アルトゥール視点 かつての日々④





『小さい頃の私は、大人は子どもを大切にするのが当たり前だと思ってたの』


 家を出たら、全然そうじゃなかったけど。

 黒い木々に囲まれた湖畔の傍で、膝を抱えたモルゲンがポツリ、と言った。


『え、してると思うよ……?』


 僕の言葉に、『全然してない!』とモルゲンは言った。


『あのお母さんがやったことは、虐待だよ。絶対にしちゃいけないことなの』

『虐待……って……』


 大袈裟だと思った。

 別にむち打ちされているわけでも、殴られている訳でもない。たしかに嫌だけど、あれぐらい、どの親子でもやってる、普通のことだ。目をつぶらやなきゃ、やっていられない。

 僕がそう言うと、モルゲンは少し悲しそうに、あのね、と言った。


『暴言って、抽象的だし、目に見えないから殴る蹴るよりダメージが少ないって思われがちだけど、ヒトを壊すの。物理的に』

『物理的に……?』

『えっと……脳ってわかる? 頭にあるやつなんだけど』


 モルゲンの言葉に、僕は頷いた。自然科学などの学問は、ある程度パルシヴァルから受けている。


『脳はダメージを受けると、五感や知能、人格にも影響を及ぼすんだよ。例えば、事故で脳にダメージを受けたヒトの中には、穏やかだったのに突然暴力的になったりすることがあるの』

『ああ……確か、頭を強くぶつけて生き残った軍人が、手が付けられないほど問題行動ばかりし続けて、結局懲戒解雇を受けた話を、読んだことがある』


 僕の言葉に、モルゲンは頷いた。


『頭をぶつけたりするだけじゃない。

 暴言を受けると、聴覚、知能、コミュニケーション能力の低下を招くことがわかっているし、体罰を長期的に受けたヒトの中には、感情や思考の制御が難しくなって、人間関係を壊したり、犯罪行為を起こしてしまうこともある。

 ……こういう言い方は好きじゃないけど、暴力や暴言が溢れている世界って、社会の生産性を落とすの』


 考えたこともなかった。

 弱いものは淘汰されて、暴力や暴言なんて気にしない強いヒトだけが生き残れば、社会は上手く回るんじゃないかと思っていた。

 弱者を擁護するのは、とても綺麗だけど、善意とか、博愛とか、正義とか、そういう余裕のあって出来る娯楽的なもので、生きるのには必要のないものだと思っていた。


『特に子ども時代に受けた暴言や暴力は、物理的に脳の形を変えさせてしまう。ある領域が縮んだり、逆に肥大したりして、本来その子が出来たはずのことを奪うの』


 だからね、とモルゲンは僕を真っ直ぐ見た。


『暴力や暴言、しつけと称する体罰を、日常にしちゃダメ。それは目を潰されたり、耳を削がれたり、手足を切り落とされることと同じぐらい、酷いことなんだから。

 痛いことは、痛いって言わなきゃダメなんだよ。その訴えを、誰も奪っちゃいけないの』

『……』


 僕は、何も答えられなかった。

 子どもの頃に受けた傷。

 あれは、当たり前じゃなくて、傷と認識していいのか?

 じゃあ僕は、目を潰されたり、手足を切り落とされたのか?

 困惑する中で、どこかでストンと落ちた。

 美味しくないスープ。灰色の花。遠く聞こえる水の音。

 あの日々で、僕は感覚を奪われていた。

 生き残った軍人が問題行動を起こし続けたように、僕の頭から大切なものが欠落しているのか。

 だからあんな酷いことを、モルゲンにできたのか。


『……ごめん』


 唐突な僕の謝罪に、モルゲンが目を瞬かせた。


『本当は、早く謝りたかった。……君に対して怒ったことも、あんな酷いことを言ったのも、君を泣かせてしまったことも、無視したことも……』


 こうして並べると、謝らないといけないことばかりだ。自分のことばかりで、申し訳ないと言い訳しながら、モルゲンのことを何も考えていなかった。

 僕がそう言うと、あー、と気まずそうにモルゲンがそっぽを向いた。


『あれは気にしないで。泣いてしまうとか、恥ずかしい……』


 昔のことを思い出したの、とモルゲンは頬をかいた。


『私、昔いじめられててさ』

『えっ』

『えっ?』


 モルゲンが目を丸くする。

 驚くのはこっちだ。


『いじめられ……てたのか? モルゲンが?』

『え、そんなに意外?』


 モルゲンの声がうわずる。

 意外だ。だって彼女は、こんなにも思慮深くて、優しくて、人懐っこくて、かわいいのに。

 ……いや、かわいいってなんだ。

 戸惑う僕を他所に、私ね、と、モルゲンは内緒話を打ち明けるように言った。


『お母さんが有名な科学者で、親戚も皆学者だから、【黒い森】じゃちょっと有名だったの。

 だから、さっきみたいな話をすると、大人たちが言うの。「さすが学者の子だね、頭がいいね」って』


 そう言って、モルゲンは大きな目を細めた。


『そしたら、今度は必ず、同じぐらいの歳の子と比べるの。「アサちゃんはあんなに賢いのに、うちの子はなんてバカなんだ」って、定型文で』

『アサちゃん?』

『あ、私のミドルネーム。私の本名、モルゲン・アサ・ヒナタ・ファン・シュヴァルツヴァルトなの』


 数ヶ月一緒にいるのに、今初めて知った。

 というより、モルゲン個人の話を、僕は今まで聞いたことがなかった。僕自身が尋ねることもなかった。


『そうやって比べられたら、子どもはたまったもんじゃないよね。これも虐待だよ。

 ……そのうち、他の子たちからは無視されたり、かと思えば、なにかする度笑われたりしたり、大事なものを隠されたり、壊されたりした』


 だんだんと、伸びやかで明るい声が、強ばっていくのがわかる。

 モルゲンは顔を埋めた。くぐもっているのは、ローブやスカートの裾のせいだけじゃないだろう。


『ある日、言われたんだ。「お前、自分が頭いいからって、俺たちのことバカにしてんだろ」って。

 目の前が真っ白になった。私、自分が頭がいいとか、周りの子が良くないとか、一度だって思ったことないのに。

 私、そんなふうに思われるようなことをしたかな? もしくは、本当は心の中で、そんなことを思っていたのかな。

 何か私に原因がなければ、こんなに傷つけられるはずがない――って』



 ――さては私のことが嫌いなんだ! 嫌になって私を殺すためにやってるんだ!!


 母の言葉を受けて、ショックを受けた時の自分を思い出す。

 自分の心を決めつけられて、非難されて、弁解しようとしても全然言葉は届かなかった、あの絶望。



『色々思い出して、「あの時相手の顔色に気づかないで、興味のない話ばかりをして、嫌がっていたことに気づいてなかったな」とか、「あの子にとっては知識ひけらかしていること自体が、すごく不愉快だったんだろうな」とか。

 そうやって、自分が受けた傷の原因を探って、ああ自分が悪かったんだなって思ったら、一丁前に傷ついている自分が恥ずかしくなった。だから、「自分は傷ついてない」って、誤魔化したの』


 いじめられたこと、誰にも言えなかった。

 最後にポツン、と付け加えられた言葉に、僕は目が覚めるような思いだった。

 この傷を受けた理由を知りたかった。自分にとっては、理不尽に傷つけられたと思った。でも、母は自分が傷ついた、と訴えていたから、自分にこの傷を受けるだけの理由があるのだと納得させた。


 そうしたら、そんなことをして報いを受けたのに、傷ついている自分が恥ずかしかった。

 傷ついていることを、隠したかった。



『でもね』モルゲンがわざとらしく、明るく言った。


『お母さんとお父さんには、すぐにバレちゃった。

 お父さんは烈火のごとくいじめた子に怒り狂って、なだめるのが大変だった。

 お母さんは、「もう大丈夫」「アサは何も悪くない」って言ってくれて、こうも教えてくれたの。「あの子たちが傷ついたことと、君の行動には、なんの因果関係もないよ」って。「君があの子たちみたいに傷ついたとしても、君はいじめたりしないだろう」って』


『そうだな』僕は食い気味に言った。 『君は、絶対にそんなことはしない』

 モルゲンが顔を上げる。

 前髪はボサボサになって、ちょこんとあちこちが跳ねていた。目元は赤く腫れていて、ヘーゼルの瞳は波紋を立てた水面のようにきらめていた。

 にへら、とモルゲンが困ったように笑う。


『あの子たちも傷ついていたんだろうけど、それは私を加害する理由にはならない。あの子たちは、私や大人たちに「傷ついた」って言うことも出来たんだから。

 あの子たちの傷はあの子たちのもので、私が背負うものじゃない。

 だからアルトゥールくんも、もう気にしないで。私は、君の言葉や態度で傷ついたんじゃなくて、私の過去を思い出して、不安になっただけなの』


 モルゲンはそう言って、少し鼻をぐずった。

 ……いいんだろうか、その言葉を真に受けても。後から、「お前のせいで傷ついた」なんて、言わないのだろうか。

 そう尋ねることは出来なかったから、代わりに『モルゲンは強いな』と言う言葉で誤魔化した。

 

『いや、それなりにショックだったけどね。「女はヒステリー」とか』

『本当にごめん』

『いやあ……わがままな自覚はあったけど、そんなに私、感情のまま喚いたりしてた? いや、してたかさっき』


 流れるように自分にツッコミを入れて、気まずそうに視線を落とす。『無自覚な自分を指摘されると、結構ショックだな……』

『そんなことない』


 ここだけは、絶対に否定したかった。


『君はとても理性的だ。物事を多角的に考えられるし、問題の構造を分析することもできる。何より、他者と自分を区別して、同等に尊重できる。……それはとても、難しい』


 そこから、僕はなんて言えばいいのか分からなかった。


『……どうして、あんな言葉が出てきたのか、自分でもわからないんだ。言い訳にしかならないけれど、』

『言い訳じゃないよ』


 モルゲンが遮った。


『だって今話しているの、アルトゥールくんの本心なんでしょ?』


 僕は、息を飲み込んだ。

 こんなふうに、自分を信じてくれるヒトがいただろうか。自分でさえ信じられない本心を、モルゲンはあっさりと信じてくれた。


『それに、うん。今ので、なんかしっくり来た』

『しっくり?』

『アルトゥールくん、それ、?』


 モルゲンの言葉がよくわからなくて、僕は首を傾げる。


『さっき、アルトゥールくんは「これだから女はヒステリーってんじゃないか」って言ってたでしょ。「これだから女はヒステリー」じゃなくて。

 だから、誰かが言われているのを、ずっと見てたんじゃない?』


 きっとさ、とモルゲンは言った。


『アルトゥールくんは、多分それを聞きたくなかったんだよ。だから、先手を打とうと、防衛反応として出てきたんじゃないかな』


 そこで一度モルゲンは言葉を区切った。

 まるで自分に言い聞かせるような口調で、モルゲンは言った。



『聞きたくないのに、誰かの悪口を聞かされるのも、暴力だもん』


 

 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪


 その時僕は、庭先で聞いた、修道士たちの言葉を思い出していた。

「ヒステリーで困った」だの、「うるさくて眠れない」だの、「これだから女は、感情的ですぐ泣いて困る」だの。

 それを聞いて、僕はふつふつと怒りが煮え返っていた。

 一体誰が、こんな目に合わせたんだと。

 女とか関係ない。お前たちのせいで、母は狂ったんじゃないかと。


 けれど、家に戻ると、わんわん子どものように泣いている母を見て、「そう思うのも仕方ないかもしれない」と思った。

 なんでそんなに泣くんだろう。泣くのをやめたら、修道士たちも悪口を言わなくなるのに。


 それから、僕は修道士たちから母の悪口を聞かされ続けた。

 そうしたらいつの間にか、悪口を言われるのは、母に問題があるとすり変わっていた。

 修道士に反論ができなかった。だから、問題行動を起こす母の方を、押さえつけたいと思っていた。


 ■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪

 

『……例えば、傷つけられて、憎くて仕方ない相手の悪口でも、ヒトは傷つくんだろうか』


 僕は、もう母のことを愛しているとは言えない。

 自分が悪いんだと言い聞かせておきながら、心の奥底では母のことが憎くて嫌いで怖くて仕方がなかったことに、今気づいた。

 そんな僕が、母が傷つけられるところを見たくなかったなんて、言っていいんだろうか。


『傷つくよ。

 私も、私を引き合いにしていじめてきた子たちが大人に悪く言われていることに、傷ついてきた』


 モルゲンは、優しい声で言った。


『だから私は、私のために、大人たちに「私をその子を傷つける道具にしないで」って怒るべきだった。いじわるする子に、「勝手に私の考えていることを決めつけないで」って、怒るべきだった。

 結局私は、自分を責めていじめる方が楽だっただけ。いくらいじめても、私以外、傷つくヒトなんていないし、押さえつけやすいじゃん。

 そうやって、自分を犠牲にして、自分を多数派だって――加害者側の仲間だって、認めて欲しかった』


 押さえつけやすい。多数派になりたい。

 わかる。本当にそうだ。

 僕もさっき、モルゲンにあんなことを言って、多数派に回ろうとした。被害者になる前に、加害者になろうとした。

 ダメだよね。と、モルゲンは言った。


『だから、今度はちゃんと怒ろうと思った。たった一人で泣く子を作らないために』


 そう言って、今度は顔を上げて、軽く言い始める。


『でも、本当はやる度にビビってるんだよ。傷つけたり、嫌われる覚悟は最初からしてるのに、いざ泣かれたり嫌われたらショック受けるし。庇った相手の立場が悪くなったりして、偽善者とか、余計なお世話だって言われたこともあったなあ』


 自分のためにやってるんだから反論できない、となんてことなく笑うモルゲンの言葉が、決して大袈裟では無いことを、僕は理解した。

 彼女が軽く言うのは、本当に嫌われるのが怖いからだ。怖いとなぜか、笑ってしまうことがある。

 大したことがないと、身体に言い聞かせている。




『……アルトゥール君?』


 黙り込んだ僕に、モルゲンが顔をのぞき込む。

 魔法で色を変えたはずのヘーゼルの瞳が、晴れ渡る星空のような色に見えた。

 口が乾く。顔が熱くなる。皮膚の神経が全部彼女へ向かう。心臓の音が、静かに、けれど耳元でハッキリと聞こえる。それなのに、モルゲンの声は鼓膜に優しく響いた。


 不思議だった。

 自分の弱さは恥ずかしいと思ったのに、彼女の弱いところが見えた時、僕は、彼女を愛おしいと思った。

 それなのに、目の前にいる彼女のことを、弱いとは思えない。怖くても強い存在に立ち向かって、自分の弱さすら誰かのために使う彼女は、ごく普通に傷つく女の子で、真の勇者だった。

 弱くて強くて、普通で特別な女の子。

 彼女の目を見ると、なんだか気恥ずかしくて、それでも見ずにはいられないほど、僕は目を奪われた。

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