神の恩寵(五)

 地鳴りが短い間隔で足元を揺らし容赦なく平衡感覚を奪う。駆け上っていた道に突如亀裂が走り、セレンはすんでのところで地割れを跳び越えた。

 進むごとに豪風は激しくなり、爆炎によって生じた火の粉や砂塵が風に混じって周囲に飛散する。向かい風に逆らい疾走する中、それらはしっかりと目視できるほどの大きさになってセレン目掛けて飛んできた。

 火傷と打撃を覚悟して腕で顔を護る。しかし熱にも石礫いしつぶてにも当たることなく、熱風だけが左右の肩を撫でて通り過ぎた。

 これまでも何度か似たような場面はあったが、セレンの身体は無傷だ。アナトラで風雨の影響が減じた時と同じく、珠がセレンを護ってくれているのだろう。

 天に伸びるどす黒い柱から吹きだす火焔の舌がほぼ頭上に近づき、雹が地面を撃ち始める。ただでさえ走って息が上がっているのに、前方の煙が厚くなり、そのうえ濃霧までもが立ち込めてきた。鼻腔に入った塵に咳き込み、喉がひりつく。

 これ以上、汚濁した空気を肺に吸い込むと危険か。意識を失うのを回避すべく息を止め、さらに袖で鼻と口を塞ぐ。

 勢いに任せて濃霧を突っ切ろうとした時だ。

 ――あれか。

 蜃気楼でぼやけた視野の中、道が辿り着く先に門らしきものが見えた。間違いない。セントポスだ。

 目標物が見えたら苦しかった息が吹き返すような気がする。セレンは一瞬だけ足を止めると、弾みをつけて一気に加速した。



 

「これは……」

 セントポスの門まであと数歩というところで、上を仰いで立ち尽くす。

 遠目から円柱形に見えていた煙と焔は、間近にすると現実には起こり得るはずのない様相を呈していた。轟々と唸りをあげる竜巻に炎が蔦の如く筋状に組み込まれ、火先ほさきから四方へ火の粉を撒き散らしている。それだけならまだ現実味があるかもしれない。あろうことか炎だけでなく氷までもが茨さながらに鋭い切先を見せながら、火の蔦と交差して螺旋状に上へ伸びているのだ。

 その熱と冷気が入り混じった異様な大気が身体に迫る。猛烈な風圧で少しでも油断すれば後退りしてしまいそうだ。

 竜巻からは朱と半透明の粒子が無秩序に吹き出しているのが見てとれた。落下してきた粒がセレンの足元で硬い音を立てて弾ける――炎と氷に包まれた砂塵が落下の衝撃で火の粉と氷粒を飛ばすのだ。それらが見る間に大きさと勢いを増し、かなりの高度から遠くへ飛んでいっている。

 この世の理においてはあり得ない惨状。火と、水と、風と、土の全てが一体となり、セントポスを守護して外界の何ものをも近づけまいと猛威を奮っている。

 だが厚い層の向こうに、聖地はある。

 セレンは四つの珠を載せた手のひらを胸の高さで止め、礼をとった。

 ――いま、そちらに参ります。

 首から下げた銀の飾りが珠の一つに当たり、カツンと小さく鳴る。

 その直後、パン、と破裂音がしたかと思うと、セレンの目の前で火焔と氷の渦が裂かれた。そして布を裁断するように地面から上方へと左右に層が分かれていく。

 あっという間の出来事だった。裂け目はセレンの背丈よりやや高い位置で終わりになり、セントポスの門がその向こうにある。さらに先に見える白亜の建物が聖堂か。

 これは、神の招きか。

 驚きで呆けている暇はない。セレンは改めて一礼すると、開かれたに飛び込んだ。層をくぐり抜けて門の中へ走り入り、そのまままっすぐ伸びている道を進む。

 一歩入ってしまうと、外の惨憺たる状況が嘘のようだった。見上げれば外から見た層がセントポスを丸く囲う形で上空高く立ち昇っている。層の中では稲光や氷の筋が絶え間なく閃光を発しているのだが、脅威から逃れた内部から眺めると建物の壁や天井の模様を見ているようで、まるで現実味がない。セントポスには降り注ぐ火の粉も砂塵もなく、空気は高山で吸うよりもさらに清く澄みわたっている。煙で苦しくなっていた肺が急に楽になり、風雨に眼を守る必要もない。

 セントポス自体の面積は実に狭い。門からほどない位置に聖堂は建っていた。

 セレンは両側に花が咲き誇る石の道を踏みしめていった。外の音は全く聞こえず、風の揺らぎもない。外界に溢れていた刺激が消滅し、五感の機能が失われた心地になる。

 異界と言うに相応しい、神の地。無為な言動を慎ませる空気は荘厳でありながら穏やかで、初めて踏み込んだ者も分け隔てなく受け容れる。

 だがその平安な空気とは裏腹に、セレンの鼓動は急速に激しくなっていた。

 未知の場所へ来た不安とは違う。何が起こるか予測がつかない恐れでもない。えもいわれぬ興奮が抑えようもなく膨らむ。

 聖堂の門前へ至り、扉を見上げた。門扉の上部を飾る半円状の枠内で、アンスル大陸の図上に立つ四神の像が満月の輝く天を仰ぐ。

 鼓動はもう、耳が聞こえなくなるかと思うほど大きくなっていた。震える指先を石の扉に当て、名伏しがたい感覚がじわじわと身体中に広がるのを覚えながら、手に力を込めた。

 冷やりとした空気が頬を撫で、薄暗い堂がゆっくりと姿を現す。

 その全貌が目に入ったとき、セレンの全身に鞭打つような衝撃が駆け巡った。

とう……さん……」

 空白だった記憶が鮮明に蘇る。

 総帥は、殺されたのは――自分の父だ。

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