アルトゥール視点 呪い
彼女とキスする夢を見た。
夢なのに感覚があって、柔らくて、冷たい体だった。記憶にいるモルゲンはもっと子どもだったはずなのに、そこにいるモルゲンは随分女性らしい体だった。
嫌だと泣いている彼女を押し倒して、脚の間に自分の足を差し込んで、力で反抗させないようにした。
どうして?
力無い声で、彼女が僕を見上げる。
彼女の自由を奪って、どうしようもない安堵感に包まれていた。
瞬きをする。
微かに膨らんだ胸は真っ平らになっていて、よく見るとモルゲンよりずっと小さい子どもがいた。
泣いていたのは、虚ろの目をした幼い僕だった。
そこで目を覚ました。
確かめなくてもわかるほど汚れている下着を見て、吐き気と頭痛が酷くなった。
『アルトゥールくん、元気ない?』
朝、何事もないように振舞っていると、モルゲンが顔を覗き込んでくる。
内臓を引っ掴まれるようにぐじゃぐじゃになって、頭がぐわんぐわんする。
『なんでもないよ。ちょっと頭痛はするけど、他はどうってことないし』
本当のことを少しだけ混ぜて笑って言うと、ふうん、とモルゲンはそれ以上踏み込まなかった。
その日、彼女には指一本触れなかった。
彼女を見ると、理性が揺らぐ。
こっちが見たくない時に、視界に入ってきて欲しくなかった。こちらの気も知らないまま、悪意なく僕の心をかき乱す彼女が、憎くて疎ましくて愛おしくて仕方ない。
自分が考えていることを全部分かって欲しくて、君に抱いている気持ちは絶対にバレたくない。こっちを向いて欲しい、こっちを向かないで欲しい。汚したい汚したくない。無理やり言うことを聞かせたい逃げて欲しい。
どれも本当のようで、本心を隠すための嘘のような気がして、自分が心底汚い人間のように思えた。
汚い本音をぶちまけて、信頼関係を壊して、修復不可能なほど君に見限られたら、このどうしようもない想いを諦めることが出来るのだろうか。
また夢を見た。
ふらふらと、宿屋の廊下に出て、立て付けの悪いドアを開けた。
右側にエレインが、左側にモルゲンが寝ていた。
モルゲンの体をまたぎ、細い首元に手を伸ばす。
ぐっすりと眠っているモルゲンの体温は、死人かと思うぐらい冷たかった。
その瞬間、バン! と、壁にまで叩きつけられた。
『なにやってんのトゥール!?』
ハアハアと、片手をかざしてエレインが上半身を起こしていた。
どうやら僕は、エレインの魔法によって吹っ飛ばされたらしい。
『何事ですか!?』
パルシヴァルが部屋に入ってきた。
そんな物音を立てても、モルゲンはピクリとも動かなかった。
『……あ』
ドクドクと、血が身体中を流れていく。
その時、僕は自分のしでかしたことの重さを理解して、逃げ出したくなった。
勝手に身体が動いた。
なんて言ったところで、信じてもらえるだろうか。僕だって、自分が無実なんてとても言えない。
勝手に女子の部屋に侵入して、モルゲンの首に伸びた腕が、何よりの証拠だった。
『……なにそれ』
夜の闇ですら輝くアンバーの目が、大きく開かれていた。
『君、その呪いはいつから巣食ってた……!?』
その後、パルシヴァルによって、僕の呪いがわかった。パルシヴァルは聖職者なので、呪詛をたどることができる。
呪いを掛けたのは、僕の母親だった。
薄々わかっていた。というか、僕に呪いを掛ける相手なんか、一人しか思いつかなかった。
母は、僕が恋をしたヒトを排除したいのか。
それとも、僕だけ幸福になるのは許さない、ということなのか。
『魔法使いが呪いを解くことは、できない』
エレインが、暗い顔で言った。
『解呪は、無にするんじゃなくて、上書きするんだ。ましてや、呪詛者との関係が濃すぎる。私が出来るのは、その場しのぎの対処療法だけ。……パルシヴァルは?』
『……私のスキルでは不可能です。そもそも、解呪は魔法使いの方が優れているでしょう。私の力は、所詮教会の借り物にすぎない。授けられた通りの力を使うことしかできません』
ですが、方法がないわけではない。
そう言って、しばらく黙ったあと、覚悟を決めたようにパルシヴァルが口を開いた。
『被呪詛者が、呪詛者を殺すことです』
エレインが、息を飲む。
そうだろうな、と僕は思った。
『殺さないよ』
僕は短く答える。
『……いいのですか。もう、彼女の寿命は短くは無い。
これは呪詛返しを真似たものです。ただ自然死を待つだけでは、あなたの呪詛は未来永劫残り続けます』
その言葉を聞いて、エレインがサッと顔を青ざめさせた。
『トゥール、今すぐ行動しよう!』
エレインに言われても、僕はうなずかなかった。
トゥール! と、切羽詰まった声を掛けられる。
『……なんで!? 先に呪いをかけたのはあっちでしょ!? そんなの殺されたって文句ないじゃん! そんなの母親じゃなくて敵だし!』
……エレインは、やっぱり優しいご両親に育てられたんだな。親と自分を切り離して考えられる。
だから、わからないんだろう。
僕と母親は、同一だ。区別は無い。母親を否定するということは、すなわち自分を否定することに他ならない。
――アルトゥールくんは、アルトゥールくんじゃん。他の誰でもないよ。
モルゲンに、何度同じ言葉をかけられても、乾ききった心には全く染みなかった。
『っ第一、鈍感なモルゲンも悪いよ!
思わせぶりなことばっかりして、悪意がなきゃいいって話じゃないんだが!?』
私ですら気づいたが!? と怒りのまま声を上げるエレイン。
いつもならたしなめるパルシヴァルも、今は黙っていた。
『トゥールだけが悪いとか、トゥールだけに責任があるとか、そんな、絶対おか……!』
『エレイン。いいんだ』
『よくない!』
『いいんだ。……散々君や、モルゲンや、パルシヴァルに言われ続けたけど、僕はあまり自分が大切だと思えない』
自分を大切にしろ。休め。食え。もっと肩の力をぬけ。ヒトを頼れ。
散々言われたのに、ちっともピンと来なかった理由がわかった。
『幸せに、なりたくなかったんだ……』
どれだけ時間が経っても、むしろ時が経つほど、幸せだと、もう大丈夫だと自分に言い聞かせても、不意に記憶が蘇る。
それほど苦しんできたのに、自分が幸福になったら、あのヒトが僕にやってきた事が、大したことないみたいじゃないか。
――ふざけるな。ここまで苦しめておきながら、大したことがないなんて言わせてたまるか。
母から解放されたくなかった。救われたくなかった。自分がかわいそうなままでいるのが、都合が良かった。
そう思うのに、モルゲンを見ると、それすら煩わしくなってしまう。
モルゲンの手を握りたい。モルゲンみたいに、なんの含みもなく「好きだ」と言いたい。抱きしめたかった。キスをしたかった。
相手にその気がない上、自分に踏み出す勇気すらないのに、願望ばかりがどれだけ諦めようとしても付きまとってくる。
いつの間にか、憎い相手が、母親からモルゲンに代わっていた。
だけど母親と違って、絶対に傷つけたくない相手だった。
だから、安心したんだ。
この衝動的な破壊行動は全部、呪いなのだと結論づけられることに。
あれだけモルゲンを憎んでおきながら、あれだけモルゲンを壊したいと思っていながら、自分のせいじゃないと思えて、心底安堵した。それでも。
『僕が今しなくちゃいけないことは、モルゲンとの別離だ』
呪いを解いても、結局僕が彼女の首を絞めかけたことは事実だ。
そして多分、呪いを解いても、僕はモルゲンに危害を加えるだろう。そう確信が出来た。
『このままじゃ、僕はモルゲンを食い物にする。
だって、モルゲンは逃げないんだ。傷ついているヒトがいたら、その傷を理解しようとして近づくだろう』
かつて、魔法使いであるエレインのことを、『魔獣と同レベル』だと蔑んだ村人がいた。
けど、同レベルなのは、僕だ。
魔獣に襲われたら逃げるか、殺すか。それが病魔によって性格が変わった哀れな存在だとしても、躊躇ったらこっちが死ぬ。
人間や魔族だって同じだ。狂ったら最後、助けようとしないで、すぐに逃げるか、倒すしかない。
だけど、モルゲンは逃げない。
逃げてくれ。見捨てたとか罪悪感とか、抱えなくていい。受け入れようと、理解しようとしないでくれ。自分を傷つける相手に寄り添わないでくれ。自分のことを優先して、大切にしてくれ。
何度そう言おうと思っても、モルゲンにすがってしまう。
溺れかけたヒトが、救助に来たヒトを水の中に引き込んでしまうように、モルゲンに受け入れられたら、僕もそうするのだろう。
モルゲンは、僕を救うために生きているんじゃないのに。
――私、神様とか信じてないしね!
口ぐせのように言うモルゲンを、エレインと一緒に何度たしなめたことだろう。でも本当は、僕も神様なんか微塵も信じちゃいなかった。
今は信じる。都合がいいからだ。例え嘘だとしてもいい。きっとこれは、神様が最後にくれたチャンスなんだ。
『僕が母を殺したら、僕はモルゲンを理由にして殺したことになる。
それはダメだ、絶対。例えモルゲンが知らなくても』
自分のことはどうでもいい僕が、自分のためには母を殺せないのに、モルゲンのためなら殺そうなんて、そんなことはあっちゃいけない。
それは、誰もが排除されなくて済む社会を作りたいというモルゲンの正しさを、彼女と必死に積み上げてきた今までの旅を、否定することになる。
モルゲンのせいにしたくない。
僕がこうなったのは、僕の問題だ。
『お願いだ。僕がちゃんと、彼女と離れられる方法を、二度と会わないようにする方法を、僕に教えて欲しい……』
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そうして、旅はあっけなく終わった。
彼女の、「誰も排除されない社会」からは程遠かったものの、この十年で起きた変化は小さくなかった。
モルゲンは列聖してもないのに聖女を名乗ったことで、今後『光の聖女』を名乗ること、王都に入ることを聖光教会から禁じられた。表向きは。
パルシヴァルが計らってくれたおかげで、物理的に僕は彼女と離れることが出来た。僕が王都から出なければ、彼女と会うことはない。
そして僕は、エレインから忘却の呪いをかけられた。
ただ、モルゲンに会ったら、思い出せるようにさせられた。
それじゃダメじゃないか、と言う僕に、『うっかりモルゲンと会って君に忘れ去られてたら、モルゲンは傷つくだろうね』という言葉に、反論できなかった。
そもそもそんなうっかりを絶対に起こさないようにするべきなのに、やっぱり僕は自分に甘かった。
じゃなきゃ、会いに行こうなんて考えないだろう。
腹違いの兄である陛下に、呼び出された日のことだった。
『今後、魔族と人間の関係良化のために、モルゲンに求婚しようと思っているんだが、いいか?』
モルゲンの名前を出されて、僕は彼女のことを思い出してしまった。
『……なぜ、私の許可が必要なのですか』
僕は動揺を悟られないよう必死だった。
彼女が、ヒトのモノになってしまう。
モルゲンはモノじゃないのに、そんなひどい独占欲に流された。
そして、記憶があやふやなくせに、僕は彼女の元にまでたどり着いてしまった。
冷静でいなくちゃ。
ユリアからモルゲンの名前を聞いて、そう思っていたのに、三年経っても変わらない彼女を見たとたん、身体は勝手に彼女を抱きしめていた。
しまった。
そう思った時には、モルゲンの腕が僕を抱きしめていた。
彼女の体はやわらかくて、起きている彼女の体温は、僕より少しだけ高かった。
触ることを許されている。そばにいて信頼されている。
何度も何度も試しては、確かめたくて仕方なくて、僕は抱きしめたり髪を触ったりしていた。
好きだよ。
何度も言おうとした言葉を腹にかくして、僕は代わりに『近いうちに行くよ』と嘘をついた。
もう、母を言い訳にはできない。
名前を出しただけで思い出せてしまうこの呪いは、もはや母のものじゃなくて、僕自身のものだった。
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