アルトゥール視点 かつての日々②
『いい子ね、トゥール。
――あなたなら、私の気持ち、一番わかってくれるよね……?』
そう言って、何度も何度も、裸になった僕を抱きしめた。
この時の記憶は、かなりあやふやだ。
自分が何をしていたのかも、何をされていたのかも、よく覚えていない。
ギリギリ覚えていることは、相変わらずパルシヴァルがやって来ていたことだった。
『何か、困ったことや、相談したいことはありませんか?』
パルシヴァルは、家に来る度そう尋ねた。
まるで昔、『僕が父親に愛されている』という言葉を繰り返すように。
母の目が、こちらを見る。
泣いている時とは打って変わって、どんよりとした、生気のない目だ。
『…………ない、よ』
僕がそう言うと、そうですか、とパルシヴァルは言う。
それ以上は何も詮索してこない。
形骸化された儀式のような会話に、それでも僕はすがっていた。
『ぱ、パルシヴァル!』
『はい?』
『また、来てくれる……?』
僕の言葉に、眼鏡の奥で、少しパルシヴァルが目を見開いた。
『……もちろんです。今度は、剣術の稽古でもしましょう』
――昔は好きだった剣も、今はなんの感情も抱かなくなってしまった。
羞恥心が無くなった時、楽しい、と思う心も、悲しい、と思う心もなくなってしまった。
色も灰色で、匂いも味もしなくなった。パルシヴァルが窓際に置いてくれた花の色も香りも、パルシヴァルが作ってくれたスープも、なにもわからない。
ただ、生きるだけでつきまとう息苦しさだけがずっとあった。
パルシヴァルがいる時だけは、その息苦しさが無くなった。
『剣に触らないでって言ったでしょ!?』
パリン! と、皿が飛んできて割れる。だらり、と冷えきったスープが吐いたゲロのように床に染みて言った。
ビクッと、僕の体が震えると、母は畳み掛けるように怒鳴った。
『さては私のことが嫌いなんだ! 嫌になって私を殺すためにやってるんだ!!』
その言葉に、僕はゾッとした。
『ちが、違うよお母さん!』
『そんなに私を殺したいんだ! 殺したいんだ!』
声が届かない。
僕の意思とは違うことを決め付けられて、幼い僕は困惑し、恐怖した。
今まで必死に我慢して、息を潜めるように薄氷の上を歩いていたのに、それがガラガラと崩れていく。
『あの男も、ここの修道士も、私を殺すためにここに閉じ込めてるんだ! 水にもパンにも毒を仕込んで、私を殺そうとしてるんだ!
お前も、お前もその仲間なのね!?』
どうして、そんなことを言うの。
確かに『お母さん、あんまり剣は好きじゃないな』って言ってたけど、今まで、『剣を触るな』なんて言わなかったじゃないか。
どうして、そんな突然怒るんだ。僕はあなたに、そんなことを思わせるようなことをしたのか。
『もういや、もういや! 私以外全部死んでしまえ!』
血走った目を見開いていたかと思うと、瞳孔を開き、涙でブルーの目をうるませた。
『――様、――様……――様……!』
父親の名前を言いながら、母が壁に寄りかかる。
力無く横たわりながら泣く母の姿に、何かがブチッという音がした。
『いいかげんにしてくれっ!!』
自分でも信じられないような怒鳴り声が出た。
ふつふつと、怒りが混み上がってくる。
『自分が置かれている状況がわからないのかよ! あんたはあいつに捨てられたんだぞ!!』
――なんでその男の名前を呼ぶんだ。
よりによって、僕らをここへ閉じ込めて、あんたと僕を貶めた相手にすがるんだ。
僕やパルシヴァルじゃなくて、そいつを憎めよ。そいつを罵れよ。
わかってくれよ。わかってくれよ。
なんで僕ばっかりお母さんの心に寄り添って、お母さんは僕のことをわかろうとしてくれないんだ。
そう言うと、母はムクっと上半身を起こした。
昔は美しかったくせ毛の茶色の髪も、今はパサパサとして、汗と涙で肌に張り付くと、おぞましい何かしか見えない。
『……あんたも、私を責めるんだ』
這いずるような声に、僕は身体が固まる。
そのまま、僕は床に押さえつけられ、母に馬乗りされた。
跡になるほど爪が手首に食い込む。みぞおちを膝で蹴られる。
吐き気がして、血の気が一気に引いた。
『あんたのために私はたくさん犠牲にしてきたのに。家族も、宮廷での居場所も、王都の屋敷も、あんたのせいで全部私は奪われたのに。
私これだけ頑張ったのに! 愛されるためにすごくすごく頑張ったのに! なんで苦労してないあんたが全部壊すのよ!
これ以上何を奪うって言うの!? もう何も奪わないでよ! むしろ私に感謝しなさいよ! この恥の子が!』
バシン! 痛みとともに頬を叩きつける音と、その言葉を聴いた瞬間、僕の頭の中で繰り返される。
――恥の子。
今までどうでもよかったその蔑称が、頭の中でガンガン響く。
そんな言葉になんの意味があるのか、とか、僕はそんな言葉では全然傷つかないとか、そう思っていたのに。
本当に突然、自分の存在が恥ずかしくなった。
さっきまで抱いていた怒りの感情はどこかへ消えて、自分ごときが怒りの感情を抱いたことが恥ずかしかった。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……』
何度も謝っても、母は殴る手をやめなかった。
むしろ、謝れば謝るほど、力は込められていく。
『泣いて謝れば許して貰えると思ってんの!? どれだけ私が傷ついたと思ってんの!?』
それから、母は僕の存在を無視するようになった。
あれだけ裸にしてくっついてきたのに、それがなくなった。
かと思えば、僕が何かをする度、これみよがしに大きなため息をつく。まるで僕の動きを査定するみたいに。
皿を流し台に置く、自分の指を見る。
輪郭が二重に見えた。まるで魂が肉体から外れているような感覚。流れる水の音が遠く、凍りそうなほど冷たい水も感覚としてない。
これは自分が動かしている体なんだろうか。今動かしているのは、僕じゃなくて、別の誰かじゃないだろうか。
ふと、誰かに見られている気がした。
視線を追うと、これみよがしに母が視線を逸らす。
……僕の体は、全部あの人に操られているんだろうか。
僕の心も、あの人によって操作されているんだろうか。
それとも、僕はあの人のものなのか。
存在自体を無視されて、しばらく経った頃だった。
夜、眠るのが苦手になってしまった。
あちこちの筋肉が強ばって、横になるといつも片足だけが痺れている。それが気持ち悪くて、何度も何度も寝返りを打った。
ようやく眠りにつこうとしたとたん、ギイ、と床がきしむ音がした。
『……母さん?』
体を起こすと、母が部屋に入ってきていた。
母は伸びきった前髪を垂らして、立っていた。
また泣き出すんじゃないかと思いながらも、ようやく自分を認識してくれた安堵に、僕は思わず声をかけた。
――かけてしまった。
母は何も言葉をかけず、そのまま僕の上に乗った。
『っ、やめて母さん! やめて! やめて!』
ものすごい力で腕を掴まれ、足を挟まれる。
酷く冷たい体だった。それがまた、恐怖を煽った。
痛い、怖い。殴られる、叩かれる。
恐怖に溺れそうになって、精一杯あがくけれど、まったくびくともしなかった。
母は、そのまま、僕に頬を寄せる。
『――様ぁ……』
甘く、猫なで声が、耳の神経を逆撫でる。
ぞわっと、鳥肌が立った。
これはダメだ、ダメだ、ダメだ。
何がダメなのかわからないのに、身体が必死に訴えてくる。
それなのに、身体がまったく動かない。
膨らんだ胸の下を撫でるように強制される。
母の独りよがりに耽溺した、恐ろしくおぞましい声が聞こえる。
母が僕の口に舌を入れた時、僕は母を突き飛ばした。
自分でも信じられないぐらいの力だった。
ガタン、と強い音がなった。
母のうめき声が聞こえたけれど、僕はそれに構っていられなかった。
ベッドから逃げて、裸足のまま、月光が届かない場所を走る。
逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ!
『待って、待って、待って!!』
つんざくような母の声が、後ろから聞こえてくる。
『私を置いていかないで、――様!』
心臓が耳元にあるみたいに煩いのに、あの男の名前で僕を呼ぶ母の声が、鮮明に聞こえる。
後ろを振り向くと、ランプを持って走る彼女が、ちらちらと見えた。
逃げなきゃ、隠れなきゃ。
もっと光が届かない場所に。もっと森の奥へ。もっと、もっと、もっと……。
――トゥール、いい子ね。
かつての母の声を、思い出す。
何も怖いことがなかった、あの日々を。
『……っ、あ、あ』
今の彼女は、もう、僕の名前を呼ばない。あの男の名前で呼ぶ。
その名前は、嘘だったのか。
僕はあなたの息子であるアルトゥールじゃなくて、あの男の代わりだった?
僕は彼女の夫の代わりとして、生まれたのか?
だから恋人のように、夫のように、泣いているのを慰めて、否定しないで、怒らないで、言われた通りに彼女を抱けばよかったのか?
わからない。
なんで自分の体が、こんなふうに興奮しているのか。
怖くて怖くてたまらないのに、どうして、どうして、どうして。
『恥の子』
突然、その声が聞こえて、僕の足が止まる。
空を見ると、月がぽっかりと、僕を咎めるように登っていた。
――この世に、お前の
『……ああ』
そうか。
だから恥の子なのか。
聖書に載っていた、『近親相姦』やら『姦淫』やらが、頭の中ですとんと落ちる。
そうか。……そうか……。
がたん、と、僕はその場で倒れた。
『僕が生まれたこと自体が、間違いだったのか……』
目を覚ますと、僕は修道院の医務室に運ばれていた。
パルシヴァルが、森の奥で意識を失っていた僕を見つけてくれたらしい。
僕を追いかけていた母は、足を滑らせて、頭を強くぶつけたらしい。そのまま、今も眠りについている。
……ただ。
母は深い眠りについたまま、女の子を出産した。
その子は産声をあげる前に、息を引き取ったらしい。
ぐるぐると渦巻く何かを、肚に隠す。
疑問に思ったこととか、憤りとか、どす黒い何かを。
そうしなければ、今度こそ捨てられると思った。
――愛情と暴力は、悲哀と脅迫は、同じところにあるのか。
そうでもしないと、ヒトの心は、引き止められないのか。そうしないと、捨てられてしまうのか。
『子どもをカウンセリングに使うんじゃない!』
伸びやかで、怒りを発露する子どもの声とともに、僕はハッと我に返った。
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