碌でなし

一齣 其日

碌でなし

 興奮は未だ冷めやらない。

 熱い論舌で鎬を削り合った後の夜道は、春がもうすぐ訪れようとしているのにどこか肌寒くさえあった。

 口だけで道着も肌に張り付いてしまうほど汗が湧く熱気の中にいたのだ、夜風が冷たく感じるのも無理はないのかもしれない。

 だが、三原の熱く盛る胸の内を冷ますほどのものではない。

 厚い胸を張りどっしりとした大股で歩く姿は、内にぐつぐつと熱火を滾らせている様だった。

「昂るなぁ、才蔵」

 そう呟いた三原の口角は、自然と上へと吊り上がってしまっていた。

「やっと京に上れるぞ」

「ええ。私も胸が躍ります、三原さん」

 隣を歩く才蔵が三原に答える。

 言葉とは裏腹に平坦な語気である。

 それに三原が口を尖らせた。

「もうちっと熱いものがないんかね、才蔵よぉ。他の連中なんかみろ、先に京に上った攘夷派連中の活躍を聞いて我先に、と逸る奴らばかりだぞ」

「だから、私はこれでいいんですよ。周り皆が熱い奴らばかりじゃ、先行きが不安でしかない」

「そういうもんかねえ」

 大きな掌でワシワシと髪を掻き上げながら、三原は上を向く。

 幾つもの光が瞬く星月夜だった。夜歩きのついでに眺めるにしては、上等の肴である。

 ただ、こうやって呑気に夜空へと現を抜かすには、この世はいささか不穏が過ぎた。

 文久三年二月──ここ江戸から遠い京の都は、動乱が激しい渦を巻いている。

 長州、薩摩をはじめとする様々な藩の大物が京に上り、それぞれ尊皇攘夷という大義の元、活動を始めていた。

 中には朝廷の公家連中と繋がりを持ち、内部工作を進めている者もいる。今年三月、将軍徳川家茂公が上洛し帝に謁見することになったのは、その行動の成果であるとも言えるだろう。

 三原と才蔵も、彼らと同じく尊王攘夷の志を胸に抱く若者だ。今日まで道場で剣腕を磨き、国の行く末についても道場に集った同志たちと共に熱い議論を重ねてきた。

 時間はかかったが京に上る算段もつき、いよいよ尊王攘夷の旗の下行動を起こそうとしている。

 ついに動乱の渦中に飛び込むのだ、三原の熱気も当然といえば当然の心情だった。

 しかし、だ。

「正直、やっぱ出遅れた気もしちまうな」

 三原は歯噛みする。

 既に、多くの若者が京で活躍している。早い者だととっくに脱藩して随分前から地道に活動して名声を得た者もいた。

 江戸で燻り過ぎてしまっていたのかもしれない、という念を三原は拭い切ることができていなかった。

「そんな事はないです、三原さん」

 才蔵がピシャリと悔いを切るように口を開く。

「知っているでしょう、去年薩摩藩に起きた事件のことを」

「──寺田屋か」

「ええ」

 寺田屋騒動──文久二年、薩摩藩父島津久光公の上洛に合わせて決起しようとした薩摩藩士が、同じ薩摩藩士に決起を止められた末刃傷沙汰となった事件である。

 尊王攘夷の旗の下、久光公が上洛したのを機に倒幕の兵を挙げようとした若者たちに対し、久光公は公武合体を推進して幕府を建て直そうとしていた。過激派の逸りが起こしてしまった悲劇だと言えよう。

 今にもそんな京に上ろうとしていた三原を止めていたのが、誰であろう才蔵だった。軽挙妄動をしては、命を無駄に捨ててしまうと考えたからだ。

「三原さん。貴方のやろうとしてることは間違いではない。でも、熱くなりすぎるとあの寺田屋の薩摩藩士の二の舞になります。そんなことで、私は貴方を失いたくはない」

 物怖じしない眼光で、才蔵は三原を見る。

 三原は、その眼差しに息を呑んだ。

 真っ直ぐに軌跡を描いて飛んでいく矢のような、ひたすらな覚悟がそこにはあった。

「──ですがまぁ、もうすぐ将軍も上洛なされる。潮は我々尊攘派に向かいつつある。今なら、私ももう止めはしません、三原さん」

 才蔵の表情が、ゆるやかに和らいだ。

「才蔵──」

「貴方は度量が大きい人だ、三原さん。だから、今夜のように汗をかいて賑わうことができるほどの同志を集めることができた。資金も十分。これだけの同志を引き連れて京に上れば、貴方も尊攘派の大物に一目置かれることになるでしょう。江戸にいた時間は決して無駄ではありません」

「……言うねえ。そんな褒めたって何もでやしねえってンでえ」

 三原は、照れくさそうに顎を掻く。

 昔からこの男は照れると顎を掻く癖があった。愛嬌がよく出ている。彼の愛嬌の良さに惹かれた同志も多い。

 かくいう才蔵も、三原の剣腕、胸に抱く熱い心だけでなく、愛嬌の良さにも心を奪われた者の一人である。

「ありのままを言っただけです。それに、私もそろそろ京に上りたい。色んな人と出会って、知見や見識を広めたい。その上で私は私なりに成すべきことを見極めたいんです、三原さん」

「いいことじゃあねえか、才蔵よ」

 大きな掌が、ほそっこい才蔵の背中をバンと叩く。

 あまりの強さに、肺から呼気が吐き出されるほどだった。

「加減できないですね、相変わらず」

「こりゃすまんて。でもな、お前のそういうところ、俺は好きだぜ才蔵よ」 

 ニンマリと白い歯を三原は見せる。

「お前は物事をちゃんと見極めようとする。俺なんか、ついつい目の前の事に必死になって、周りが見えなくなるからよ。だから、お前がいて助かっている」

「三原さん──貴方だって、言うじゃないですか」

 呆れたように才蔵は笑う。

 しかし、三原はおもむろに真面目な顔になると、じっと才蔵を見つめた。

「三原さん?」

「才蔵、いいか」

 三原の手が、ぎゅっと才蔵の肩を掴む。

 強い力だった。

「お前にしかできない頼みだ、俺が道を踏み外そうとしたなら──お前が俺を殺してくれ、才蔵」

 冗談を──と切り捨てるには真摯に満ち満ちた声音だった。

「何故、私にしか」

 才蔵が尋ねる。

 ほんの少し、考えるように三原は上を向いて、また才蔵に視線を向けた。

「そうだな……お前の目に映る俺こそ、俺が目指すべき真の様な気がしてな」

「……重いですね」

「そうかもな」

「でも、いいですよ」

 二の足も踏まない答えだった。

「殺します。貴方が道を踏み外したら、その時は遠慮なく」

 才蔵の言葉を聞いて、真摯に満ちた三原の顔が綻んだ。

「感謝するぜ、才蔵」

 大きくて圧のある顔だというのに、笑うと大黒様じみた可愛げが、やはりあった。

 こんな男だから、着いて行きたくなる。

「ま、貴方が道を踏み外そうなんて真似、天地がひっくり返ってもできる気がしませんけどね」

「それもそうかもな。未だに人を斬った事もねえしな」

 才蔵の肩から三原の広い手が離れた。


 その刹那だった、まだ笑みを浮かべた三原の胸から突如に刃が生えたのは。


 左胸を背から一突きだった。

 殺気どころか、気配も無かった。

 陰から突然現れた刃に、三原も才蔵も瞠目だった。

「貴様……ッ!」

 一道場の主である三原は、これしきでは倒れない。

 口から血を吐き出しながらも、腰の刀を抜き様に背後の曲者に一刀を浴びせる。

 ──空振った。

 三原が手を柄にかけた時にはすでに、曲者は刃を抜いて間合いを取っていた。

 刀が抜かれた胸から赤い飛沫が噴き荒ぶ。

 膝が折れるが、なお倒れない。

「ぬ、うぅッ!」

 腹の底から気合いを発する。

 腕に力を漲らせるだけの胆力が三原には残っている。

 切っ先が跳ね上がる。

 握り続けた刀が上段を構えようと──した一瞬に曲者の物打ちが三原の額を割った。

 曲者の鋭い踏み込みは、三原の動きの上を行っていた。

 割れた頭蓋から、夥しい血と微動するわずかな脳漿が飛び散った。

 刃をやっと天に翳して、三原は斃れた。

 息は無かった。


「みは、ら……さん」


 才蔵も柄に手をかけていたが、割り込む隙を見出せなかった。

 気を伺っている内に、三原は死んだ。

 結果的に三原を見殺しにした。

 その事実に、はらわたが煮えくりかえる。

 唇の肉を噛みちぎってしまうほどだった。

「誰だ……」

 言葉は、震えていた。

「誰なんだ貴様ァッ!」

 吠えるような叫びに、曲者はゆっくりと顔を向けた。

 鼻をついてもおかしくないほどの血に顔が濡れていたが、気にするそぶりもない。

 よくよく見ると小兵な男だ。三原どころか、才蔵の鼻にやっと届くか届かないかの背丈である。

 才蔵の問いには答える気配は無かった。

 苦虫を潰した顔で溜め息を吐くと、携えた刃を才蔵に向けて構えた。

 言葉は無用のようであった。

「とことん卑怯者らしいな」

 才蔵は柄に手をかけたまま、構える。

 抜き打ちの構えだった。

 見かけの威勢とは裏腹に、才蔵の着物を冷たい汗が濡らしている。息もすでに不規則だ。

 鼓動なんぞは早く逃げろと警告するようにけたたましく鳴り響いていた。

 百も承知だった。

 不意打ちとはいえ、曲者は道場師範を務められるだけの剣腕を持つ三原を傷一つ負わず仕留めてみせた。結果が示す確かな腕に、迂闊な踏み込みなどできやしなかった。

 むしろ、逃げるが上策かもしれない。

 いつか、三原は言っていた。

『死すべき時に死なぬは恥だろうが、生きるべき時に死ぬのも恥だろう。京に上った時、やばいと思ったら逃げろ。死なんてもんはみすみす受け入れるもんじゃあねえさ。生きろ。俺たちの大業を成すために』

 今逃げても、きっと三原は咎めない。

 なんだったら、刃を抜く拍子に”逃げろ”と才蔵に目配せすら送っていた。

 あえて無視した。

 同志一人を見殺しにしかできなかった碌でなしが、どうして大業を成せると言えるのだろう。

 それに、だ。

 三原と共に過ごした長い時間が。

 三原と共に歩んだ長い道程が。

 才蔵に退く事を許さない。

 背を向けるなど、言語道断の極みだった。

「──何者でも、もう構わん」

 才蔵は、鯉口を切った。

 抜き打ちの構えのまま、小兵の曲者を見据えて恐れに淀んだ息を吐き捨てる。

 その才蔵の姿を見て、曲者は舌を打った。

「面倒臭ェようしやがって」

 呟きを吐き捨てる。

 一瞬だけ屍になった三原に視線を落として、すぐに才蔵に戻した。

 どうやら、曲者も迂闊に踏み込んではこないらしい。

 己が間合いの二歩手前で止まる。

 糸を張り詰めんばかりの緊張感が加速度的に漲っていく。

 ひょうと肌を刺す夜風が二人の間を抜き去った。

 着物の袖が揺れる。

 傍の木立がざわざわと蠢く。

 だが、そう経たぬ内に風も騒めきも止んだ。

 静寂だけが取り残された。

 先に踏み込んだのは、曲者だった。

 一歩土を踏むと同時に切り上げに刃が奔る。

 しかして、間合に入ったのは才蔵が先だった。

 曲者よりも一歩半、才蔵の方が間合いが広かったのだ。

 間髪入れすに、鞘内で刃を奔らせる。

 このまま抜き切れば、才蔵の抜き打ちの方が先に曲者を斬る。

 ──筈だった。

 右腕ににわかに奔った鋭い痛みに、抜き打ちが止まる。

 思わず視線が腕に落ちた。

 鉄の棒のようなものが腕の肉を貫いているのが、視界に映った。

 なんだこれは────

 そのたった一瞬に、紫電が一閃煌めいた。

 柄を握った腕ごと曲者の刃が才蔵を容赦無しに袈裟斬った。

 才蔵の肘から先が、刀を握りながら落ちていく。

 裂かれた傷から数多の血が飛沫く。

 膝がくず折れて土に着く。

 足元にはどす黒い血溜まりがもう浮かび上がってしまっていた。

 だが、まだ僅かに息がある。

 歯を食いしばる。

 残る左腕を脇差に伸ばす。

 光を失わぬ眼を見開き切って、曲者を見据えた。

「この……ひ、きょうも、の……がッ」

 物凄い形相だった。

 憤怒。

 怨情。

 無念。

 滅茶苦茶に入り混じった感情を剥き出しにした貌は、流す血も相まって凄惨極まっていた。

 曲者は、しかし、そんな激情をいとも容易く受け流す。

「知ったこっちゃあねぇ」

 呆れが滲んだ言葉だった。

「おんしらじゃって、京行ったら天誅じゃあ言うて、ありんこ踏むみたいに人ン殺すンじゃろうが。これ以上面倒事ン増やすなや」

 ────違うッ

 そう叫びたかったが、才蔵はもう声が出ない。

 口を開いても、赤い気泡がぱちぱちと弾けていくだけだった。

 ならばとできるのは、己が覚悟を示すことだけ。

 残る気力で脇差を抜き放ち、切先を曲者の喉元に向けた。

 男は、最後まで退くことはなかった。

 凄絶という言葉ですら足りない覚悟が曲者に伝わったかは、分からない。

「わりゃも死にとうねえし、死なせとうもねェんじゃ」

 曲者は構わず、刃を天へと振り翳す。

 月明かりに照らされてよくよく煌めいていたが、見惚れるには非情が過ぎた。

「じゃから、死んどくれ」

 止めの一刀が、才蔵に落ちた。

 言葉を残すこともなく、才蔵だった骸がべしゃりと地に伏した。

 脇差は、最期まで握られたままだった。




 公儀隠密、と呼ばれる者達がいる。

 幕府の密命を帯びて各藩や不穏分子などの諜報に携わる者達のことである。

 だが、昨今の動乱において、その仕事は諜報ばかりにとどまらない。

 三年前、桜田門で井伊直弼大老が惨殺された事件以降、動乱は今も加速し続けている。もはや引き返すべくもない。

 公儀隠密は二度とかような事件を繰り返さぬべく躍起になった。

 裏工作。

 調略。

 そして、人斬り。

 手段などもう選んでいられなかった。なりふりも構わない。

 公儀隠密はより黒く、より闇深い代物へと変貌を遂げつつあった。

 曲者──正一も、その公儀隠密の一人であった。

 三原雄介率いる道場生同志が大挙して京に上ろうとしている──たったそれだけの理由で公儀隠密は彼らを危険分子と見做し、暗殺を実行した。

 京では、天誅と称して人斬り騒ぎが多く起こっている。将軍家茂公の上洛を控えた今、不穏な要素は塵一つ残しておくわけにはいかなかった。

 例え、彼らにそんな意志が無かったとしても、だ。

 三原と才蔵以外の同志らも、他で公儀隠密らに斬られている頃合いであろう。


 始末がついた現場で、正一は刀の血を拭って鞘に納める。

 それで一気に気が抜けた。

 ずうっと体を強張らせていたものが解けて、力が抜ける。

 拍子に、踵が血で滑ったか尻餅をついた。

 すぐには立てなかった。

「……くそ」

 鼓動の濁流がどどどっと押し寄せてくる。

 息が苦しくって、体が落ち着かなくって、しょうがない。

 人を斬ってすぐの時間は、筆舌に尽くし難い感覚に襲われる。

 抑えていたものが堰を切ったようだった。

 鼻をつく血の臭いなど、二の次だった。


「いい殺しっぷりだったってェのに、情けねえ姿を見せやがんぜ」


 正一の胸中など知らぬような言葉と共に、木立の影からぬうっと男が一人現れた。

 煙管を咥えた、任侠の親分と言っても差し支えのない風貌をした男だった。

「──ドブ鷹」

 男に向けた正一の目つきは、蛆虫でも見るようだった。

「略すなよ。どぶさらいの鷹見だって何度も言ってるだろかい。ドブ鷹だと逆にドブ色をした鷹みてェじゃあねえか」

「間違いないと思うが」

「相変わらず物怖じしねぇ男だなァ」

 悪態をつく正一に鷹見は軽く笑って応えると、林道に転がった屍二つを見やった。

「ご苦労さん。これで江戸の攘夷派もちったぁ静かになンだろ」

「こんなンでか」

「さぁな。ただ、こういうどぶさらいが、俺達の仕事ってやつさ」

 煙管の中の灰が赤く明滅する。咥えていたそれを離すと、鷹見の口から紫煙が一筋立ち昇った。

 司馬鷹見、彼もまた公儀隠密の一人──いや、公儀隠密の中でも人斬り仕事の一から十を一手に引き受ける男である。

 全国に張り巡らされた情報網をもとに、彼が人斬りの指令を出す。

 正一は、この鷹見直属の部下だった。


「つか、いつまで尻餅ついてンだ」

 死体を検分しながら、鷹見はじろりと正一を横目見る。

 正一は暴れる心臓をやっとこさ宥めつつあった。

「この仕事もう何回もやってンだろ。いい加減醜態だぜ」

「……まだ七度じゃけ」

「そんなけやってりゃ慣れるもんだろが。いや、お前さんの場合はもうちっと数が多いか。だというのにその様ってのは、全く意気地がねェ」

 紫煙をまたくゆらせながら、鷹見はふと斬り落とされた才蔵の腕を見る。

 棒のようなものが腕の肉に突き刺さっている。

 ほう、と鷹見は感心したように息を漏らした。

「意気地ねえが抜け目もねぇな。やっぱこの仕事、お前さん向いてるぜ」

 やっと血が渇いて硬直し始めた腕を拾うと、突き刺さっていたものを肉から抜いた。

「棒手裏剣か。不意打ちにはもってこいだな」

 まじまじと見定めてから、ひょいと正一に投げ返す。

 一見長さ約五寸(165mm)の鉄の棒だが、先端が鋭く尖っている。暗器の一種だ。

 切り上げに見せかけて、才蔵の腕にコイツを投げた。抜き打ちを封じて、先を取るためだった。

「この男も馬鹿だったな。あの道場主をぶっ殺された時にわからんかったもんかね。俺たちは勝負を挑みにきたんじゃない、殺しに来たんだってな」

 嘲笑うような声音だった。

 しかし、鷹見の言う通りだ。まともに勝負などする気がなかった。

 命を賭けたくなんぞなかった。

 正一は望んで公儀隠密になったわけではない。

 江戸で剣の修行に励んでいたところを鷹見に腕を見込まれて、弱みに漬け込まれ半ば無理矢理に公儀隠密の一人となっただけなのだ。

 世情に何ぞ興味は無かった。尊皇だとか攘夷だとか、そんな思想にも触れなかった。

 勝手にしろと思っていた。面倒くさいどころか騒がしいものに巻き込まれるのは御免だった。

 平穏無事が正一の望みだった。

 それが今じゃ、ずいぶん遠いところに来てしまっている。

 何時も油断も気の緩みも許さない、息が詰まる舞台に立ってしまっていた。

 今日だってそうだ。

 三原と才蔵──二人の手練れに気づかれずに背後をつけるのにどれだけ息を殺したことか。

 鍔鳴り一つ起こせなかった。

 勘付かれて二人と真っ向から斬り合いになってみろ、そこに転がる骸は正一だったかもしれない。

 才蔵と相対″させられた″時も、嫌で嫌で仕方がなかった。

 剣を抜き合わせれば、隙を作ることは許されない。

 心に生まれた隙を先に踏まれた方が、死ぬ。

 死にとうないから必死に平然を装う。


 死にとうないから怖い──怖かった。


 どうしようもなく湧いた本音に、結局嘘をつけなかった。

 それがこの意気地ない様だ。押さえつけていた本音は、後から堰を切って襲いかかってきやがった。

 刃を向けた時、逃げてしまえたならどんなに楽だったろう。

 逃げて治まるものではないと己が一番よくわかっている。

 なのに、馬鹿みたいな思考が何度も何度も脳裏を過った。

「どした。何か言いたげな顔をしてんな」

 鷹見はぴっと煙管に溜まった灰を捨てる。

 血が焦げる臭いがした。

 この臭いも嫌いだった。

「──どいつもこいつも、面倒ごとばっかしやがって」

 鬱屈さに満ち満ちたぼやきだった。

「何が攘夷じゃ、何が尊皇じゃ──ンなモン知らんがな。こうも面倒ごと起こしたがる奴らの気が知れん」

 自棄糞にそこらにあった小石を投げた。

 地面を叩いて転がる音が、異様に虚しくこだました。

「相変わらず思想も大義もねぇな、正一よ」

「……無くて悪ぃか」

「いいや悪くねぇ。どぶさらいにそんなモン必要ねェからな」

 鷹見が、不敵に笑う。

 口に咥えた煙管に、また新たに火を付けて煙をくゆらしていた。

「奴ら浪士どもが掲げるモンは犬の餌にもならねェ。天誅だなんだ言ってただ暴れ回ってバカしかやらんドブカスになるのがヤツらの末路さ。どぶさらいがンなモン持ったら本末転倒だぜ」

「おんしの言う事もようわからん。なあにがどぶさらいじゃ。人をンな仕事に駆り出しおって」

「酷ェ言い草だ。でもよ、誰かがこんな汚え仕事をやんなきゃ、世の中ってのはちゃんと回らねえとは思わねえか」

 灰が焼け弾ける音がした。

「毎日大量に出る糞溜めを片付ける奴らがいるように、誰かがどっかで汚え仕事をしてっからこの世の中は回ることができている。嫌われても憎まれても、いなきゃあ世の中が回れねえ存在ってのはいるもんだぜ」

「そうかい」

「そうさ。それにな、お前さんほどどぶさらいに相応しい奴ァ、俺は知らねェ」

 咥えた煙管が、真っ直ぐに正一を指す。

「お前さんは、武士だとか侍だとかいう誇りを持っちゃあいねえ。死にたくねえから手段も体裁も選ばねえ。怖え怖え言いながら、殺しになんも躊躇もしてねえ。そういう碌でもねえところ、好きだぜ俺は」

 嬉しくもなかった。

「好き勝手言うのう、ほんとに」

 やっと立ち上がると尻についた土を払う。袴や着物に着いてしまった血に関しては、どうせ後で着替えるのだ、落とすのは諦めた。

「調子のいいことばかり並べちゅうが、わりゃには耳障りしかしねえよ、ドブ鷹が」

 正一はくるりと背を向けた。

 もう鷹見に見向きもしなかった。

「んじゃ帰ぇる」

 それだけ吐き捨てると、ぶっきらぼうな足取りで骸となった二人が行こうとした道を男は歩む。

 鷹見はその背中になんの言葉もかける事なく、見送るだけだった。


 夜が明ける頃には、すっかり馴染みの道を正一は歩んでいた。

 あともう何町か歩けば、正一が住む長屋は近かった。

 早いところでは、もう長屋のおかみさんが起きて飯を炊き始めたのか、ところどころの裏長屋から白い煙が立ち昇っている。

「そろそろ、ウチも飯を作ってるンかね」

 今朝の飯は何だろうかと考えるだけで、腹の音が鳴った。

 鳴って、随分な人間になったものだと思った。

 人を二人斬ってきたばかりだというのに、もう己は飯が食えるらしい。

 ついでに、飯を食ったら昼過ぎまでいびきをかいて寝てしまうだろう己を、正一は容易に想像できた。

 たった数刻でこれとは、正一自身己に呆れる。

 肉を切る感触も、骨を断つ感覚も慣れるものではない。けれど、忘れることは簡単にできてしまうようになったみたいだ。

 斬り殺した男どもの顔も、思い出そうとしてもこれっぽちも思い出せなかった。

 確かに、鷹見が言うとおり碌でなしだ。

 今更そんな己に失望なんて抱かない。

 斬る重みに足を踏んで斬られるよりかは、ずっといい。

 結局、最後まで怖いのは己が死んでしまうことだけなのだ。

 鷹見は大層なことを言っていたが、正一からしてみればやはりろくな仕事じゃないとしか思えなかった。

 こんな仕事で命を落としたくなんぞない。鷹見に弱みさえ握られてなければ、速攻で断る仕事だった。

 大義だ思想だ、殺した奴が掲げる物も、どうでもいい。

 死んだら飯も食えない。寝る事もできない。

 長屋で飼い慣らした虫を愛でる事もできない。

 帰りたい日常がある。

 待っている奴もいる。

 死んでなんかいられないし、死にとうもなかった。

 逃げることが許されないなら。

 どうせ、逃げられやしないのならば。

 卑怯者上等だった。

 碌でなしだと言いたいなら、勝手に言わせておけ。

 誇り高い骸なんぞもいくらだって踏んでやる。

 意地汚く、生きてやるだけだった。


 やっと辿り着いた長屋の木戸を開けて、路地を行く。

 そこかしこから新鮮な飯の匂いがぷんぷんと鼻をくすぐった。どうやら、こちらではもう飯が炊き終わっているらしい。

 井戸広場が見えた。

 彼女が汗を流してせっせと水を汲んでいる。

 見慣れた光景が目の前にあった。

「──ただいま」

 正一の帰りに、彼女が井戸水を引く手を止めてぱっと笑顔を咲かせた。

 顔を覗かせるあの朝日よりも、ずうっと眩しい笑顔だった。

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