ユリア視点 『カフェ・アドヴィナ』にて①
「へえ。じゃあモルゲンちゃんは、今王都にいるのかい。
けど、あの子王都に入っちゃいけないんじゃなかった?」
マーサさんの言葉に、私はうなずく。
師匠は聖光教会から、勝手に『光の聖女』を名乗ったことを見逃す代わりに、王都に入らないことを条件とされた。
「師匠は、『まあ髪色と目の色を元に戻して、ミドルネーム名乗っていれば大丈夫でしょ』って、楽観的でしたけど……」
「それで心配でソワソワして、『
ウチは休みなのに珍しく外出して、どうしたんだろうと思ったよ。
そう言うマーサさんの言葉に、休業日に押しかけてしまった私は目を逸らした。今日がお休みだっていうことを、すっかり忘れてたのだ。
「すみません、誰かと話していないと、落ち着かなくて」
「いーよいーよ。たまには外に出なくっちゃ」
はい、と渡されたのは、ホットミルク。
一口つけると、濃厚な匂いと、お砂糖の味がした。
「師匠が見たら、うげって言いそう」
師匠の子どもっぽい表情を思い出して、笑いが混み上がる。
「あー、あの子、牛乳嫌いだっけ? お菓子は食べるくせに」
「はい。その上、チーズもヨーグルトも大嫌いです」
そのくせ、ヨーグルトはうちで作っているけれど。
師匠は変わり種しか作らないため、食品に関しては私がストップをかけた。その中で唯一、うちで提供している発酵食品だ。
「ニシンの缶詰は食べるんだから、よくわからないねえ、あの子」
「本当に」
どっちも乳酸菌の発酵食品な上、ニシンの缶詰の方が匂いも味も強烈なのに、どうしてチーズとヨーグルトがダメなのだろう。
あと、ソーダ入りの乳酸菌飲料は飲むんだから、本当にわからない。
「まあ、心配しなくても大丈夫。あの子、ああ見えて十年も危険な旅をしてたんだ。教えるのも上手だし、生徒やほかの教師に絡まれたとしても、困難のかわし方なんてお手のモンだよ」
「そうでしょうか……」
思い出すのは、つい先日、『うわぁん借方科目と貸方科目を逆にして記入してたぁぁぁ』と涙目になって騒ぐ姿。あのヒトが社会人をやれる姿が思い浮かばない。
それに心配事は、それだけじゃなくて。
「それにアルトゥールもいるんだろ? なら安心じゃないかい」
マーサさん、それが一番気がかりなんです。
とは言えず、ソウデスネ、と棒読みで返してしまった。
「なんだい、まだ引きずってるのかい?
アルトゥールにはお茶の代わりに、馬用の桶に水入れて突きつけたんだろ?」
「その話はしないでください」
「まあ、あんたの心配もよくわかるけどね」
マーサさんは目を細めた。
「二年前だったっけ。あの子が、店の前で倒れてたの」
「……はい」
雪が降る季節、師匠は倒れた。
慣れない仕事が立て続きにあって、疲労もあったのかもしれない。けれどそれ以上に、師匠は精神的に参っていた。
食事をほとんど摂らなかった。ずっと寝ているのに、眠りが浅かった。時折涙を流していた。
その時つぶやくのは、いつもアルトゥール様の名前だった。
「あの男も罪だね。モルゲンちゃんを泣かした上、三年も会いに来ないなんて」
やはり、マーサさんも気づいていたのだろう。
ホームシック――ではない。
あれは、恋しいヒトをずっと待って、疲れ果てた者の末路だった。
あの師匠を見たからこそ、私はアルトゥール様が酷く振ったのだと勘違いした。
「あれ、結局どうやって立ち直ったんだっけ?」
「アルテミシア様が、治療を施してくださったんです」
アルテミシア・リリス様は、魔族領における首相であり、吸血鬼だ。そして、医者でもある。
魔族領で広く信じられている多神教の中でも、最上位とされる女神ヘカテ。
女神ヘカテは、闇夜と月、松明と光、魔術と魔族・魔法使いの守護、出産と死者、豊穣と戦勝、犯罪と贖罪、富と施し、そして狂気を司る。
アルテミシア様やそのお母様は、そのヘカテの神官だ。アルテミシア様は、その狂気を鎮め、心の病を癒す専門家なのだ。
「それからすっかり良くなったのですが、……今思えば、あれはおかしかったかもしれません」
「おかしい?」
「何だか、拍車をかけて子どもっぽくなったというか……」
東洋の国シンや【黒い森】の人間族は、年齢よりずいぶん若く見えるらしいが、元気になった日を境に振る舞いも見た目も幼くなった気がする。
私がそう言うと、んー、と角張った顎に骨太い指をあてて、マーサさんが考え込んだ。
「あたしゃ、あんまりそんな風には思わないけどね。確かに見た目と性格は変わんないけど、元々中身が大人びた子だし」
「そう、ですか……」
マーサさんの言うこともわかる。
図体だけ大きくなって、大人になれないヒト――「次世代のことを考えられないヒト」は多い。
かつての【黒い森】の魔族や人間は、自分たちの後の世代がどうなるか考えなかったからこそ、戦争をする羽目になったのだろう。
『それは人格的な問題と言うより、能力が欠落しているんだよ。
原因としては、環境的に与えられなかった、そのヒトのスペックの問題……色々あると思う』
どっちにしても、能力が無いことを責めるのは残酷だよ。何時か師匠が、そう言って批難する私をたしなめたことがある。
けれど虐げられた記憶だけあって、自分が虐げたことは忘れ、自分は弱者だと主張して相手を支配し、自分に権力がある自覚もなく、より弱い者を嬲る者、弱い者を搾取する者は、自覚している悪党よりタチが悪い。
人間魔族問わず、そんな大人ばっかりで、そういう大人を見るとフツフツと怒りを感じた。
師匠は確かに、見た目も振る舞いも性格も子どもが大きくなったようなヒトではあるけれど、今、自分と相手のどちらに権力や能力があるのか考えて動くヒトだった。
だからこそ、アルトゥール様がやって来てから、ずっと引っかかっていた。
そこまで相手と自分のバランスを考えているヒトが、アルトゥール様の好意に鈍感であるだろうか。
自分の身体が壊れるほどの想いに、無自覚なことがあるだろうか。
それはもしかしたら、アルトゥール様に掛けられた呪いと何か関係があるのではないか、と。
『この夫人は、アルトゥールの母親だ』
あの肖像画と、この間の陛下の言葉で、その疑惑は確信に変わった。
アルトゥール様は、母親から呪われているのだ。
陛下は、それ以上は話さなかった。私も聞かなかった。母子の間に、どんなことが起きたのかは知らないし、私が知るべきことではない。
ただ、師匠が倒れた理由と、さらに子どもっぽくなった理由に思い当たった。
私の推測が正しかったとしたら……。
「……やっぱり、アルトゥール様とは決闘しなければならなさそうです」
「え?」
私がそう言った時、まるで銃声のように店の扉が開かれた。
ビックリして、思わず持っていたホットミルクの水面が、王冠を描くように飛び跳ねる。
慌てて振り向くと、入口で、ハアハア、と肩で息をしている男性が立っていた。
キッと顔を上げ、私の顔を見る。
「ユリアぁぁぁ――! モルゲ、」
そう叫びながら、ある男性が店内に入る――前に、男性はマーサさんに吹っ飛ばされた。
街道まで吹っ飛ばしたマーサさんは、男性の上に馬乗りになって怒鳴った。
「男は一見さんお断りだよォォォォ!!」
さすがマーサさん、見事なパワーとスピード。元戦士にして
けれど、その男性の顔に見覚えがあったため、私は慌てて街道に出た。
「落ち着いてくださいマーサさん! その方、ジーク様です!」
「え?」
ジッとマーサさんが見る。
泡を吹いて石畳の上で倒れているのは、ジーク・フォン・シュヴァルツヴァルト――師匠のお父様だった。
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