溶怪

霜月斗(しもつき ほし)

魅了されて

「なんで俺なんだよ…」

そう吐き捨てた声は力無く揺らぎ消えていった。

暗闇が見えた…




照りつける日差しに目を顰め、首元から滴る汗を手のひらで拭いながら、俺は足を進めていた。

都会の夏は暑すぎる。

2023年8月上旬、愛知県名古屋市でサラリーマンとして働いている俺は、取引先との商談の為外回りをしている最中だ。

時間は午前11時、日が一番高く昇る時間帯の為、外気温はピークに達しており、30℃以上行っていると思われる。

ニュースでは35℃以上を猛暑日と言うらしいが、俺からすると都会の夏は毎日猛暑日だ。

オフィスビルに囲まれているせいで熱が逃げない。

ヒートアイランド現象というやつだ。

技術、生活水準の進歩とともに人類は地球温暖化を加速させ、平均気温は年々上がり続け、それと反比例して人間の抵抗力は弱まり暑さにも弱くなっている。

そんな事を皆、心のどこかでは理解しつつも、自分一人ではどうしようもないから、何もしない。

勿論、俺もその一人だ。

そんな事を朝ニュースを見ながらエアコンの冷房が効いた自宅リビングで考えていたが、今は暑過ぎて頭が回らない。

俺の会社ではクールビズを実施している為、出社時はノーネクタイで行けるが、取引先へ向かう時は付ける必要があった。

だから、今はネクタイを付けているが、首元に襟が接触する事で余計蒸れてしまう。

少しだけ指を入れて隙間を作ってみても、一瞬涼しくなるが、ほんの一瞬だけだった。

すぐに開いた隙間に首元の汗が滴となって鎖骨あたりまで落ちていった。

俺は代謝が良い方だからか、よく汗をかいてしまう。

行き交う人々を見ていても皆俺と同じように目を顰めて、暑さに対して険しい表情をしている。

集団心理なのか、皆んなが同じ表情をしていると、空気が澱んで余計暑くなっている気がしてしまう。

そんな澱んだ空気の中を歩いていると、人々が行き交う街で一人だけ表情が違う人がいた。

いや、いた気がした。

男性だった気がする。

いや、女性だったか。

あれ?

人だったか?そもそもいたか?

何を考えているんだ…?


そうだ商談の資料を再確認しておこう。

俺はバックから資料を取り出して、内容を確認しながら、取引先の会社へと向かった。


商談を終えた後、会社へ戻り事務作業を終えて定時の18時に帰宅した。

自宅へ帰ると学校を終えた娘が出迎えてくれた。

俺、真鍋慎二は7年前の27歳の時に結婚して、今は34歳だ。

出迎えてくれた娘の千紗は7歳の小学生だ。

いわゆるデキ婚で、結婚する時には妻のお腹に子供がいて結婚後、すぐに出産した。

そんな娘の後ろから妻の美波も遅れて出迎えてくれた。

美波は俺より5歳年下の29歳だ。


「お帰り!パパ!千紗今日ね、学校で蝉を取ったらオシッコかけられたんだよ!」


千紗が少し目を細めて笑みを浮かべながら、テレビで芸人がネタの最後にオチを言う時のような自信に満ちた声で話しかけてきた。

千紗は結構アグレッシブだから虫も平気で触る子だった。


「それはね蝉さんはびっくりしちゃったからオシッコをしたんだよ」

俺はそう言ったが、専門家でもないから昆虫の生態はよくわからない。

だけど、いつもこんな感じで知ったかぶりの知識を千紗に教えている。

そうして千紗の頭を撫でていると、美波が千紗の発言に少し呆れた表情をしながら言った。


「千紗ね、帰ってきた時服に染みがついてて、なんなの?って効いたらオシッコって言ったからびっくりしたのよ。洗うの大変だったんだからね」


そう言い放ったが、そこには言葉とは裏腹に怒りはなく、何処か健康的で元気な娘に対する愛が垣間見えた。


「パパ、汗かいたと思うから、お風呂先に入ってね」


続け様に美波にそう言われた。


我ながら理想的な家庭を築けていると思う。

たわいも無い会話をしながら俺はそう思った。

世の中色々な家庭があるが、俺は恵まれている方だと思う。凄く裕福なわけでは無いが俺を大学まで進学させてくれる程度の経済力はあり、両親との関係も良好だった。

俺たちが結婚する時は妻の両親含めて、皆祝福してくれた。そして今の所誰も大病を患っていない。


俺は早くこの不快な汗を流したかったので、玄関を上がりすぐにお風呂に向かおうとした。


「はいれ…」

後ろ?いや、前でも後ろでもなく、自分の周りの空間からそう『聞こえた』気がした。

具体的には声でもなくイメージが脳に響く感じだ。


一瞬俺は動きを止めたが、目の前にいる千紗が不思議そうに俺を見ていたのが目に入った瞬間、脳に届いていたイメージが消えて、忘れた。

俺は普通に戻った。


いつも通りお風呂に入り、食事をして、家族でテレビを見ながら、23時に就寝した。


次の日も、次の日も、1週間後も1ヶ月後もそうして

たわいも無い生活を続けた。

たまに変な声のイメージが『聴こえる』けど。

すぐに忘れた。


どこからだろう、1日がこんなに短く感じるようになったのは?

仕事をしているからなのかもしれないが、それにしてもおかしい気がする。

朝6時に起きて夜23時に寝るまでの約17時間の活動の中で体感4時間程度に感じていた。

今までは仕事もしているし、12時間程度のイメージだったが…


そう考えていたことも次の瞬間には忘れていた。


そうして来る日も来る日も考えては忘れて考えては忘れて、溶けて、溶けて、自分が溶けていく。

恐怖はない、不安もない、あったのかもしれないが、なくなる。


今はこっちにいる時間の方が長い。

ある時を境に逆転した。

逆転したことで忘れていたイメージを思い出せたがもう遅いとわかる。

「なんで俺なんだよ…」

こっちにいる時はいつもそう思っている。

自分の感情が欠落し始めているのがわかる。

溶けていく…

自分が今置かれている現状に気付いた時には既に助けて欲しいとも思えなくなっている。

抗う心が溶けるから、入っていくんだ。

あとどれぐらい皆んなと会えるのだろうか?

そんな事を考えながら、見渡す限りの暗闇で終わりの時が進み続けた。

常世へ溶けていく…


俺の中でまるで小説家のように自分語りをしている男がいる。

この目の前にいる美波と千紗が俺の家族だ。

あぁ、幸せだ。

幸せをありがとう。

早く全てが欲しい。

あと少し、あと少し…

うつし世へ溶けていく…











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溶怪 霜月斗(しもつき ほし) @haruton1998

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