終章

混沌と再生

 セレンの眼前で、四つの光が燃えるように立ちのぼる。

 神の姿は目に見えず、果たしてこの空間に在るのかどうか、その判断は人の範疇を超えている。しかし光が一つ灯るたびに身体に受けた苛烈な衝撃は、人間の理では説明できない。神経の末端まで支配する力が証する。

 確かに神々は四色の珠に力を秘め、アンスル大陸の中央であるこの聖地に集った。

 古来、世界を動かす水、風、土、炎は四つの神を主とし、時に恵みを、時に災禍を大陸にもたらしてきた。そして人智を超えた畏怖の対象は、珠を介してセレンに自らの実在を訴えかける。

 皮膚には擦り傷すらできていないが、痛覚なのか、麻痺なのか、形容し難い負荷を全身に感じる。人の領域には起こりえぬ力に立て続けに晒されて、自己が内側から侵食され、消失へ向かって朦朧と霞んでいくのではと、無知の畏れが生まれる。

 だが、まだ最も重要な祈りをの存在に届けていない。

 ここで意識を離しては、応えてもらえない。

 目の前にある力の具現をしっかりと視野に収め、四つの神に相対する。

 すると黒色を呈していた盤面が、ゆるやかに上へ膨らみ始めた。いや、膨らんでいるのではない。盤を覆っていたどす黒い汚濁が濃煙さながらに湧き上がっているのである。

 対角線上で柱を成した光の内部で、漆黒の闇がどんどん大きくなっていく。見つめているだけでえも言われぬ恐怖を否が応でも増幅させ、自我を保つのさえ難しくなる。逃げるのも眼を逸らすのも許さない。抗い難い吸引力で、形を成さない無限の闇へセレンを引きずり込もうとする。

 この盤は、世界を映し出す鏡。現前した闇は、大陸を蝕む混沌そのものだ。

 この世に生まれ落ちた人間の心が、いつしか疑心と欲に汚されていった末の姿がここに在る。慈愛と信頼を支えるはずの神の名が欺瞞で上塗られ、信頼とは真逆の謀略に満ちた道具と化していく。神に護られた大陸で、神の名の下に憎悪と怨嗟が広がる。負の感情を知った人間は、手を取り合うべき相手を忌み嫌い、排除しようとする。

 次第にしげくなる天災は、加護を授けられた人々の愚かしい行いに対する警鐘だ。自然の恩恵を分かち合えるさちに感謝するのを忘れ、互いの信を失った人々を戒めるための。

 輪郭なく不気味に深まる闇の黒が、烈しい四色の光輝に取り巻かれる。これ以上の混沌を許さず、封じ込めるが如く。

 聖地の外では、四神の脅威が外界からセントポスを護っている。神々は恐らく待っていたのだろう。同じ使命を担う自分たちの四つの形代がここに至り、混沌を鎮めるのを。

 そのために、迎える準備をしているのだ。

 体の内外にかかる圧に抗い、セレンは父から継いだ首飾りを胸の高さで握る。

 ――不在と、不敬をお赦しください。

 威厳ある自然が護るこの場所は、大陸をあまねく統べる神の領域。

 この地の主は、四神ではない。

 アンスルを護る神は、四神だけではない――セントポスは、その神々をの聖地だ。

 どうして忘れていられたのだろう。

が遣わす四つの神の庇護を受け、天に祝福された大陸が成った――その名はアンスル」

 父が繰り返し説き、母と共に幾度も朗誦した太古の伝説が、自ずから口からこぼれ出る。大陸に住まう我々の原初を綴った歴史は、はっきりとその存在を知らせていた。

 ――絶えることなく揺れる水面は、いったい何千回、何万回と黄金きんしろがねに色を変えたか。数えることもできぬほどの波が行き来した海を、いつしか「天」は四つに分け、四つの力に託したという。

 幼い頃に聞いた話は、言葉を変え、語る者を変え、聖典と祝詞の中にも現れる。

 大陸を囲む海の一つ一つに住まう四神は、この世を覆う全天からのめいのもと、大陸全土に恵みを与えたもう――ケントロクスの教会にミネルヴァの朗々たる誓いが響きわたり、修道士たちが応唱した。万物を統べる天の大神に恥じぬ行いを続けると。

 アンスル大陸を統べる天の大神こそ、セントポスにおける祈りの中心だ。

 自然界の水、風、火、土は時に荒くれ、混沌をもたらすこともある。しかし整然たる秩序を成し、調和し、恵みをもたらすのも本当だ。人間も、我欲と疑心に駆られれば殺戮に手を染め堕落の一途を辿りかねないが、顔を上げて進む別の道もある。

 神の応えは人々の耳に届かない。先に何があるか分からぬ不安はたった一歩すら怖くする。それでも、選び取った道の先で希望がきっと形になると、少しでも思えれば。応えがあるのだと信じる思いは、竦んだ足を踏み出させる。

 真心からの正しい行いに、神は恩寵を下される。そしてそのための一歩こそが、すでにもう――

 手のひらを開くと、銀に縁どられた珠に当たって四色の光が乱反射する。そのさまは厳かで震えるほどの畏怖の念を引き起こす。

 しかし手に触れた滑らかな感触は、これまでずっとセレンの共にあった。そしてこれまでと同じくいまも、セレンの心を和らげていく。

 ――感謝と共に、父に代わってこの地へお返し致します。

 天を示す石が無事にここへ帰れたのは、他ならぬ父が総帥たる自らの務めとしてセレンに石を託し、よこしまな手から護った結果である。そして父が授けたこの神の宝が、セレンを護り、四神の珠との絆を生み出し、ついにはこの地へ導いた。 

 盤の四点に燃える鮮やかな色彩はいっそう輝きを増し、主の訪れを待っている。

 ――自分の行いが本当に正しかったかどうかは、分かりません。

 一歩踏み出しながら、見えぬ姿に語りかける。

 行為の是非を己の基準で絶対的に測れるほど、人間は完璧にできてはいない。どこかで誤ったかもしれないし、誰かにとっては良くても、他の誰かを害したかも分からない。

 しかし迷ったとき、決めねばならないとき、常にミネルヴァの教えに従って、記憶の奥に眠っていた父の教えを辿って、良き方向へ正しく向かうと信じたことを。そうやってここまできた。

「これだけは、恥じることなく神の御前に申し上げます」

 月と同じ色の銀の瞳が、盤の中央をひたと見つめる。

 ――過ちを犯した愚かな人間には償いの機会を与え、心正しき人々の行いに加護を。どうか……

 セレンは白銀に輝く石を高く掲げると、盤上へ向かってふわりと放った。

 ――混沌を終結へ導き、再び安寧を……!

 真摯に、懸命に生きる人々が――自分の愛するかけがえのない人々が、安らかな笑顔でいられますよう。

 小さな石は白い輝きを放ちながら空を舞い、光の柱が囲む闇へ落ちていく。まるで聖画に描かれた羽のように軽やかに。

 その清純な煌めきが漆黒の触手に触れる。するとたちまち闇が膨れ上がって石に襲いかかり、銀の粒を飲み込んだ。

 ひと呼吸の間しか無かった。

 石が見えなくなった直後、烈しい閃光が闇を突き抜けて四方八方に照射し、暗澹たる色を取り込んで立ちどころに消し去る。かと思えば瞬く間に眩い輝きが盤上から溢れ出し、勢いを増してセレンの方へ迫った。

 体が動かない。盤を囲う四色の柱が白銀の光に溶けて見えなくなる。息もつけず声は奪われ、感覚が抹消されていく。

 光に呑み込まれる――

「セレン!」

 失おうとしていた知覚が、一瞬だけ留まった。

 遥か上、天蓋の向こうの空に、無数の星々に囲まれて銀に輝く月が見える。

 美しい煌めきに目を細め、セレンは意識を手放した。



 *



 ふわふわと宙に浮いているような気がする。

 身体が内側から温められて、四神の珠から受けた痛みも刺激も、それどころか肌が空気に晒されているかどうかも分からない。耳に届く微弱な音もなく、五感全てが働かない。

 それとももう、自分の肉体は自分のものではなくなってしまったのだろうか。

 今までいた世界ではないのかもしれない。瞼を閉じているはずなのに、煌々とした光に包まれているのが分かる。

 ――神のもとに行くのかな……

 それでもいい。

 全てを食い潰す闇は無い。代わりにこんな綺麗な輝きに満ちているのなら、できることは全うしたのだろう。

 外界が無音なせいか、頭の中で父の言葉が明瞭に響く。

 ――セレン、自分が正しいと思った道を行きなさい。神の前で、恥じないように。

 明澄たる光はしるしだと思える。感謝と畏敬の念に応えた神々が怒りを静め、傷つけられた世界が治癒される兆しだと。こんなにも浄らかで、柔らかな光に満ちているのなら、平和と安寧をもたらす世界が再び生まれるのだと。

 ――父さん……約束は、守れたと思います。

 大切な人たちがそこでまた笑っていられるなら、目を伏せずに神の前に立てる。自分が信じた行いに神の恩寵があったのだと、そう安堵しても赦される気がする。

 彼らに笑顔が戻ったのか確かめる術はもう、無いけれど。

 心地よい温もりはセレン自身をも癒していく。五感とは別の不思議な感覚で察知する。眩い光は太陽のような苛烈さではなく、明澄な月と同じ、静かで優しい輝きを降り注いでいると。それが見られたら、きっと安らかに両親のもとへ行けるだろう。

 セレンは瞼をうっすらと開けた。

 澄んだ碧い瞳と出会って、顔が綻ぶ。

 ――恩寵は、あったよ……

 笑顔であって欲しいと願った人は、柔らかに微笑んでいた。

 神は願いを聞き入れた。

「ありがとうございます……」

 全ての感覚が再び閉じていく。

 白銀の輝きに護られたまま、セレンの意識は絶えた。

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