しあわせは壺の中
青いひつじ
第1話
よく、信じやすい人に対して、壺でも買わされそうというが、私はまさに今、壺を買い、その置き場に悩んでいるところである。
私の家は丘の上にあり、ベランダからは宝石箱のような夜の街を一望できる。
5年ほど前から、都会の暮らしに疲れた人々が静謐な時を求め、この地に移住してくることが増えたそうだ。
そして私たち家族も、この春よりここで生活を始めた。
しかし最近では、富裕層を対象とした営業に混じって、謎の勧誘やセールスが毎日のようにやってきて、どうしたもんかと困っている。
ある休日の昼下がり。
「またか」
玄関のチャイムが鳴り、立っていたのは、スーツを着た小太りの、何か嫌な感じのする男だった。
冬だというのに、額にじんわり汗をかいているのが画面越しでも分かった。
「はい、なんでしょうか」
「突然失礼致します。今、しあわせですか」
セールスマンかと思ったが、どうやら宗教の勧誘のようだ。
「間に合っておりますので」
この手の勧誘は、早々に切り上げるに限る。
そう思い、インターフォンを切ろうとしたその時だった。
「しあわせは、この壺の中にあります」
男の分かりやすく胡散臭いセリフに、思わずボタンに向かっていた指が止まってしまった。
「あら。しあわせに、興味がおありで?」
「表札、ご覧いただきましたか?セールスはお断りしています」
「まぁ、そう言わないでくださいな。
話さえ聞いていただければすぐに帰ります。
私に、1分だけ時間をください」
この頃の私といえば、しぼんだ風船のように元気がなかった。
頭を下げる毎日。終わりの見えない仕事に、家族とも会えない日々が続いていた。
人生というのはこんな時、追い討ちをかけるように不思議なことが起こるようになっている。
満員電車の中、自分の横だけなぜか空いていたり、コンビニの自動扉が開かなかったり。
こんな些細なことで、自分が世界に必要のない人間に思えて消えてしまいたい気持ちになる。
「まぁ、話を聞くぐらい、いいか」
私は、門の開閉ボタンを押した。
「貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
男は、しおらしい言葉とは反対に、図々しく玄関の中に入ってきたかと思えば、そのまま座り込んだ。
自分でも、よくこんな男を招き入れたなと思う。
「それでは手短に。こちらが、その壺です」
男は風呂敷を広げ、木箱の蓋を開けた。
中には、2つの取っ手が付いた花模様の白い壺が入っていた。
いかにも、壺らしい壺であった。
「その辺の壺と、なんらかわりないように見えますが」
「これは、しあわせの壺といい、この壺を置いてもらうだけで、あなたの人生にしあわせが訪れるようになります」
「そんなのは嘘っぱちだ。こんなものを売って恥ずかしくないのか」
「そんなに仰るなら、1週間お試しで置かれてみますか。購入はその後、ご検討いただければと」
そう言った男は、口角と目尻がくっつきそうな嘘くさい笑みを浮かべた。
きっとこの男は、私が首を縦に振るまで居座り続けるつもりであろう。
「あぁ、分かった、分かったから。試しで置くだけだぞ」
私はその夜、受け取った壺をベットの横に置いて眠りについた。
するとどうだろう。
翌朝、目覚めるとその体は軽く、朝日がなぜかありがたく感じた。
さらに翌日、職場までの道は青信号が続いた。
さらにさらに翌日には、ソファの下から無くしていた折り畳み傘が見つかった。
どうやら、壺の力は本当らしい。
1週間後、見事、私は規約書にサインをしていた。
新品の壺が届いた。
私は悩んだ挙句、隠すように、木箱ごと物置の奥に押し込んだ。
私の妻は、インテリアに異常なほどのこだわりを持っている。
過去、私が選んだ家具たちに彼女からの承認がおりたことはない。
書斎のイスをレンタルショップで購入し、離婚の危機に陥ったことならある。
前回のように、寝室に置くわけにはいかないのだ。
「しかし、さすがに長い間こんなところで申し訳ないが、よろしく頼んだよ」
私は手のひらを合わせ、お祈りし、物置の扉を閉めた。
まだ半分はあるであろう人生。
約束されたしあわせを買ったと思えば、100万円など安いものである。
しあわせを手に入れたこの日から、私の世界は水彩画のように、柔らかく色付いていった。
たまたま乗った電車が空いていた。
レジの女の人が優しかった。
いつもの定食屋さんでサービスのみかんが出た。
帰ると、娘がお味噌汁を作ってくれていた。
それは、本当にささいなことであったが、私には大きな喜びだった。
あぁ、私は、なんとしあわせなのだろう。
壺を買ってから半年が経った。
今も、小さなしあわせは続いている。
私はふと、壺を放ったらかしにしていることが気になった。
「たまには、礼も込めて磨いてみるか」
久しぶりに様子を見ようと物置の扉を開けた。
すると、数ヶ月前までそこにあったはずの木箱が無くなっていた。
「なぜだ。誰もここにあるのは知らないはずだ」
翌朝、私は家政婦に訊ねた。
「あの、もしかして物置にあった木箱をご存知ですか」
「あぁ、それなら私が捨てました」
「え?捨てたって?」
「はい。奥様から捨てるよう命じられましたので」
「いつ捨てたんだ」
「5ヶ月ほど前でしょうか」
「そんな前に、、、」
「なにか大切な箱でしたか」
「あ、いや、いいんだ。失礼」
壺は、妻の指示により、かなり前に処分されていた。
それでは、ここ数ヶ月続いた小さなしあわせは、なんだったというのだ。
私のしあわせは、壺の中にあったのでなかったのか。
まぁ、もう捨ててしまったものはしょうがない。
「軽いな」
「はい?」
「なんだか今日は、扉が軽く感じる」
「はぁ、気の持ちようではないでしょうか」
気の持ちよう。
「ふむ。そうかもしれない。では、行ってきます」
私は、トントンとつま先を2回鳴らし、扉を開いた。
しあわせは壺の中 青いひつじ @zue23
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