結 月色の瞳に涙

 ケントロクスの市門にほど近い繁華街を、旅装の男女が肩を並べて歩いていた。遠方より帰ったばかりらしく、帰郷時に特有の心地よい疲労と安堵が顔に浮かんでいる。

「アナトラで随分と引き止められてしまったな」

 教会の鐘を聞いて男の方が尖塔へ首を回した。女性もそれにつられて視線を上げる。

「レリージェがなかなか帰してくれなかったからね」

「しかし出張がこれだけ長引いて、体の方は大丈夫なのか?」

「問題ないよ。むしろ教会を空けすぎたからミネルヴァ先生に悪いことをした。子供たちと駆け回ってなくて体もなまっている気がするし」

 セレンは両手の指を絡めて大きく伸びをした。歩いているだけの運動だと、元気のいい子供の遊びに付き合う時の充足感は味わえない。

 気持ちよさそうに腕を伸ばすのを見て、本当に回復したようだとクルサートルも安心する。

 神々の脅威が大陸中央を襲った日、聖堂が崩れるすんでのところで、セレンはクルサートルに抱えられて聖地セントポスを脱出した。一歩遅ければ爆風と瓦礫の餌食になっていただろう。まさに奇跡と言うべきで、神々がセレンの無事を護り、聖地から見送ったとしか思えない。

 カタピエ領内に入ると、すぐにメリーノと姉の派遣した部隊が二人を市街へ運ぶ馬車と共に出迎えた。その後は領主姉弟の図らいで迅速にケントロクス教区への帰郷が叶ったというわけだ。

 こときれたように見えたセレンだったが、医師が診たところ眠りについているだけで体に異常はなかった。ただ、一日、二日と経っても目覚めず、脳神経が侵されてしまったのではと危ぶまれた。

 ミネルヴァをはじめとして人々が昼夜を問わず交替でそばについていた。そしてようやくセレンの意識が戻ったのは、アンスルを囲む四つの海が大潮になった日である。月の満ち欠けと調和して、寄せる波と共に四神がセレンを返したのだろうか。

 以降は早々にセレンも参加しての事後処理が進んでいる。もっと休んでは、と心配する声もあったが、セレン自身がじっとしていられないと希望したし、その実、方々への連絡や折衝はセレン無しに進められなかった。

「でもレリージェがすんなり了解してくれて良かった」

「あの令嬢、了承するのは早かったのに、セレンを手放すのは遅かったな」

 やれやれと嘆息するのを耳にし、セレンは答えの代わりにはにかんだ。

 つい先ほど、セレンとクルサートルは東のアナトラで風の神の珠に関する交渉をして帰ってきたところである。レリージェに必ず返すと約束した珠は、依然として聖地セントポスにある。

 セレンが目覚めたあと、クルサートルは繰り返し悔恨を表した。あの災禍は自分が不遜にも四神を試し、珠を奪っていったのが原因ではないかと。その結果、セレンの身を危険に晒し聖堂までも崩壊してしまったことは、何をもっても償えない罪ではないかと。

 自責の念に苛まれ謝罪を重ねるクルサートルだったが、セレンは否定した。

「間違いなく、四神の怒りはクルサートルの計画の前から……いや、父の暗殺の前から始まっていたのだと思う」

 子供の頃、父親は繰り返し世界の状況に対する悲嘆を口にしていた。実際のところ、歴史書を紐解いても公国同士の争いや教会内の軋轢はセレンが生まれる前から生じている。そしてその程度が増していくごとに、水害や暴風などの天災も頻発していたと記録があるのだ。

 現に幼いセレンがケントロクスで見つかったときは、各国間の争いと並行して天災が重なり、孤児や難民が急増していた頃だ。人々がセレンをそうした混乱に追い詰められた者の一人と解釈したのも、人々の愚行の末に惨状が激化していたからである。

「四神の珠だけでは不十分だったけれど、珠を集めたのは正しかったと私は思う。教庁の書にあった通り、この世界の混沌を沈めるために集められるのを待っていたのかもしれない」

 四神は慈悲を垂れるだけではない。繰り返される災厄は、愚行をやめない人間を戒めながら、早く在るべき状態に戻るよう警告を発していたのではないか。平穏を取り戻すためには、総帥の石、すなわち四神の上に立ち天を統べる大神の石が必要だったわけだが、いずれにせよ四神の珠が必須であることに変わりはない。

 実際、セントポスの聖堂が崩れたあとも不思議な盤面は無傷で残った。奇妙にも瓦礫がそこだけを避けたらしい。四つの珠は何事もなかったように窪みに嵌ったままである。しかし平らかな面は一変していた。深淵な闇は曇り一点もない鏡となって天空を明瞭に映し出し、その中央には銀に縁取られた石が大空に浮かぶ満月の如く光っている。

 同時にケントロクス教庁の地下にあった盤も、セントポスの鏡面と同様に澄みきった面を取り戻していた。聖地で知れる世界の状況が共有されていたのである。そこからするとケントロクスはセントポスの補助を正当な役目として持つのだと確認される。

 不可思議な二つの聖物を誰がどうやって作ったのかはわからないし、人知れぬ古から両者ともに存在していたのかもしれない。今となっては真相を知る由もないが、両者は今後もきっと人々の心を律してくれる。

「あの日からもう何日も経つが、アナトラに行っている間も自然災害の報せが届いていないあたり、やはりセレンが言っていた通り珠はしばらくセントポスに置いたままがいいのかもしれないな」

 クルサートルは、市門で二人の帰着を待ち受けていた側近からの留守中報告を思い出す。どれも瑣末事ばかりで、こんなことのために面倒臭い、という抗議が側近の顔に遠慮なく表れていた。

 珠が戻ってから平穏が続いている。ひょっとしたら当初は全ての珠がセントポスに在ったのではないか、というのがセレンの考えで、クルサートルにも異論はなかった。現在は大破した聖堂に代わり、珠を保護するために当座凌ぎの廟が準備されている最中である。

 神への感謝は修道士らによって捧げられている。アナトラへ行く前にセレンも赴いたし、今後も定期的に訪れることになっている。

「人々にとって神に対する礼は、感謝だけではなく自戒としての意義も大きいと思う。神は語らないから」

 それでも目に見える珠を前にすれば先の災禍がまざまざと頭に浮かんで、聖典だけを空事と同じに唱えるより強く、道を踏み外さぬよう再認させられる。

 セレンは、拠り所となる「もの」が重要だとレリージェが言っていたのを思い出していた。拠り所としてだけでなく、戒めとしても形ある姿の力は強い。

「珠が何処にあればいいのかとか、絶対の正解は私たち人間には分からないよ。でも今はこの状態が最善なのかも。幸いアナトラ以外の三つの珠も、セントポスに置くので良いとカタピエもフラメーリも同意してくれたし」

「彼らの了承もありがたいが、一番はセレンの石が四つの珠と一緒にあることだと思う。総帥がセレンに託していなかったらと思うと……英断に頭が下がる」

 切迫した状況での総帥の行動は、前々から予測していた事態だったからなのか。いずれにせよ、総帥がセレンに銀の石を授けずにいたら間違いなく賊の手に渡っていただろう。大神の至宝は永久にセントポスへ戻らなかったかもしれない。

 そうしたら本当に救いはなかった。総帥は命を賭して任を全うしたのである。

 クルサートルの嘆息を聞いて、セレンはふと持ち続けていた疑問を口にした。

「でも母は、どうしてケントロクスへ私を連れてきたのだろう」

 教会関係者が襲撃者だったのなら、教会の中心教区であるケントロクスにセレンを置いていくのはかえって危険が大きいのではないか、とセレンは首を傾げる。

 クルサートルは街路の曲がり角にケントロクス教庁への道標が立っているのを見遣る。ことの経緯を聞いてから自分も同じ問いに対して答えを探していた。

 そして幼き頃の父、先代秘書官の様子を記憶の中に辿り、思考の鍵穴に嵌めてみる。

「もしかしたら父はセレンが総帥の娘だと薄々気がついていたのかもしれない。それを総帥の方でも察していたのではないか」

「そうか……それなら母がクルサートルのお父上を頼ったのはあり得る」

 直属秘書官であるクルサートルの父を含め、総帥は妻子の存在を外に明かしてはいなかった。しかし秘書官は総帥を繁く訪れていたのだから、聖堂にある総帥以外の気配を察知してもおかしくない。

「そういえば秘書官様がいらした後は食事が少し豪華だった。菜園では無理な肉魚や乳の加工品があったり」

「子供の発育には重要な栄養源だな。父は妻子の存在を黙認していたか」

「私の父との間で口に出さずに了解していた可能性が高いね」

 それならば、教会内の暴徒からセレンを守ろうとするとケントロクス以上に安全な場所はない。

 セレンを引き取ると一番に言い出したのはクルサートル本人の方が早かったが、思い返してみればクルサートルの父親も一切の拒絶を示さなかった。恐らく息子の発言がなくてもセレンを庇護していたのではないか。ともすれば秘書官なら、セレンの首にある銀の石を総帥本人から見せてもらったことがあったかもしれない。

 そして知っていたからこそ、敢えてセレンの素性について口を閉じて受け容れた――十分に説明がつく。

 幼い頃の「ひしょかんさま」と父の談笑が思い起こされ、セレンは心中で故人に謝意を述べた。

「でも父も母のことをいつまでも隠しておくつもりはなかったと思うよ。私が成長すれば隠し通すのも無理だろうし。多分クルサートルのお父上が黙って認めてくださったように、誰もが出自による隔てなく認め合う世界に変わっていくのを待っていたのではないかな」

「その総帥の願いもまだ叶ってはいないがな」

 含みのある物言いをして、クルサートルはくうを仰いだ。胸中の葛藤を読み取りセレンも言葉なくクルサートルに倣う。

 セレンが教会総帥の娘だという事実は、ミネルヴァおよび教会内のごく少数の人間にしかまだ知らされていない。先の災禍を経験しても、教会内部での不穏分子が取り除かれたわけではないのだ。総帥に反感を抱いた派閥がどれだけ残るか分からない以上、セレンの素性を明かしても待遇が良くなるとは限らない。セントポスでのセレンの行為も大っぴらにはしないでいる。下手をすればそれを聖堂倒壊の原因と言って、セレンを疎んでいた者たちが排斥を謀る危険性もあるとクルサートルが判断したからだ。

 かく言うクルサートルの立場も似たようなものである。毒から完全に回復したのち通常通りの業務に戻ったが、セントポスのその後について意見の割れる教庁内で、なおも教会組織の舵取りに苦戦している。

 恩寵と思われる奇跡は確かに現前し、人智を超えた災禍と救いはあった。それでも天の真意は依然として推測にとどまるしかなく、この先にどうすれば良いのか絶対的な答えを与えてくれるわけでもない。

 人に巣食う闇は外から見えない。払拭するのは困難だ。自然界に平穏が戻っても、人の問題が全て解決したわけではない。

 どちらからともなく言葉を口にするのが憚られて、二人は昼下がりの街の喧騒が沈黙を埋めていくのに任せて歩を進めた。自らの身の振り方ひとつで何かしら変わってはいくだろう。しかし周囲からの風は強く、足元は不安定だ。どうすれば良い方向へ風が変わるのか、願う在り方はあっても、その過程は蒙昧としている。

 いま隣にいる相手が望むのはどのような未来なのか。きっとこれからの進み方を考えているのだろう。そう思うのに、繊細な事情が絡んで軽率には訊けず、なんとなく顔を合わせずらい。

 その未来の中で、自分が相手にとってどう在るのかも――どうあって欲しいと望んでいるのかも。

 石畳の上で、示し合わせずとも揃う歩調は緩やかだ。けれど、この先も同じ歩みでいるだろうか。隣で歩けるだろうか。

 すぐ横にいるのに、胸を打つ鼓動が伝わる距離ではない。

 神の意図と人の心は同じだ。何を想っているのか、嫌悪も好意も拒絶も願望も、表からは掴み取れず、だからこそ不安と恐怖に襲われる。総帥がそうであったように、状況が真意の吐露を赦さず、押し殺す感情もいかに多いか。それでも――

 影を払うように、クルサートルが眼にかかった髪を払った。

「何かは変わるさ。今回の一件で考えを改めた輩も少なくないし」

 災禍を神の怒りと見て、態度を正した神官や諍いを中断した国もある。浄らかな鏡面の現れは、現在から変わりゆくやや先の世界を見せるのかもしれない。

「アナトラとフラメーリがその前兆だ」

「そう、だね」

 誰と名指しされてはいないが、先には乙女たちを助け、いまや災禍を止めた娘の噂が少しずつ広がり始めている。出会った娘たちは言う。素性の知れぬ彼女を信じ、自分を変え、救われたと。

 出所はアナトラのレリージェとセルビトゥの公女に違いない。最初に何が言われたのか知らないが、いずれにしろ噂はやや言葉を増やして伝わっていく。

 謎の娘を信じて手を取れば、違う未来が待っていたと。未知たる神を信じるのと同じく、向き合う相手を信じることから動き出すのだと。

 娘たちとの絆が少しずつ明るい予兆を生み出していく。どんな小さなものでもいい。変わるために必要とされるのは、きっと何かのきっかけなのだ。

 冴えわたる午後の青空を鳥が飛翔し、教会の尖塔へ向かっていく。時間は止まってくれない。そろそろ自分たちも旅の非日常に浸るのをおしまいにしなければ。側近の報告によれば留守中にフラメーリの公女からセレンへの言伝もあり、セレンはもう帰っていると勘違いした役人が修道院に伝えに行ったという。それにも早くに対応しなければならないだろう。

 日常へ戻っていこうと、普段通りの賑わいを見せる繁華街を抜けていく。すると前方の商店から馴染みの姿が街路に現れ、二人をみとめてその場で止まった。

「あら、これは」

「フィロ」

 商談だったのだろう。フィロは見本品入りらしき袋を提げた腕を組み、二人を出迎えた。

「長かったわね。いつ帰ってきたの?」

「昼前だ」

「うん。この間、フィロの教えてくれたお店でお昼ご飯、食べてきた」

 セレンの返事を聞くや、フィロは「おひるぅ?」と語尾を上げ、じっとりと問い詰める視線を寄越す。主にクルサートルに。

「珍しいこともあるものねぇ? いっつも食事の時間さえまともに取らないとかいう秘書官サマなのに、二人でゆっくりお昼ご飯だなんて。まっるで恋人同士みたいな」

「そっ……」

 こんな時に何を言うのか。まだ自分の立場は厄介であり、相手が教庁内での自分の今後の身の振り方を決めるのに苦労しているかもしれないのに。それに——どう思われているかも不確かな状況で、そんなクルサートルが答えに困るような発言をされてはいけない。

 しかしフィロを制止しようと咄嗟に挙げた右手は、宙で止められた。

「そうありたいと願ったら、許されるだろうか」

 固く握られた手の向こうに、碧い真剣な眼差しがあった。

「いままで哀しい顔ばかりさせてきたけれど、これからは」

 続く誓いは、揺るぎない。

「必ず、笑顔にするから」

 嘘のない碧の瞳にまっすぐ見つめられ、呼吸も鼓動も、全てが止まったように。

 波打つ自分の脈動が、触れた肌を通して相手のそれと混ざり合う。繋いだ手の温もりが、次第に自分の熱になっていく。

 やっと微かに震えた唇から言おうとした答えは、うまく音にならなくて。

 不器用にほころんだ頬に、一筋の雫が流れた。

 

 それは、輝く月と同じ色の瞳から、初めてこぼれた涙だった。



 ――エピローグに続く

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