神の恩寵(七)
見上げると、遠く高い円蓋の開口部が黒一色に染まっている。夜空の黒なら、その中の星々がほの明るい煌めきを降り注ぐはずだ。
あの闇は空ではない。外界を蝕み始めた混沌の黒だ。
手のひらの上には、珠の輝き。
臆することはない。
自分が世界の混沌に呑み込まれようと、必ずアンスルは再生する。
セレンは盤の縁に立ち、神々の珠を戴き頭を下げた。
*
カタピエ首都は時間を追うごとにセントポスからの飛翔物や濃霧が増している。メリーノと姉は夜闇が深まり始めても市街地に立ち、役人たちに指示を出し続けていた。
じわじわと広がる混乱を抑えるには為政者が落ち着かねば――気が逸るのを覚えて自ら戒めたとき、一人の役人が道を駆けながら「メリーノ様!」と呼び叫んだ。
「そのように騒いでは民が怯えるぞ」
「し、しかし大変です! 早急に市門へいらしてください!」
「どうした」
役人は息を切らし、額に汗を浮かべて訴えた。
「またも教会の人が……ケントロクス教庁からいらしたと!」
*
黒々とした色は、金属の錆びのように盤の縁までを汚し始めている。もうややもすれば縁をも越え、盤を溢れて部屋を、そして堂をも侵蝕してくるのではないか。
だが目を凝らせば、縁の上に周囲と色が違って見える点が在る――四つの溝はまだ完全には侵されていない。
セレンはサキアの珠をひとつ目の溝の上に翳した。表に刻まれた古の国の紋章がうっすらと浮かび上がり、内部から淡い水の色が漏れ出て光の球を作る。
そのまま真下へ降ろすと、水の球は音もなく溝に嵌まった。
その瞬間、青色の焔が激しく立ち上り、逃げる間もなくセレンの腕を包み込んだ。
*
途中で会った姉と共に市門へ駆けつけると、一頭の騎馬が止まっていた。メリーノに気づいた役人が領主の名を呼ぶと、馬の背中にしがみつくように騎乗していた男が重そうに頭を上げる。
「騎乗の……まま、失礼する……教庁から」
息をするのもやっとなのだろう。切れ切れに述べるが、最後の方は聞こえなくなった。しかし教会自治区との折衝を行う為政者であれば――ましてやセントポスに隣接するカタピエ国君主ならば、この相貌を見れば分からぬわけがない。上着を留めるケントロクス教庁の徽章に
「事前通告無しの非礼は承知で、許しを請う。セントポスへの……通行を」
「しかし、貴殿のその様子では無茶にもほどがあろう!」
蒼白な男の顔は死相と言ってもいいくらいである。馬に頼っても姿勢を保つのが難しいようで、ここまで走って来られたことすら信じ難い。どれだけ体に負荷をかけたのか、瞼にかかる黄瑪瑙の髪はじっとりと汗で濡れ、その下に見える目が苦痛で歪む。
「失礼ながら貴殿は明らかに瀕死の状態ではないか! いかにセントポスの総帥直属秘書官とはいえ、いまわの際という人間を通すわけには」
「頼む」
否定を遮った言葉は数秒前には無かった芯を持ち、深い碧の双眸に強い光が浮かんだ。
「私の大事な友人が、セントポスへ向かっているんだ」
*
焔かと思えた光はセレンの腕を焼くことはなかった。しかし青色に包まれた右腕は氷の中に閉じ込まれたように冷たくなり、たちまち皮膚の感覚を奪う。
神経が働かず、すぐに手を引くことすら叶わない。指先が再び動くようになるまでしばし耐えてから、セレンは盤の縁を右回りに巡った。教庁の盤と同じ位置に、珠の受け皿は配されている。
東の地、アナトラから託された腕輪を外し、新緑と同じ澄んだ緑の珠を安置する。
指を離す前に
腕は切り刻まれずにそこにあるが、突き刺す痛みが右手首を間断なく痛めつける。そこに左手を当てるとどくどくと激しく脈が打ち、腕をつたい鈍痛に変わって胴にまで及んでくる。
これが四神の訴えなのか。
主を呼び
*
「彼女と、同じ言葉を言うのだな」
我知らずメリーノは呟いていた。
分かってしまった。フラメーリで邂逅したとき、理性を失い激昂して斬りかかってきたのは誰が
烈しい怒りと一体になって彼女の胸を焦がしていた存在は、間違えようもない。
同時に、目の前にいるその本人が彼女に対して抱く感情も。
「時間が無い。頼む、一刻も早く」
こちらを怯ませる眼光が揺るぎない決意を示す。どんな理由で拒絶しようとも進んでいくだろう。瞳が宿すこの意志には、覚えがある。
彼女と同じだ。
「いいだろう。通行を許可する」
即座に男は礼を述べ、険しかった瞳に安堵が混ざる。それを見て取ると、メリーノはすかさず言い添えた。
「だがな、ひとつ忠告する」
男は馬を進ませようとしたのを止め、怪訝な視線を寄越す。その視線を受けとめ圧を持って見返した。相手が何者かを分かっておいて、これを言わずに通しなどするものか。
「次は、『友人』などと腑抜けた呼び方をしないことだ。掠め取られる覚悟をしておけ」
できうる限りの厳格な姿勢で言い放つ。すると瀕死の状態はどこへ行ったのか、苦痛に歪んでいた顔が一変してあからさまな不快を表した。
「――忠告、しかと聞いた」
返事はけして大きくはないが、よく通る。この上なく嫌そうに半眼でメリーノを一瞥すると、男は今度こそ馬に合図を出し勢いよく駆けて行った。
遠ざかる後ろ姿を見送りながら、清々した気分になっているのに気がつく。指示出しに戻るかと切り替えようとした時、姉がぽつりと呟いた。
「いいの? 発破かけちゃって」
「構わんさ」
少なくともこちらの嫌味に反論もできない男の程度など、たかが知れている。
「あんたも『友人』って言ってなかった?」
「まあ私は、彼女の前ではまだ、な。時機があろう? だがあれは恐らく長い付き合いだ。それでいて『友人』としか呼べない男に負ける気はしない」
しかも彼女に想われておいてあの体たらくだ。本人がいないところですら友を超えた呼称ができないようでは、先にも進めまい。せいぜい親友止まりだろう。そう気づいた時に後悔でもすればいい。
勝ち誇って悦に入っている弟を横目にちらと見遣ってから、姉は騎馬が向かった道の先を眺めた。
「まあ私に言わせれば、せいぜいあんたは『愛人』止まりだね」
「なに?」
「こんなところで偉そうに批評する前に、自分が助けに行けって話だよ」
間が抜けた声で「あ」と硬直する弟を
貴人はさっぱりと顔を上げると、衛士や役人の群れに向かって檄を飛ばした。
「さああんたたち、ぼけっとしてる暇はないからね! お嬢さんとあの若いのが帰り着けるよう、セントポスから市までの道を死守しな!」
集まった衆は呆然と立ち尽くす領主を気にも留めず、威勢よい
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