エピローグ 祝福と未来

 頬に伝った涙を拭いもせずクルサートルに手を握られたまま、セレンは何か言おうと口を動かした。しかしそれもうまくいかずに、泣き顔を隠そうと眼を伏せる。

 間もなく昼食を終えた人が街路に多くなってくるだろう。この状態を往来で衆目に晒すのはセレンに可哀想だ。

 クルサートルがさっとを周囲を見回すと、フィロと目が合った。クルサートルの視線に気づくなり歓喜を顔から消したフィロは、「さっさとしろ」と顎で道の先を示し、二人が向かっていたのとは別方面に去った。

 珍しく気を利かせてくれた友人に胸中で礼を言い、クルサートルはセレンの手を引いて駆け出した。


 ***


 修道士たちが教会学校に出ている昼の聖堂は静寂に支配されている。陽射しを和らげる彩色硝子と石造りの壁のおかげで内部の気温は低く、走って熱を持った身体を緩やかに冷やしてくれる。

 手を引かれたまま入り口横の廟に駆け入ると、セレンは背中を壁に預けた。自分たちの足音が反響して堂内に広がり、また鳴り止んでいくのが分かる。だがそれよりも、耳のすぐそばで聞こえる息遣いの方がずっと大きい。

 みっともなく泣き出してしまってどんな酷い様だろう。しゃんとしなければと自分を叱るのに、叱咤とは逆に雫が止めどなく頬を濡らして伝う。走り出す前に握られた右手はまだ解かれておらず、自由を許されたもう片方の手を翳して泣きっ面を隠そうと試みる。

 だがその手首に、自分のものではない指が添えられる。

「セレン」

 顔を覆おうとした手を無理にどかそうとはしない。ただ、抗わないのを確かめてからそっと下ろされる。

「さっきの質問の答えが聞きたい」

 ごくりと喉が鳴る。口は中途半端に開いて、唇は声を出す前に動きを止めてしまう。

「急がなくていい。でもちゃんと、セレンの言葉で聞かせてくれないか」

 まっすぐに見つめる深い碧色の眼。どんな高圧的な役人や、どんな残忍な輩に睨まれたとしても怯みはしないのに、どうしてこの眼の前では身が竦んでしまうのだろう。

 昔からよく知る常に強い意志を宿す瞳が、今はこれまで見たこともない切望を湛えている。

 ――言わなくては。

 想いを口にしなくては。問い詰めず、急かさずに待ってくれているのだ。澄んだ海と同じ碧色はいまにも泣き出しそうな切迫と共に、揺るがぬ覚悟を示している。意気地なく臆病なままこの瞳に映り続けてはいけない。

 うまく息が気管に通らない。たったひと言伝えるだけなのに、見つめ続けられてますます喉が干上がってしまう。叶うはずがないと思っていた願いを前にして、体が言うことを聞いてくれない。

 それでも、目を逸らしたくはない。この先、自分たちの周りがどう変わるかなんて分からないけれど、この真摯な瞳にだけは嘘をつきたくない。

 乾き切った喉を何とか奥から震わす。切れ切れで、声になったのかならなかったのか、それすら自信がない。

 でも次の瞬間、目の前の切羽詰まった顔はほころび、険しかった瞳が和らいだ。

「ありがとう」

 吐息とともに、心からの喜びと安堵を含んだ声音が鼓膜を震わし、セレンの身体は温かな腕に包まれた。

 嫌われず、避けられたりせず、災厄の前と同じ関係でいられるならそれで十分だと思っていたはずだ。それなのにこれは一体どうしたことだろう。

 夢なのではないか。こんなこと錯覚だとしてもおかしくない。うつつの出来事かまだ半信半疑で、恐る恐る相手の背中に自らの腕を回してみる。

 すると自分を包み込んでいた腕の力がさらに強まった。その感触は確かで、何度目を瞬いても無くならない。

 たちまち視界がまたも滲んでくる。きつく抱きすくめられたまま、セレンは止めどなく涙が溢れてくるのに任せて目を閉じた。つい先ほどまで、聞こえる距離からとても遠いと思っていた相手の心音が、いまはセレンの内まで響くようで、自分のそれと入り乱れる。

 どれくらいそうしていたのか。やっと鼓動が静まってきたころ、クルサートルが抱擁を緩めてセレンの顔を覗き込んだ。

「口づけを、しても?」

 耳が働かない。

 いま、何を訊かれた?

 言われたことがすぐには分からず、数秒言葉を反芻して、ようやく意味を理解する。途端、頭が真っ白になった。

 なんと答えたらいいのか、答えを述べても許されるのか、疑問と迷いで固まってしまう。しかし硬直したセレンをまじまじと見たまま、首を傾げて無言で問いが繰り返される。

 半ば呆然としたまま、やっとのことでぎこちなく頷く。頷き返されてまたも気持ちが昂りつつあるのを覚えながら、影が落ちるのを感じて瞼を閉じた。

 優しくて、落ち着いた口づけだった。

 以前に一度だけ経験したときのような不安や惑いは無い。ただただ愛おしさだけが互いの間で交わされて、安らかに癒やされていく。

 短い触れ合いの後にどちらからともなく離れると、微笑を浮かべたクルサートルと顔を見合わせた。その表情はとても穏やかで、そしてこれまでにないほど嬉しそうで、たったいま実現した幸福が少しずつ実感されてくる。通じた想いが現実味を帯びてきたらピンと張っていた緊張が解れて、強張っていたセレンの顔も自ずからほころんだ。

 すると頬を濡らしていた雫がそっと拭われ、指の感触に思わず目を瞑る。すぐに指が離れたのがわかって瞼を開けようとした時、再び呼吸が奪われた。

 先ほどとは全く違う。今度は軽い触れ合いでは済まされない。感情が押し寄せて激しく求め、そして訴える。愛しくて大事だと、言葉を介さずに、それがセレンの全身を満たして伝わるまで時間をかける。

 こんなに気持ちを露わにする人だっただろうか。幻覚ではないかとますます疑う。永続的な苦しさから解放された反動のような、だが希求し続けてやっと出会えたものをまた失くさないよう恐れてしかと捕まえるような。切望が叶わぬ苦しみに耐えきれなくなる寸前のところで、ぎりぎり己を保ってきたみたいに。

 あまりに強い想いを受けて驚愕と無意識に生じる喜悦とがないまぜになり、感情の錯綜が勢いを増して止めきれなくなりそうだ。しかし重なり合う様々な気持ちが完全に困惑へと変わる寸前、柔らかな感触がふっと離れて混乱から解放される。だが安息も束の間、やっと息がつけたと思ったらすぐさままた捕まえられて、甘やかな感覚に思考が蕩けてしまう。それがまだ飽き足らないと繰り返される——何度も。

「く、クルサー……トルっ……」

 必死に保っていた意識が理性という足場の縁まで追い詰められたところで、セレンはクルサートルの胸を押し返した。

「ちょ……っと……待って」

「待つ?」

 口調は疑問形なのに全く疑問に聞こえない。

「待ったさ。もう十分すぎるくらい待ちすぎた」

 そして今度は頬に軽い接吻を受け、セレンの肩がびくりと小さく上がる。

「でもっ……仕事、行かな……」

「サボる」

 まだ二人とも帰っていないことにすればいい、ときっぱりと。先ほど昼食を食べながら留守中溜まった業務を後回しにできないと言っていた男はどこに行ったのだ。

「許せ。これでも抑えてるんだ」

 問う間を逸したら、溜息混じりに言葉が落ちる。

 確かにセレンも互いの想いが同じだと分かって未経験の嬉しさがあるのは本当だ。しかし急転にもほどがある。先を危惧して願うことすら許されるか分からなかった望みがいきなり実現して、セレンの頭は明らかになった真実に頭がまだついていってくれていない。常に暗くわだかまっていた苦悩が解け、代わりに生まれた温かな気持ちをどう表現したら良いのか、言葉ひとつすら分からないのに。

 これで抑えているのなら、き止められなくなったらどうなるというのだ。

「でも、セレンが嫌ならやめる」

 許容量を超えそうで熱を持つ頭がくらくらし始めたと思ったら、耳元で囁かれる。

「セレンは、嫌か?」

 その聞き方は、狡い。

 肌のやわいところに吹きかかる息がくすぐったくて身が縮こまる。拒みたいわけではない。嫌か嫌じゃないかと聞かれたらそんな答えは分かり切っているのだけれど。

「そういう、ことじゃ……」

「なら良かった」

 満足げにひとこと、これまで離れていた分を埋めようとでも言うのか。抱き締める力がいっそうきつくなる。

 ある意味メリーノより直裁だ。やっと気持ちが知れた瞬間からここに至るまで、ようやく流れた涙とともに、喜びは段々と静かに満ちていっていたはずなのに。いまや加速度が高すぎて溢れてしまいそうだ。

 こうも密着していてはばくばくと大きく打つ鼓動が向こうにも伝わっているのではと、恥ずかしさに耐えられず何とか声を絞り出す。

「でも、ここ、聖堂だからっ」

 自分の力だけでは止められそうにない。かの存在を理由にするのは不敬な気もするが、頼めるものが他にない。

「だから?」

 不意打ちで額に口づけられて、最後の一手は言葉途中で軽くあしらわれる。

「神の……」

 御前だから、と必死の言い訳をするのに、クルサートルは余裕の笑みで正面から向き合う。

「神の?」

 顎をツイと上げられ、「それなら、」と不敵で挑戦的な、射抜くような眼差しで見つめられる。

「見せつけてやればいい」

 この瞳と向き合ってはもう逃げられない。

 またも唇が重なり合い、セレンは意識が朦朧となるのに負けて瞼を閉じた。

 驚きと戸惑いが眩暈を起こしてもつれた中に、確かにあたたかな喜びも灯っていて、その心地良さで止めきれないのなら自分も同罪か。

 まるで酩酊したようにもう思考回路が働かない。きっと壊れてしまっているに違いない。

 その証拠に、抑えるのも表現するのも、止めたらいいかも望んだらいいのかも、自分だって感情の制御はどうしたらいいかわからない。

 だがそれと同時に、触れる温もりを感じながら名づけ難い安心感が満ちていく。

 ――ここに居て、いいんだ。

 どこの者でもないと思い続け、足場をいつ失っても仕方ないとずっとどこかで覚悟していた。自分の出自が分かったあともケントロクスでは所詮よそ者で、どうしても除けなかった己の不確かさ。

 それがいま、自分をしかと包む腕の中で、見る間に確たる存在かたちを与えられていく。

 神が自分をセントポスから出し、記憶を奪った理由の一つはきっと、彼に会うためだ。

 自分を受け入れ、自分でいさせてくれる、無二の安らぎを与える存在ひとと。

 ――休日をあと一日、延ばしてもいいですか。

 姿の見えぬ存在にそう問いかけながら、セレンは余す所なく与えられる愉悦に身を任せてしまう甘えに対して、赦しを請う。


 昼過ぎの陽光が色硝子を通して、二人に淡い光を降り注いでいた。


 ――完――


 あとがきに続く。

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