神の恩寵(六)

 白い石造りの聖堂は、どの教会自治区の聖堂よりも遥かに厳かだった。テッレのような広さもなく、カタピエの古聖堂が有した飾り彫刻もない。四方を石壁に囲まれただけの間だ。しかし彩られた玻璃から射し込む光は色を帯びて互いに反射しあい、無地の石床や壁に宝石のような煌めきを描き出す。

 無駄なものを排した堂は心を他へ逸らさせず、ただひたすらにひとところへ想いを向かわせる。

 静謐な空気、古びた石の匂い、身を包み込む靴音の反響――その全てが身体に染み付いたものだった。

 入り口の反対側、奥の壁近くに燭台を戴いた台がある。それが目に入った途端、祭壇に向かって立つ父と母の姿が見えた。

 錯覚は鮮やかすぎて、呼びかけようと喉が震える。

 激流が押し寄せるように、自分の中に絶えずあった空洞が埋められていく。

 記憶の向こうにあった遠い昔、この聖堂が立つ小さな聖地が幼い自分の世界の全てだった。菜園で植物を育て、両親と慎ましやかな食事の卓で談笑する。思慮深い父が教会の暦とこの世の理を説き、賢い母が星の読み方と文字を教えた。慈愛と倫理を二親から聞き、三人で神に祈りを捧げる日々を繰り返した。

 同年代の友人もおらず、門の外に出ることは固く禁じられていたけれど、寂しいとも物足りないとも思わなかった。書庫には天井までの棚に本がたくさん詰まっていたし、父が昔に旅した様々な土地の風景や、母と出会った街の暮らしを教えてくれる。活き活きとして魅力的な父の話しぶりはどんな物語よりも面白く、母が口ずさむ調べは鳥の囀りより耳に心地よかった。

 この土地で両親以外を見たことはない。唯一の例外として、定期的に外から人が来た。すると父は決まって、「秘書官様だ」とにこやかに腰を上げる。ただしそのたびに人差し指を口に当て、けして聖堂に入らないように、心の中だけで静かに神にお話しなさい、と告げて聖堂の入り口へ向かうのだ。

 「ひしょかんさま」が帰るまで、セレンは母と二人で家族の間に籠り、父の言いつけ通り黙って神に話しかけた。壁を隔てて話し声が何を言っているのかはわからなかったが、時々穏やかな笑い声もある。それが聞こえると安心して、セレンは目を瞑ったまま、父を笑顔にしてくださったことに対して神に感謝を述べたのだ。

 「ひしょかんさま」が帰った後には、普段より少し豪華な食事になった。

 ただ、「世の中は神に顔向けできない方へ進んでしまっているね」と、父の顔が少しだけ曇るのが寂しかった。


 

 聖堂は、白石の床を毎朝磨いていた幼い頃と比べてずっと狭く見える。セレンはぼうっとする頭で扉を離れた。体は強張っているのに、意識せぬままに足が奥の祭壇へと身廊を進んでいく。

 自分の背より高かった祭壇も、いまは手をついて見下ろせる。教庁の遣使が内部を掃除しているのだろう。無人になった年月の割には薄い埃の層を、そっと手のひらで拭う。透き通るような石の面にセレンの顔が映った。

 父が最後に祈りを捧げていた祭壇だ。

 


 突然の出来事だった。

 祈りの間に扉を叩く音が響き、セレンは垂れていた頭を上げた。父を見ると、いつも朗らかな顔が見たことのない険しい目つきで扉を睨んでいる。「ひしょかんさま」ではないのだろうか。疑問を口にする間もなく、父は下げていた首飾りを外してセレンの首にかけると、セレンの名を呼んできつく抱き締め、すぐに立ち上がって出て行こうとした。

 その時だけ、後を追わなければいけないと思った。だが振り返った父はセレンを止めた。

「信じて前へ進みなさい。セレン」

 祈りの時と同じ、厳かだが深く響く優しい声。

「泣くのは嬉しい時だけにとっておくんだよ」

 常と変わらぬ笑顔でそう言うと、トン、とセレンの肩を軽く押した。長い衣が翻って父の顔が見えなくなり、代わりに母がセレンを受け止め家族の部屋に走り入る。

 母が部屋の鍵を閉めたのとほぼ同時だった。

 父の名を呼ぶ怒号、罵声、呪詛――「ひしょかんさま」ではない。セレンが聞いたことのない人々の猛々しい叫びが続き、この静かな地には一度もなかった、あってはいけなかった叫喚が石の堂を震わせる。

 父の声は聞こえたのかどうかも分からなかった。金属が高く鳴った直後、重いものがぶつかる鈍い音がして壁が揺れた。即座に母がセレンの耳を塞ぎ、布を被せて視力を奪った。喉がひくついて声が出ない。そのまま抱き上げられてすぐに冷たい風が裸の踝を冷やす。裏口から出たのだと直感的に分かった。

「目を瞑ってお祈りしていて」

 息を切らしながら母が囁く。体が不安定に揺れる。荒い呼吸を真横に聞きながら、セレンは必死で母にしがみついていた。

 どれくらい走ったのか。馬車か何かに乗ったのか。恐怖に駆られていたせいなのか、意識が保てていなかったのか、記憶が曖昧でよく分からない。

 次にセレンの視界が晴れたのは知らない場所だった。暖かな太陽はなく、夜の薄闇に包まれていた。星々の明かりが辺りを照らし出す中で、家の周りにあったのと似た石の碑がすぐそこにあった。

 月を背にした母の顔は、逆光になってよく見えない。しかしおぼろに見えた優しい微笑みが、泣きたくなるほど哀しそうだった。

「セレン、一人でも神に恥じないように進みなさい」

 母の柔らかな手が頭を撫でた。

「生きて。そうすればきっと神がお護りくださるから」

 慈しみと悲哀と悔恨とが混ざり合う。その眼が何を言おうとしているのか、分かりたくないのに分かってしまう。

 ――やめて。行かないで。

 喉元で言葉が張りつく。

 言いたいのに、声が出ない。

 母がきつく、痛いくらいにセレンを抱きしめる。力強いのになぜかとても儚く思え、それでも他の何よりも優しく、温かかった。

 長い時間そうしていた。

 流れ星が煌めいたとき、母は吐息と共に腕を緩めると、セレンの額に口づけた。

「セレン――愛しているわ」

 それきり、セレンの意識は途切れた。


 

 父と母と並んで立った場所で一人、祭壇を見つめる。本来なら燭台の火に温められるはずの石が、いまは冷たい感触で過ぎた出来事を伝えてくる。

 意識が飛んだのは物理的な力によるのか、薬によるのか、それとも衝撃の大きさに幼い自分の心が耐えられなかったのか、もう分からない。だが過去は目を覚めた後の記憶からは断絶されて、意識の下の奥の奥まで深く沈められていた。毎日幾度となく聞いた教会の暦と、最後に呼ばれた名前――両親の授け物を除いて。

 忘れてはいけなかったのに、きつく閉じてきてしまった記憶。

 セレンは祭壇の中央まで手を滑らせた。この滑らかな面もかつて、父の血でどす黒く塗られたのだろうか。

 平らかな石を撫でる指が小さな溝に引っかかる。溝から指を離し、幼き日にここを出てから一時たりとも離さなかった銀の首飾りを外した。

 あまりに悲痛な終焉を迎えた幸福な時間。五感を蝕む残虐な惨劇は、瞬く間に心を凍らせた。きっと無意識に封じ込めることで自分を守っていた。

 ケントロクスでの新しい生活の中で、安寧と大切な存在を得た代償として、忘れることの許されない記憶まで失ってしまっていた。

 思い出した現実は震えを呼び醒まし、喉を詰まらせる。

 しかしいまの自分には、まだできることがある。

 ——セレン、泣くのは嬉しい時だけにとっておくんだよ。

 泣くべきは今ではない。外界を知らず、目も耳も、心すら塞いで自分を守った子供の時からは変わった。外に出て多くの出会いを授かり、様々な感情を知った。

 いまの自分には、自分自身だけを守るしかなかったあの頃とは違い、守りたい人がある。

 銀で縁取られた石が祭壇の面に光を放つ。父が常に身につけ、祈りの際にのみ隠れていた服の下から引き出されて明るく輝いた月の色。しかし家族の前でだけ見せた宝石が唯一、祈り以外で取り出される時があった。

 その時の父の仕草に倣い、銀の石を盤の溝に静かにあてがう。

 すると祭壇と向かい合った壁面に白色の輪が広がり、石壁の一部が扉の形を成して奥へずれていく。

 かつて父が言っていた。銀に縁取られたこの石を受け継いだ者だけが立ち入りを許されると部屋だと。そうやって代々の総帥がアンスル大陸全土の安寧を確かめ、実現するべくこの部屋で祈るのだと。

 セレンは祭壇を過ぎて、石壁が開けた間に踏み込んだ。そのまま薄暗い室内の奥まで迷わず進む。

 真円の部屋の中央にあったのは、教庁が持つのと同じ形の盤だった。しかしこちらの盤面は教庁のものよりもずっと濃い闇で覆われ、見つめた者を捕らえていまにも底なしの深淵へ引き摺り込んでしまいそうだ。

 囚われたら最後、瞬く間に精神を食い潰すだろう。

 しかしセレンの白銀の瞳は、その混沌をひたと見つめた。

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