った。人間、少しでも大人になると喜ぶことすらままならなくなるから、イヤなものだ。

「私の手料理がそんなに嬉しいか」

 私がおどけても、宍戸は低頭するばかりだった。

 私が立つと、宍戸は手伝うと言ってキッチンまでついてきた。

 手料理と言った手前、宍戸は何か手の込んだものや家庭的なものを思い浮かべた、かもしれない。けれど私は料理ができない。まるで。

「インスタントラーメンを作る。湯を湧かすのだ、宍戸助手」

 宍戸に「イメージ通りです」とか「流石、先輩」とか言ってほしかった。しかし宍戸は「楽しみです」と鍋に水を汲みながら、朗らかに言うだけだった。

 湯がふつふつと沸いて、袋麺をふたつ開け入れた。塩ラーメンだった。麺が茹で上がるまで時間があったので、薬味にネギを切った。麺が茹で上がって鍋にスープの粉を入れる。どんぶりに二等分する。宍戸のほうを少し多めにしてやった。

「ネギ、入れちゃっていいか?」

 宍戸が頷いた。

 割り箸を二本持って、片方のどんぶりを宍戸に持たせた。私もどんぶりを持つと少し熱かった。けれど我慢できないほどでもなかった。

 部屋まで戻って、二人で麺を啜る。

「うまいか?」

 宍戸はこっくりこっくりと頷いて、麺を美味しそうに噛んでいた。そしてポタポタと涙を落とした。

「お、おい、どうした。そんなに美味しかったか? ただの袋麺だぞ」

 二度目の涙でも私は慣れず、おどおどして手をあたふたさせた。

「美味いです」

 宍戸はそう言って、麺を啜る。私は黙って麺を啜った。


 ●


 空のどんぶりがふたつ、テーブルの上に並ぶ。宍戸は慇懃に「ごちそうさまでした」と手を合わせて言った。

「それで宍戸。その、いったいどうしたの」

 お腹も満たされたことだし。そんな思いで話を切り出したのだが、どう言うか決めていなかったので、なんとも下手な切り出しかたをしてしまった。

 宍戸は黙って、正座した膝の上に手を置いて動かなかった。俯きがちに空のどんぶりを見ていた。おかわりがほしいわけでないのは確かだった。

「先輩、実は」

 宍戸はふっと顔を上げ、とつとつと語りだした。


 ●


 僕は頭がおかしいんです。いつからか明確には言えませんが、幻覚を見るようになったんです。それで外に出るのが怖くなったんです。見えている世界が本当なのか幻覚なのか、分かりっこないじゃないですか。でも家にいるのだって怖かったんです。ずっと何かが僕を見ているんです。

 数日、多分二週間くらい家に籠もりました。結局、食べ物がなくなって、どうにもならなくなって、家を飛び出て、それ以降家には戻ってません。“奴”がいるって考えると、もう近づけもしませんでした。

 もちろん、実家に逃げ込もうとも考えましたが、両親に合わせる顔がなかったんです。だって帰ってきたと思ったら、妄言ばかり吐いて、頭がおかしくなってるなんて、無理です。

 それでネットカフェとか公園とか、色んな場所を転々として過ごしました。お金はバイトしてたときの貯金があって、それを。

 自分でもこんなことしてるのがおかしいって分かってるんです。でも分からないんです。どうすればいいのか。

 先輩が現実なら。先輩、助けてください。


 ●


 おそらく、宍戸の本当の気持ち。真に迫るものがあって、鬼気迫っていて、切実なのが分かった。話はもっと詳しく聞かなければ分からない。けれど彼の見ている幻覚が、人に頼ることとか、正常な判断とかをできなくさせていたのだと思う。

「私にできることなら、何でも協力するよ」

 気づけばそう口にしていた。宍戸を憐れんだり同情の気持ちほあった。けれど、それよりも宍戸がまだ人を頼れる段階で出会えたことに、歓びのような安堵のような気持ちがあった。宍戸も私の答えに顔を晴れやかにした。

「でも宍戸。ひとつ言わせてくれ」

 宍戸は真剣な顔をやめずに、私の目を貫くように見た。それに答える。

「病院へ行こう。たぶん、それが一番いい」

 宍戸は静かに頷いた。ホッとした表情をしていた。

「なんだったら一緒について行ってもいい。明日、日を跨いでるから今日か。今日でもいいし、そうしよう」

 宍戸はまた深く頷いて泣きそうになっていた。

 シャワーを浴びていないことを思い出して、急に身体がべたつく思いがした。宍戸に断って、バスタオルや洗顔フォームや、ジャージ以外の寝間着として使えそうな服が入ったかごを持って部屋を出た。

 今の宍戸なら、少しくらい一人にしても問題ないだろう。


 ●


 宍戸と朝まで他愛のない話をして過ごした。好きな食べ物とか好きな酒とか。宍戸が牛丼を紅ショウガで赤く染めることに反対してきたので、紅ショウガ丼の美味しさを熱弁したのだが、よく伝わらなかった。それで牛丼を食べに行く約束をした。もし紅ショウガ丼が美味しくなかったら奢る約束だ。

 カレーの福神漬けは甘いのかしょっぱいのか。断然、甘いのがいい。これは合意が取れた。

 酒に関して、私は日本酒とか焼酎がいいと言うと、宍戸はなんだか色んな洒落たカクテルの名前を並べた。

「普段呑むなら、贅沢言わないので発泡酒で十分です」

 宍戸はそう付け足して、鼻につく感じを低減しようとしたが、あまり効果はなかった。

「そういえば彼女とはどうなんだい?」

「彼女、ですか」

「ほら、さかきちゃん、って言ったっけ」

 ぐだぐだと話し続けて、私はかねがね気になっていたことを聞いた。踏み込んだつもりもなければ悪気もなかった。でもそれがよくなかった。宍戸の顔は曇って、押し黙った。陽気に話していたわけではないが、様子はさっきまでと違うものになっていた。

「榊さんとは、何も」

 触れてはいけないものに触れてしまったと、気づいたときには遅かった。軽率だったと謝るにも謝ることのできない、いかんともしがたい空気が立ちこめた。謝ってしまっては、宍戸の否定を否定することになる。

「そっか」

 私は空調の音だけに耐えきれなくなって、当たり障りのない返事をするしかなかった。

 朝の六時頃になって、ようやく眠気がしてきて眠ることにした。宍戸は座布団を枕にして、毛布一枚で眠ることになった。私が床で寝てもよかったのだが、それでいつも私が使っているベッドを宍戸に貸すというのは、禁忌感があったので言い出せなかった。誰かと歯ブラシを共有するような、そんな感覚は確かにあった。私はそれでも、貸してよかったのだけど、宍戸は目を閉じて、もう目を開きそうになかった。

 部屋を暗くして、私はベッド、宍戸は床で眠る。

 カーテンが透けて、外が明るいのが分かった。


 ●


 目が覚めたのは正午のあたりで、すぐに午後になった。カーテンを透ける日光だけで部屋は暗かったが、宍戸の姿がないのが分かった。まさか帰ったわけではあるまいと不安でいると、カチャリとドアを開けて部屋に戻ってきた。

「すみません。ノックすべきでした」

 そう言って宍戸は慌ててドアを閉めて引っこんだ。ベッドの上に座って、服でもはだけていたかと私のほうも慌てたが、シャツは乱れていなかった。

 宍戸を呼ぶと小さく「失礼します」と言って入ってきた。

「どこに行ってたの?」

 欠伸をしながら聞いた。宍戸は座布団を枕から、本来の使い方に戻して座った。

「お手洗いを借りました。断らないで……すみません」

 宍戸の顔は薄暗くて見えなかった。宍戸は部屋に入るときの失敗を引きずって、口をついては謝る機械になってしまっていた。そんな宍戸が妙にいじらしかった。

「別にいいってば」

 伸びをしながら答える。ベッドから降りる。

「待って!」

 カーテンに手を掛けると宍戸が叫んだ。少しだけ開いたカーテンから一筋の光が、私と宍戸を分断するように差し込んだ。

「その、電気の明かりじゃ、駄目ですか」

 声を落として宍戸は言う。私は驚いて身を硬直させていた。

「だ、だって朝、昼だけどさ、えっと……」

 宍戸は薄闇の中で、確かに震えていた。猫みたいに肩を丸めて、悪いことでもしたように小さくなっている。

「あ、開けるのはやめとくよ。眩しいしね」

 私はぎこちなく部屋の壁にあるスイッチを押した。明かりは眩しかった。


 ●


 精神科というと予約の後、数日待って来院するのが多いらしい。しかし近場に当日診療の精神科があって、考えなしに口から出た今日行こうという言葉が、幸いにも嘘にならなくて済んだ。融通が利く病院は好きだ。

 本日、十五時半の予約を宍戸は取った。移動の時間があったので、あまり準備をしている時間もなく、ご飯はカップラーメンで済ませて出発した。私はそれなりにちゃんとした身なりを心がけたが、宍戸は弟が不在で服を借りられなかった。それで私の黒のロングコートを貸して、張り子的ファッションで誤魔化した。

 精神科へは私の家からすぐのバス停でバスに乗り、三十分、そして歩いて五分のところにある。

 住宅街にまぎれるようにその医院はあった。個人医院らしく、儲かっているのか、無関係ながら心配になってしまう。外観も普通の二階建ての家だ。病院っぽく白くして、入り口に緑地に白文字の縦長看板を置き、入り口のドア前に小さな植木鉢が飾られていた。

 予約の時間まで、まだ少しあったが中に入ることにした。しかし入り口の手前で宍戸が立ち止まった。

「怖い?」

 宍戸の背中に手を添える。宍戸は大きく息を吸って吐いた。

「先輩、頼みがあります」

 大袈裟な雰囲気で宍戸は言った。

「なに?」

「僕の部屋に行って、確かめてほしいことがあるんです」

 宍戸はぎゅっと、ショルダーバッグの紐を握った。

「敷布団の下に、あるものがあります。それがあるのかと、それとあったなら何が書いてあったか、確かめてきてほしいんです」

 宍戸は暗い顔で言った。

「あるものって?」

「僕が幻覚を見ていたなら、ないかもしれないし、あっても僕の記憶とは違うかもしれません。だから、何かは言えません。先輩が、その、嘘を吐くかもしれないから」

 宍戸は本当に申し訳なさそうに言った。けれど、それはもっともな意見ではあった。自分でも嘘を吐いてしまうのか、真実を伝えることができるのか、そうなってみなければ分からなかった。だから信用されていない悲しみは飲み込んで、宍戸の申し出を快諾した。

「今行けばいいの?」

「はい。そっちのほうが手っ取り早いと思うんです。でも自分じゃ怖くて……最後にします。お願いします」

「病院は一人で大丈夫?」

「はい」

 宍戸の下宿するアパートの場所を聞いて、それ以上は何も聞かなかった。そして宍戸とは別れた。

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